夏から始まる

神崎

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決断

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 不機嫌なまま蓮は「rose」にやってくると、そこには珍しい男が居た。久しぶりに会う男だった。
「蓮!」
「あー。中本さん。」
「聞いたよ。お前ここにいるんだって、本社に聞いてやっと知ったし。」
「言ってなかったからなぁ。」
「黙っていくなよ。バカ。」
 中年のといえる中本は、蓮の古い知り合いだった。彼にはずいぶん世話になったように思える。昔はAVの監督をしていたようだが、今は芸能事務所の社長をしているらしい。それもグラビアアイドルやAVのレーベルもあるらしい。
「どうしたんですか?今日ここに用事?」
「蝶子がさ、クラブのママしてるからって同伴頼んだんだよ。ちょうどこっちで新人の撮影があって、様子を見に来たついでだし。」
 相変わらずフットワークが軽いらしい。
「蝶子って懐かしい名前ねぇ。私たちの世代ならお世話になった人も多いでしょうね。」
 そう言って百合は微笑んだ。
「そうなのか?」
「相変わらずそう言うことに疎いヤツだ。お前くらい体力と度胸があれば、男優でもいけると思ったのにな。」
「無理。すげぇライト当たってて、みんな見てるところに勃起は出来ない。」
「神経質なヤツ。」
 笑いながら、中本はまたカウンター席に座った。
「あー。そう言えばさ、蓮さ、今度ベースを弾いてくれないか。」
「何の?」
「イメージの女の、曲を作ってもらったんだよ。でもスタジオミュージシャンが捕まんなくてさ。ベースは特にだけど、どうもイメージじゃないんだよな。」
「イメージ見てる人が音楽なんて聴いてないわよ。」
「ふーん。別に良いけど、金出るんだろ?ボランティアじゃしないよ。」
「お前なぁ。俺にいくら借りがあると思ってんだよ。お友達価格で頼むよ。」
「あーわかった。わかった。コード譜はある?」
 バッグからファイルを取り出して、一枚紙を取り出すと、それを彼に渡す。
「……スローナンバーか?」
「そう。元気いっぱいって言うよりも、清楚系な女だからな。」
「わかった。データにして送るわ。」
「頼んだ。」
 おそらくこれが目的だったのだろう。まぁいいか。蓮はそう思いながら、ステージに向かう。そしてその譜面を立てかけて、コードをベースに繋げた。そしてスイッチをいれると、その譜面通りに弾いていく。
「何か音も変わったか?あいつ。」
 中本の言葉に、百合は微笑んでいった。
「女が出来たのよ。」
「マジで?あいつに女?そりゃ事件だ。美咲を忘れさせたなんて、どんな女だよ。」
「高校生。」
「ロリコンか?」
「じゃないわよ。美咲は年上だったじゃない。」
 中本は煙草に火を付けると、煙を吐き出した。
「良い女だったんだけどな。美咲も。」
「仕方ないわ。バカだったんだから。美咲は出所したら引き取るの?」
「バカ言うなよ。そんなケチの付いたヤツ引き取れるか。嵐さんなら撮るかもしれないけど。明奈とか撮ってたじゃん。」
「……。」
 ベースの音が響く。曲は悪くないのだが、それに見合った作品になるのかはわからない。たかがイメージビデオの曲なのだから。
「こんな感じか。」
「あぁ。今すぐ録音しても良い感じだな。」
「冗談。もう少し練習してデータを送る。」
 新人のイメージビデオがどれくらい売れるのは知らない。だが聞いた人に違和感を持たせてはいけないのだ。
「ところで、蝶子って娘いたよな。」
「あら。そうなの?」
「会わせたいって言ってきたわ。」
「親が親なら、娘もそういう世界に入りたいのかしら。でも難しいんじゃないの?」
「そうだな。陰険なヤツが多い世界だ。自分が努力するんじゃなくて、人を蹴落としてのし上がろうとする奴らばかりだ。まぁ……そういう世界なんだから仕方ないが。」
「AV男優だってそうでしょ?数は少ないけれど、報酬は女優よりも相当少ないって話だし。」
「人間らしい生活をしたけりゃ、しない方が良いな。それか毎日出来るくらい精力があれば別だけど。」
 ベースをおいて、アンプのスイッチを切ると蓮もカウンター席に戻ってきた。
「蓮。そういえば彼女が出来たんだってな。良かったな。」
「まだ彼女といえるかどうかわからないな。」
 その言葉に百合が反応する。
「え?そうなの?キスしてたじゃない。」
「たかがキスだろう?それ以上のこともしてないし……。」
 その言葉に中本も百合も反応してしまった。
「マジで?どんだけヘタレなんだよ。」
「蓮。つきあってもうどれくらい経つってのよ。バカじゃないの?」
 そこまで非難されると思わなかった。呆れたように蓮はカウンターの中にはいると、コップに水をくんだ。
「仕方ねぇだろ?すれてねぇ女だし、こっちだって慎重になってんだよ。」
「だったらキスするのもやめたら?で、別の人に譲ってあげなさいな。ほら。いつも送ってくれる職人さんがいるでしょ?あの人、きっと菊子ちゃんを狙ってるから。」
「だからイヤなんだよ。」
 わがままな男だ。キスはするのにセックスはしない。言葉で言うこともなければ、恋人だと堂々とすることもない。この分だと、デート一つしたことがないのだろう。
「……とりあえず関係だけははっきりさせておきなさいよ。」
「何で?」
「菊子ちゃんも不安に決まってるでしょう?そんなヘタレだったら。」
「ヘタレ、ヘタレ言うな。」
「お前さぁ……アレか?美咲を根に持ってんだったら、もう忘れろよ。アレは常習犯だからな。」
 そのとき入り口から女性の二人組が入ってきた。
「すいません。二人なんですけどぉ。」
「どうぞ。お好きな席に。ほら。蓮。メニュー持って行って。」
 女が入ってきたことで百合は軽く音楽を店内に流し始め、蓮はメニューとコップに水をくんだもの、そしておしぼりをトレーに乗せるとテーブルに近づいていった。
「いらっしゃいませ。」
 背が高くて強面だが、女にはもてるのだ。帰ってきた蓮の後ろ姿を見て、女たちはひそひそと何か話しているようだった。
「これで二十一は詐欺だろ?」
「免許証を見るか?」
「まぁ……人生経験は二十一以上だな。」
 中本はそういって笑いながら、煙草の火を消した。
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