夏から始まる

神崎

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決断

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 生徒からもらったものはスタイで、男の子用しかなかったから薄いピンク色だと美香子は喜んでいた。立場的にお返しは出来ないが、今度の検診で、ちょっとしたお菓子をナースに言付けることを約束してくれた。
 すっかり夜も更け、食事をごちそうになった啓介はそのまま自宅がある団地に戻ってきた。
 電気をつけてエアコンをつける。そしてソファに腰掛けると、それにもたれ掛かりながら目をつぶる。妻の顔、息子の顔、そしてまだ幼い娘の顔を思い出して、今までの行いを悔やんでしまう。
 だが梅子を忘れられない。数日間セックスをしていないだけで本当に欲しくなるのだ。自分が贅沢になったような気分になる。今までセックスに対してそれほど期待をしていなかったが、彼女とするとどんどん欲張りになっていく自分がいた。
「……でもこのままじゃ……。」
 梅子はまた他の男とセックスをしているのだろうか。一度に何人もの男をくわえ込むことが日常だったと言っていたのだ。自分一人で満足できるわけがない。彼女がそれで良いならそのままにしておいても良い。
 だけど気になる。
 携帯電話を取り出して、啓介は電話をする。

 とにかく家には居たくなかった。特に陽生が居ないときは、母が迫ってくるのは間違いないのだから。
 家には家付きの部下は常にいるが、姐さんである母の言いつけは彼らにとって絶対だ。来るなと言えば来ないし、来いと言ったらものの何秒でやってくるのだから。
 武生は家を出ると、ワンショルダーのバッグから名刺を取り出した。そこには小泉知加子と言う名前の裏に店の簡単な地図が載っている。菊子が好きなスーパーの近所にあるようだ。
 公園を突っ切り、アーケードの方へ向かおうとしたときだった。見覚えのある長い髪が目の前を歩いていく。それは菊子だった。手には風呂敷包みがある。だがどこかへピクニックへ行くような格好ではない。おそらく蓮の所に行くのかもしれない。
 音楽を口実に、よく会っているようだ。それも店ではなく、別の場所で。
 南口へやってくると、菊子の背中が消えた。どうやらどこかで曲がったらしい。やはりあの男の所へ行くのだろうか。いらっとして武生は拳を握り、それでもその怒りをどこにもぶつけられないまま彼は繁華街を出て行った。
 そしてアーケードを歩き、少し奥まったところに目的の店があった。透明のガラスドアの店先には、鉄か、アルミか何かで作られた鶏のオブジェがある。そしてドアの上には「風見鶏」という看板があった。
「……。」
 何かいい匂いがする。コーヒーのようなスパイスのような匂いだった。
「ありがとうございます。」
 すると急にドアが開いて、女性の二人組が出て行った。そしてその後ろに知加子が見送りに出てくる。
「また来ますね。」
 すると女性二人組は笑いながら、紙袋を持って行ってしまった。美味しかったと満足そうだ。
「あら?えっと……武生君よね。」
 エプロンを付けているが、どこかの民族衣装のような格好はまだ払拭できない。
「はい。」
「約束通り来てくれたんだ。ありがとう。」
「ちょっと暇だったから。」
「中入りなよ。暑かったでしょ?食事した?」
 すると彼は首を横に振る。
「今日カレーなのよ。日替わり。ドライカレー食べない?」
 笑いながら、知加子は武生を店に入れた。店内は確かにカレーのスパイスの匂いとコーヒーの匂いがする。そして所狭しと、アフリカの雑貨がおいてあった。中には何に使うのだろうと首を傾げるものもある。
「今お客さんがはけたのよ。カウンター座って。」
 食事はあまり力を入れていないのか、テーブル席が二席と、カウンター席があるだけだった。
「メニューってこれだけなんですか?」
 日替わりとコーヒー、それからお茶、あとはオレンジジュースやトニックウォーターくらいだ。
「うん。うちレストランじゃないし。あ、でもコーヒーはアフリカから取り寄せてるの。美味しいよ。」
 日替わりが終わったら、食事のメニューはなくなる。あとは飲み物だけという事だ。少し気になるものがあり、武生は席を立つ。そして棚にある小さな香炉を見つけた。白い陶器の香炉らしいが、こんなものも売っているのだろうか。
「それも売り物。でもそれはあまり進めないわねぇ。」
「進めないものを売っているんですか?」
「業者がどうしてもって言ってくるから置いてるけど、呪いに使うような道具をおいてもねぇ。」
 呪いという言葉に彼は少し驚き、それを棚にしまった。
「さ、座って、座って。」
 そう言ってワンプレートに盛られたドライカレーとご飯、サラダの他にカップに入ったスープが置かれた。
「食後はコーヒーかお茶がつくけど、どっちがいい?」
「コーヒーで。」
「コーヒー好きねぇ。前もコーヒー飲んでなかった?」
 いすに座り、そのサラダにまず手を伸ばした。不思議な味のドレッシングだった。
「美味しい。」
「でしょ?自信あるんだ。カレーもサラダも。」
 お店が好きだという言葉が、真実だと思ってきた。
「でももう少し通りに面したところに店を出しても良いんじゃないんですか?もっとお客さんが来るだろうし。」
「あたし一人だもん。今でもてんてこ舞いの時があるわ。いつまで待たせてんだって怒鳴られてね。」
「人を入れればいいのに。」
「そうねぇ。募集はかけてんのよ。ほら。」
 そう言って彼女が指さした壁には、バイト募集の紙が貼られていた。だが集まらないのだろう。と言うか、ここにたどり着けないかもしれない。それだけみんなの認知度が低いのだ。
「ねぇ。武生君さ。」
「はい?」
「今、夏休みでしょ?」
「えぇ。」
「働かない?うちで。」
「え?」
 スプーンでカレーを乗せたのに、すぐにまた戻してしまった。
「縁だと思うのよね。こういうのも。」
「縁ですか?」
「そう。あのとき愛子さんから声をかけられて、あなたを買わないかって言って、さっさと日程が決まって、でもあなたを買うことはなかったけど、こうして店にまで来てくれた。」
「それは……たまたまです。」
「そう。たまたまでしょうね。でもそのたまたまが、人生を大きく左右することもあるの。あなたが体を売るよりも、よっぽど安い時給しかあげられないけど、あなた接客に向いてるわ。」
「何でですか?」
「興味なさそうなのに、笑顔だから。」
「……。」
 ばれてた。歳は伊達にとっていないと言うことだ。
「わかりました。考えておきます。」
「えぇ。あたしの番号は名刺に書いてあるから、いつでも電話してきて良いよ。」
「でも俺、もう夏休み一ヶ月もないんですよね。」
「あら。そうだったっけ。まぁいいや。うちも九月になったら、一度閉めるし。」
「閉めるんですか?」
「そう。仕入れに行くから。二ヶ月開いて、一ヶ月休み。そんな生活よ。」
 だから結婚できないのかもしれない。彼はそう思いながら、あの母が作った凝ったカレーでもなく、かといって梅子の家で食べた家庭のカレーでもなく、ただ不思議な味のするそのカレーを口に運んだ。
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