夏から始まる

神崎

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夏休み

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 八月にはいってすぐのこと。愛子という人妻に紹介してもらった女性に会うために、武生は街に出てきていた。
 武生たちが住む町から、ここは駅で二駅。それくらいなら知り合いに会うかもしれないからと、彼はその待ち合わせ場所をいつも息を潜めるようにずっとある古い喫茶店を利用している。
 薄暗い店内には静かにジャズが流れ、煙草とコーヒーの匂いがする。その匂いが好きだった。アイスコーヒーを飲み、彼は持ってきた本に目を落とす。それは猟奇殺人鬼の話だった。
 とある村で三十人近くを惨殺した男。その男の結末は、自殺だった。殺したい人間が居たのだろうが、ほとんどは罪のない女や子供だったという。
 ふと目を離して、彼は少し考える。
 殺したい相手はいる。自分の上で腰を振っている義理の母。威厳だけで言うことを聞かせようとしている父。ヤクザの世界に引き込もうとしている兄。だが今一番殺したいのは、菊子の隣にいるあの男かもしれない。
 と、そのとき喫茶店のベルが鳴った。そして靴の音が木の床に響く。そして彼の前に座った。
「武生君?」
 目を上げると、そこには女性が座っていた。だがその格好はとても普通の人とは思えない。まるでこの国の人とは思えないほど黒く灼けていて、麻のオレンジ色のシャツや、茶色のバンツ。そしてアフロヘア。彼は少なくともこんな人と会ったことはない。
「……あぁ……そうです。武生です。」
「あー。なんか愛子さんから聞いた。あ、すいません。あたしオレンジジュース下さい。」
 けたたましい女性だ。そう思って彼は少し気後れした。こんなにぐいぐいと来る女性が初めてだったからだ。
「早速だけどさ、あたし良いんだわ。愛子さんみたいなことしなくて。」
「え?」
「断ろうと思ったのよ。でもさ、もう話付けてるから会うだけ会ってって言われて。」
 セックスをしないならしないほうがいい。武生は少しほっとした。
 彼女はバックの中から煙草をとりだし、ちらっと武生を見る。
「煙草大丈夫?」
「良いですよ。どうぞ。」
 促すと彼女は一本煙草をくわえて、火を付けた。
「愛子さんが心配しててさ。あたしもう三十にもうすぐなるのよ。なのに処女なんて、おかしいでしょ?」
「……そうですか?」
「別に捨てられないわけじゃなかったんじゃないし、後生大事にとって置くものでもないし。けどねぇ。」
 その麻からのぞく胸はかなり大きそうだ。おそらく梅子よりも大きいだろう。
「何で男はセックスばっかりしたくなるのか、あたしにはそれの方が疑問だわ。」
「性処理ですよ。自分で抜くよりは、人にしてもらった方が気持ちいいし、女だってそうでしょう。」
「そうかもしれないわねぇ。だからうちの姉は必要なときしかしたくないって言ってたわ。必要なときにして、子供が今度二人目が出来るんだってさ。スゴくない?」
「それはまた……極端ですね。」
「でしょ?それはそれで寂しいなぁとは思うけど、残念ながらあたしはそれほど必要なくてね。それに夢中になれることもあるから。」
 キラキラしている気がした。好きなこと、夢中になれることがあるのは羨ましいと思っていたから。菊子が好きだと思っているのも、彼女が料理人になりたいと言っていたからかもしれない。
「夢中になれる事って何ですか。」
 ただの興味だった。恋やセックスよりも夢中になれることというのが、何なのか気になったのだ。
「仕事。」
「仕事ですか?」
「そう。お店をしててね。この街じゃないけれど、一人でしているわ。」
「他の国の民芸品とかですか?」
「そうよ。だからこんな格好。目立つでしょ?でも素敵って言われることもあって、店の宣伝にもなるし普段から着ているのよ。」
「夏は良さそうですね。」
「武生君も一度いらっしゃいな。ここから二駅の○○って街にあるから。」
「え?俺、そこから来たんですよ。」
「本当?アーケードの中にあるのよ。「風見鶏」って言うお店。カフェも併設してるから、コーヒーを飲みに来なよ。」
「えぇ。今度行きます。」
 そう言って彼女は名刺入れをバッグから出し、それを武生に手渡した。
 彼女の名前は、小泉知加子。三十が手前だとは予想外だった。武生よりも十個以上も年上には見えない。

 喫茶店のお金も知加子が払い、武生はそのまま彼女と別れようとした。そのときだった。
 知加子の携帯電話がなった。
「あ、ちょっとごめんね。」
 バッグからピンク色の携帯電話を取り出すと、彼女は通話ボタンを押した。
「もしもーし。あ、お父さん?どうしました?」
 話をしていて、彼女の表情が変わった。
「え?何でですか?意味わかんない。美香子が陣痛が始まったってのに、何で旦那さんと繋がらないんですか?もう学校だって終わってるでしょ?時間が時間だし。」
 確かにもう夕方をすぎて、暗くなり始めている。
 何かごたごたがあったのかもしれない。
「……わかった。あたしからも連絡してみます。えぇ。また連絡しますから。」
 そう言って知加子は電話を切ってため息をつく。
「ごめんね。変なことで。」
「……何かあったんですか?」
「姉が妊娠してて、もう臨月なの。さっき破水したっていってたから、もう少しで生まれるかもしれないの。だけど旦那さんと連絡が取れないって……。」
「仕事でしょう?」
「でももうこんな時間なのに。学校の先生ってそんなに仕事ばっかしてんの?意味わかんない。」
 そう言って知加子は携帯電話の電話帳を見て、旦那の番号にコールする。
 学校の先生というのに、武生は少し違和感を感じた。
「繋がんないな。困ったなぁ。」
「旦那さんは先生だったら、大変ですね。部活とかしてたら昼夜問わないでしょうし。」
「顧問していないっていってたわ。でも進学クラスの担任してるって言ってたわ。」
 ますます違和感が強くなる。武生は震える手を押さえながら、知加子に聞く。
「吾川先生ですか?」
「え?あ、知ってる?」
「担任です。」
「マジで?あー世の中狭いなぁ。」
 あの教師はおそらく梅子とデキているのだ。だから繋がらないのかもしれない。梅子が他の男を切っているなら、きっと吾川と一緒にいるのかもしれない。
 だが口が裂けても言えるわけがない。妻が出産で苦しんでいるとき、教え子とセックスをしているかもしれないと言う事実を。
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