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親
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食事を終えると、菊子は両親とともに防音室へ向かった。その後ろには蓮の姿もある。
両親は蓮の姿に少し驚いていたようだが、女将も大将も公認だという蓮を、殆どこの家はおろかこの国にすらいない両親が口出しすることではないと思ったのだろう。黙ったままだった。
黙認して、黙っておこうということだろう。それに音楽を生業にしているというのは、同じ音楽をしている両親にとっては嬉しいことだった。
防音室のピアノは、アップライトピアノというヤツで、あまり部屋も広くはない。棚にはクラシックやピアノ譜がずらりと並んでいたし、CDも沢山あるがそれは殆どがクラシックやオペラのものだった。
暗い表情のまま菊子は、そのピアノのふたを開ける。そしていすに腰掛けると、両親に向かって一礼した。
「お願いします。」
だが両親の表情は変わらない。薄く笑顔を浮かべている父親と厳しい目しか見えないマスク姿の母親。
母親は目しか見えないが、背は低いが美人だと思う。だが菊子はどちらかというと父親に似ている。父親も身長が高く、手足が長い。それに準じて手も大きく指も長い。ピアノ向きな手だった。
やがて菊子はピアノを弾き始め、すぐ歌に入った。
聴いたことのあるアリアだ。だがこの曲は難しい。高音だけではなくある程度のテクニックも必要になる。だが菊子の歌はそれをカバーするくらいの表現力がある。
このアリアを歌っている女性は、娘を殺そうとしている母親なのだ。それを見事に表現していて、蓮はぞっとした。本当に殺されるかと思うような気迫があったからだ。
やがて歌を終えると、菊子は少し暗い表情になった。これから何を言われるのかとびくびくしていたのだ。
「菊子。その歌い方は誰に習ったの?まさかこの方に習ったんじゃないでしょうね。」
マスク越しの少しくぐもった声で、母親は聞く。この方というのはおそらく蓮のことだろう。急に話を振られて、蓮は驚いたように母親をみた。ずいぶん小さな人だ。ずいぶん見下ろしてしまうような体勢になってしまう。
「違います。」
「あー。しかも何か、誤魔化している歌い方に磨きが掛かってるし……。言っておくけど、表現力だけじゃだめなのよ。何?あの高音は。音程も合ってないし、高音部分は叫んでただけじゃない。」
ずいぶんな言いようだ。それを止めるのが父親の役目だろう。そう思っていたのに、父親も口を挟む。
「その歌い方では、コンサートで「金返せ」だな。ピアノもミスは三回。ピアニストとしてもだめだ。練習してたのか?」
すると菊子は下を向いたまま、口を開く。
「正直、練習は殆どしてません。三年生で忙しい時期だし、店のこともあるので……。」
「バンドの練習はしてるんですか?えっと……。」
「蓮です。」
「蓮さんね。こんな歌い方でロックなんか歌えるの?」
いい加減にしろ。と言いたいところだが、一応両親だ。そんなことを言って嫌われたくもない。
「歌えてますよ。歌ってなければ、たぶん発声も出来なかったでしょうから。」
確かにそうだ。最近夜な夜なバンドで歌っている。ずっと歌っていなければ、声も出なかっただろうにある程度の声が出たというのは、練習のたまものだろう。
「ロックね……殆ど聴かないけれど、どんな曲なのかな?」
「菊子。CD持ってきてくれないか。」
暗い表情の菊子に、蓮は声をかけられない。「平気か?」とか「気にするな」とか今は言えないのだから。
席を立って菊子は防音室から出て行く。その後ろ姿に、母親はため息をついた。
「全く……あんなレベルじゃ、外国に行っても恥をかくだけだわ。」
「外国?」
その言葉に蓮は驚いたように母親をみた。
「親子競演の話があるのよ。そこそこ歌えるし、少しレッスンすれば何とかなると思ったんだけど……。」
「人前に出るには、学校に入れた方がいいと言っただろう。」
「だって普通学校へ行きたいって言い張るんだもん。あの子。本気で料理人なんかになるつもりかしら。」
「何かなんていうなよ。俺の父親の仕事だぞ。」
「だってさ……言っちゃ悪いけど、昔からの仕組みかもしれないけどさ、体の良いモーテルみたいなものじゃない。ちょっと食事が手の込んでる。そんなところでくすぶってるより、あたしがまだ現役のうちにデビューさせた方がいいわよ。」
ずいぶん自分勝手な両親だ。蓮はそう思いながら、その会話を聞いていた。しかしまだ蓮の関係までは口には出していなかったからか、彼には矛先が向いていない。まだ他人で傍観者なのだ。
少しして菊子は一枚のCDと紙を持ってきた。それにはコードと歌詞が書いてある。
「英語ね。ずいぶん下品な歌詞だこと。」
おそらく母親は自分の思っていることを隠したくないという人なのだ。確かに外国ではそういう人の方が好まれる傾向にあるが、この国の人には理解されないかもしれない。だからこの国にいるつもりもないのだろう。
コンポにCDを入れて曲を流す。決まった四曲のうちの一曲。あえてハードなロックにしたのは、菊子の反抗心からかもしれない。
「……いい曲だが、何を言っているのかわからないな。」
「発音がしっかりしていないからよ。ヤク中なのかしら。このボーカル。」
すると父親はピアノのいすに座る。そして、コードと歌詞だけしか書いていないその紙を前に、コードを鳴らしながらアドリブを入れた。
「……。」
一度しか聴いていないのに、その曲になったようだ。これだけで一曲として音楽を発売できそうな感じにもとれる。
「菊子。練習の通りに歌いなさい。」
すると菊子は、そのピアノに合わせて歌う。さっきと表情が全く違って見えたのは、おそらく蓮だけではない。さっきまで菊子を否定していた、母親もそう思っていたはずだった。
「……。」
曲が終わり、父親は薄く笑みを浮かべたまま菊子に言う。
「高音のピッチがまだ甘い。それから、ロングトーンは音程をしっかりさせろ。ビブラートで誤魔化すな。そうだな……こういう曲調なら、ビブラートは使わない方がいいかもしれない。どんな編成なのかは知らないが、それが嫌味にとれる場合もある。」
「はい……。」
やはりこういう曲でも、菊子を誉めることはないのだ。これでは自信喪失になるのは当たり前かもしれない。
「……あの……。」
ついに我慢の限界だ。蓮は口を挟んでしまった。
「何かしら。蓮さん。」
「さっきの曲、悪くないと思うんですけど。」
すると父親は笑いながら言った。
「そう。悪くない。さっきのアリアも悪くはない。だがそれを聴くのは客で、評価するのも客だ。表現力だけで足を止める客はいるだろうが、立ち止まらない。君は音楽で食べているならそう思わないかな。」
「……そうですね。」
「百人聴いて、千人に絶賛されなければプロにはなれない。私もね、そして英子もずっとそんな世界にいるのだよ。」
「……。」
言葉に詰まってしまった。確かに彼らは音楽のプロなのだ。最前線でいるために、自己努力を惜しまず、人脈も大切にしているのだろう。
「菊子もその世界に?」
「本人次第よ。でもこんなに手を抜かれたんじゃ、それも叶いそうにない。ロックだって中途半端ね。いつステージがあるの?」
「三日後です。」
「間に合うのかしら。」
菊子の表情がさらに暗くなる。アリアでもロックでも否定され続けていたのだ。もう自信がないのかもしれない。
「間に合わせますよ。」
蓮の言葉が菊子の顔を上げさせた。
「蓮……。」
「三日後、もう帰国されるんですか?」
「いいえ。コンサートはこれから。四日後はちょうどコンサートなんだけど……。」
「蓮さん。」
父親はピアノのいすから立ち上がると、彼を見上げる。
「自信はあるのかな。」
「えぇ。足を立ち止まらせますよ。ロックもパンクも、歌が中心じゃないから。」
「……大した自信だ。英子。リハの時間をずらしてもらおう。」
「あなた。」
「良いじゃないか。私はジャンルにこだわらないよ。いつかしたあのロックバンドとの競演は、とても楽しかった。ジェフは今でも連絡があるのだよ。」
「ジェフって……あの?」
「そう。あのジェフだ。」
「マジですか?俺、ずっと好きで。」
「あいつはギタリストだぞ。」
蓮はおそらく自分のペースに持って行こうとしていたはずだ。だが両親が上手だった。
菊子は呆れたようにピアノの鍵盤を拭くと、ふたを閉めた。
両親は蓮の姿に少し驚いていたようだが、女将も大将も公認だという蓮を、殆どこの家はおろかこの国にすらいない両親が口出しすることではないと思ったのだろう。黙ったままだった。
黙認して、黙っておこうということだろう。それに音楽を生業にしているというのは、同じ音楽をしている両親にとっては嬉しいことだった。
防音室のピアノは、アップライトピアノというヤツで、あまり部屋も広くはない。棚にはクラシックやピアノ譜がずらりと並んでいたし、CDも沢山あるがそれは殆どがクラシックやオペラのものだった。
暗い表情のまま菊子は、そのピアノのふたを開ける。そしていすに腰掛けると、両親に向かって一礼した。
「お願いします。」
だが両親の表情は変わらない。薄く笑顔を浮かべている父親と厳しい目しか見えないマスク姿の母親。
母親は目しか見えないが、背は低いが美人だと思う。だが菊子はどちらかというと父親に似ている。父親も身長が高く、手足が長い。それに準じて手も大きく指も長い。ピアノ向きな手だった。
やがて菊子はピアノを弾き始め、すぐ歌に入った。
聴いたことのあるアリアだ。だがこの曲は難しい。高音だけではなくある程度のテクニックも必要になる。だが菊子の歌はそれをカバーするくらいの表現力がある。
このアリアを歌っている女性は、娘を殺そうとしている母親なのだ。それを見事に表現していて、蓮はぞっとした。本当に殺されるかと思うような気迫があったからだ。
やがて歌を終えると、菊子は少し暗い表情になった。これから何を言われるのかとびくびくしていたのだ。
「菊子。その歌い方は誰に習ったの?まさかこの方に習ったんじゃないでしょうね。」
マスク越しの少しくぐもった声で、母親は聞く。この方というのはおそらく蓮のことだろう。急に話を振られて、蓮は驚いたように母親をみた。ずいぶん小さな人だ。ずいぶん見下ろしてしまうような体勢になってしまう。
「違います。」
「あー。しかも何か、誤魔化している歌い方に磨きが掛かってるし……。言っておくけど、表現力だけじゃだめなのよ。何?あの高音は。音程も合ってないし、高音部分は叫んでただけじゃない。」
ずいぶんな言いようだ。それを止めるのが父親の役目だろう。そう思っていたのに、父親も口を挟む。
「その歌い方では、コンサートで「金返せ」だな。ピアノもミスは三回。ピアニストとしてもだめだ。練習してたのか?」
すると菊子は下を向いたまま、口を開く。
「正直、練習は殆どしてません。三年生で忙しい時期だし、店のこともあるので……。」
「バンドの練習はしてるんですか?えっと……。」
「蓮です。」
「蓮さんね。こんな歌い方でロックなんか歌えるの?」
いい加減にしろ。と言いたいところだが、一応両親だ。そんなことを言って嫌われたくもない。
「歌えてますよ。歌ってなければ、たぶん発声も出来なかったでしょうから。」
確かにそうだ。最近夜な夜なバンドで歌っている。ずっと歌っていなければ、声も出なかっただろうにある程度の声が出たというのは、練習のたまものだろう。
「ロックね……殆ど聴かないけれど、どんな曲なのかな?」
「菊子。CD持ってきてくれないか。」
暗い表情の菊子に、蓮は声をかけられない。「平気か?」とか「気にするな」とか今は言えないのだから。
席を立って菊子は防音室から出て行く。その後ろ姿に、母親はため息をついた。
「全く……あんなレベルじゃ、外国に行っても恥をかくだけだわ。」
「外国?」
その言葉に蓮は驚いたように母親をみた。
「親子競演の話があるのよ。そこそこ歌えるし、少しレッスンすれば何とかなると思ったんだけど……。」
「人前に出るには、学校に入れた方がいいと言っただろう。」
「だって普通学校へ行きたいって言い張るんだもん。あの子。本気で料理人なんかになるつもりかしら。」
「何かなんていうなよ。俺の父親の仕事だぞ。」
「だってさ……言っちゃ悪いけど、昔からの仕組みかもしれないけどさ、体の良いモーテルみたいなものじゃない。ちょっと食事が手の込んでる。そんなところでくすぶってるより、あたしがまだ現役のうちにデビューさせた方がいいわよ。」
ずいぶん自分勝手な両親だ。蓮はそう思いながら、その会話を聞いていた。しかしまだ蓮の関係までは口には出していなかったからか、彼には矛先が向いていない。まだ他人で傍観者なのだ。
少しして菊子は一枚のCDと紙を持ってきた。それにはコードと歌詞が書いてある。
「英語ね。ずいぶん下品な歌詞だこと。」
おそらく母親は自分の思っていることを隠したくないという人なのだ。確かに外国ではそういう人の方が好まれる傾向にあるが、この国の人には理解されないかもしれない。だからこの国にいるつもりもないのだろう。
コンポにCDを入れて曲を流す。決まった四曲のうちの一曲。あえてハードなロックにしたのは、菊子の反抗心からかもしれない。
「……いい曲だが、何を言っているのかわからないな。」
「発音がしっかりしていないからよ。ヤク中なのかしら。このボーカル。」
すると父親はピアノのいすに座る。そして、コードと歌詞だけしか書いていないその紙を前に、コードを鳴らしながらアドリブを入れた。
「……。」
一度しか聴いていないのに、その曲になったようだ。これだけで一曲として音楽を発売できそうな感じにもとれる。
「菊子。練習の通りに歌いなさい。」
すると菊子は、そのピアノに合わせて歌う。さっきと表情が全く違って見えたのは、おそらく蓮だけではない。さっきまで菊子を否定していた、母親もそう思っていたはずだった。
「……。」
曲が終わり、父親は薄く笑みを浮かべたまま菊子に言う。
「高音のピッチがまだ甘い。それから、ロングトーンは音程をしっかりさせろ。ビブラートで誤魔化すな。そうだな……こういう曲調なら、ビブラートは使わない方がいいかもしれない。どんな編成なのかは知らないが、それが嫌味にとれる場合もある。」
「はい……。」
やはりこういう曲でも、菊子を誉めることはないのだ。これでは自信喪失になるのは当たり前かもしれない。
「……あの……。」
ついに我慢の限界だ。蓮は口を挟んでしまった。
「何かしら。蓮さん。」
「さっきの曲、悪くないと思うんですけど。」
すると父親は笑いながら言った。
「そう。悪くない。さっきのアリアも悪くはない。だがそれを聴くのは客で、評価するのも客だ。表現力だけで足を止める客はいるだろうが、立ち止まらない。君は音楽で食べているならそう思わないかな。」
「……そうですね。」
「百人聴いて、千人に絶賛されなければプロにはなれない。私もね、そして英子もずっとそんな世界にいるのだよ。」
「……。」
言葉に詰まってしまった。確かに彼らは音楽のプロなのだ。最前線でいるために、自己努力を惜しまず、人脈も大切にしているのだろう。
「菊子もその世界に?」
「本人次第よ。でもこんなに手を抜かれたんじゃ、それも叶いそうにない。ロックだって中途半端ね。いつステージがあるの?」
「三日後です。」
「間に合うのかしら。」
菊子の表情がさらに暗くなる。アリアでもロックでも否定され続けていたのだ。もう自信がないのかもしれない。
「間に合わせますよ。」
蓮の言葉が菊子の顔を上げさせた。
「蓮……。」
「三日後、もう帰国されるんですか?」
「いいえ。コンサートはこれから。四日後はちょうどコンサートなんだけど……。」
「蓮さん。」
父親はピアノのいすから立ち上がると、彼を見上げる。
「自信はあるのかな。」
「えぇ。足を立ち止まらせますよ。ロックもパンクも、歌が中心じゃないから。」
「……大した自信だ。英子。リハの時間をずらしてもらおう。」
「あなた。」
「良いじゃないか。私はジャンルにこだわらないよ。いつかしたあのロックバンドとの競演は、とても楽しかった。ジェフは今でも連絡があるのだよ。」
「ジェフって……あの?」
「そう。あのジェフだ。」
「マジですか?俺、ずっと好きで。」
「あいつはギタリストだぞ。」
蓮はおそらく自分のペースに持って行こうとしていたはずだ。だが両親が上手だった。
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