夏から始まる

神崎

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決断

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 コーヒーを飲みながら、菊子は時計を見る。そろそろ十六時だ。仕事は休んで良いとは言っていたが、どうしてもそんな気分になれない。どうしても店が気になるのだ。
「……。」
「どうした。ちらちら時計を見て。」
「……今日は休んで良いって言われて……。」
「急だな。どうしたんだ。」
「予約のお客様が今日は少なかったので、飛び込みもそこまで居ないだろうからって言ってました。」
「まぁ……高校三年の夏に、こんなに店のことばかりしてるのも味気ないか。」
 蓮もコーヒーに口を付けると、菊子の方を見る。だが彼女の気はそぞろと言ったところだろう。店が気になるのか、それとも違うことを気にかけているのか。それはわからない。
「……蓮さんも高校生の時は、遊んでいたんですか?」
「……どうだったかな。音楽ばっかりしてた思い出しかない。ほら。高校って秋に文化祭があるだろう?」
「あぁ。ありますね。」
「バンドを組んでギターを弾いていた。」
「ギター?」
「あぁ。ベースは元々弾いてなかったんだ。」
 そんなことも知らなかったのだ。本当に蓮のことを何も知らないのだと、菊子は少し暗い表情になった。
「どうした。暗いな。」
「何も知らなかったんだと思って……。」
 すると蓮は少し笑うと、彼女の頭を撫でた。
「違う場所で生まれて、違う環境だったんだ。それに歳も違う。知らないことが多くあるのは当たり前だ。それに引け目を追うことはない。」
「……蓮さん。」
「でもな、菊子。この間言ったよな?」
「え?」
「さん付けをやめろって。なぁ。菊子さん。」
「やめてください。何か……言われてくすぐったいです。」
 頭に乗せたその手をゆっくりと頬に持ってくる。そして指で少し撫でた。柔らかい感触が伝ってくる。そしてそれは首もとに下げられた。
「……本当にくすぐったいです。」
 ぐっと体を近づけると、菊子はそれを拒まなかった。そして俯いている顔を上げて、唇を重ねた。
 口を開けて舌を絡ませていると、菊子の手が蓮の首に回された。
 本当はずっとキスをして欲しかった。なのに恥ずかしくてはぐらかしていたのだ。
 唇を離すと、そのまま首もとに唇を寄せた。
 唇の感触とともにぬるっとした感触がして、思わず声が出た。
「あっ……。」
「……そう堅くなるな。そう。そのまま首に捕まっておけ。」
 そう言って蓮は菊子を抱き抱えると、ベッドに座らせた。そしてそのまままたキスをする。そのまま肩を倒すと、彼女は簡単に横になった。
「蓮……。」
「ずっとこうしたかったんだ。菊子。ずっと……。」
 そのときだった。テーブルの上の携帯電話が鳴った。それは菊子のものだった。
「すいません。お店からかも……。」
 菊子は体を起こすと、テーブルの上の携帯電話を手にする。
「はい……。はい……え?本当ですか?はい。わかりました。すぐに戻ります。」
 携帯電話を閉じると、そのまま彼女はバッグの中にそれをしまった。
「すいません。お店からでして……。」
「仕事か?」
「すいません。」
「謝るな。俺だって仕事でお前に会えないこともあるんだ。」
「……。」
「気にするな。今日だけじゃないんだから。」
「でも……両親が来る日が近づくんだったら、そんなにここに来れないかもしれません。」
「そのときは挨拶してやるから。」
「……。」
 すると彼女は首を横に振る。
「どうしたんだ。」
「両親は、祖母や祖父のような人ではないんです。祖母や祖父はとても奔放な人なので何もいいませんけど……。」
「だいたいわかる。帰国する度に、お前をテストするような両親だろう。」
 ゆっくりうなづいて、時計をみた。もう帰らないといけないだろう。
「……送るから。」
「ありがとうございます。」
「それから……女将に少し話をしたいな。」
「どうでしょう。今日は急な予約があったので、私を呼んだのだと思うんです。忙しいと思いますが。」
「五分で終わる。」
 そう言って蓮もバッグに携帯電話や煙草を持ち、そして立てかけてあるベースを背負った。

 家に帰ると、皐月や葵がてんやわんやで走り回っていた。それは二人だけではなくて、仲居もまだ私服のまま走り回っている。
「何があったんですか?」
「あぁ。菊子さん。あなたも手伝って。」
「え?」
「戸崎様が来るのよ。」
 戸崎の名前に、蓮の表情が一瞬で強ばった。
「戸崎様っていうと……いつも十名様ほどで来られる方ですね。」
「そうなのよ。いつもなら二、三日前に予約されるんだけど、今日はいきなり二十時に予約してくれっていうの。あーもう。食事も材料を今かき集めてて……。」
 すると蓮がぼそっという。
「相変わらずわがままなヤツだ。」
 それを聞き逃さなかった。だがそれを聞く暇はないかもしれない。
「蓮さん。やはりちょっと話をする暇はないかもしれません。」
「そのようだ。だが失礼する。」
 蓮はその言葉を聞いていなかったように、靴を脱いだ。
「蓮さん。」
「今日しかない。女将はどこだ。」
「山桃の間に。」
「こっちです。」
 二階が住居で、一階のみが店舗だ。その一番奥の部屋が山桃の間。一番いい部屋だった。床の準備をしても十人ぐらいなら余裕ではいるだろう。
 そこへ菊子は案内すると、やはりここに女将が居た。
「女将さん。」
「あぁ。ごめんなさいね。菊子さん。調子の良いことをいっておいて、結局戻してしまったわ。」
「……女将。」
 後ろにいる蓮に、女将は少し気後れしたように彼を見上げる。
「どうしました?文句でも言いに来たのですか?でもこれは菊子の仕事ですからね。文句を言うのは筋違いです。」
「文句なんて言いませんよ。ただ、俺は頼みがあってここに来たんです。」
「何ですか?」
 すると蓮は女将を見下ろすようにいった。
「今日の夜、菊子を外泊させたい。」
「……え?」
「良いところだったのを、邪魔されたから埋め合わせをしたいんです。」
「あらあら、そうだったのね。でも仕方ないと思いません?仕事なんですもの。あなたも仕事を放っておいて女にうつつを抜かすような男ではないと思ったから、菊子を任せたんですけどね。」
 だめだ。女将の方がとても上手だ。勢いだけで来ている蓮を気に入っているようだが、さすがに見切りを付けるかもしれない。
「今日しかない。二、三日したらこいつの両親が来るのでしょう?」
「そうね……。」
「既成事実を作りたい。両親に文句を言わせたくないので。」
「……そんなことで既成事実になるとお思いですか?」
「は?」
「処女を失ったからといって、それが既成事実には繋がりませんよ。昨今の女性はそんな女性ばかりです。まさか一度で妊娠するとでも思っているのですか?」
「そんなに簡単ではないでしょう。」
「だったら大人しく待っていたらどうですか?処女を失っても、非処女でも状況は変わりませんよ。菊子さん。その奥で床の用意をして、それから着替えてきなさいな。」
 強引に話を終わらせたところをみると、やはり彼女の方が上手だった。こんな客ばかりだからだろう。
 昔はコンパニオン代わりに、仲居に床を任せていたという事もあったからだ。やることはやり手婆と変わらない。
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