夏から始まる

神崎

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夏休み

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 風呂から上がったあと、リビングにやってくる。すると大将は上機嫌に酒を皐月と飲んでいた。だが女将は少し機嫌が悪そうだ。
「もう一本だけですよ。明日起きれないんですから。」
「わかっているよ。でもめでたいじゃないか。なぁ皐月。」
 皐月は酒を飲みながら、同じ話を繰り返し機嫌良く聞いている。そういう仕事に就いていたからだろう。酒を飲むのも、話を聞くのもお手の物だ。
「菊子。たまには朝帰りをしてもいいんだぞ。」
 その言葉に、菊子の手が止まる。今日、初めてキスをしたというのにもうセックスのことを考えているのだろうか。
「菊子さんは今まで恋人が出来なかったのが不思議ですよ。」
「だな。背が高いとは言っても、男よりは高くないからなぁ。」
 その言葉に葵はすこし不服そうに頬を膨らませた。菊子は確かに葵はおろか、皐月よりも背が高い。それがコンプレックスだったのだ。
「帰りは送らなくてもいいんですよね。」
「えぇ。蓮さんがうちまで奥って下さるそうだから。」
「あっちも仕事があるだろうに、別にいてもいいんですけどね。」
「駄目だ。これから皐月は市場に同行して貰うし、起きれなかったりしたら困るだろう。」
 もう恋人だというのは止められないのだろう。もうあきらめて否定するのも面倒になってきた。
「菊子さん。きっとこんなに自由にできる夏は最後ですよ。しっかりおやんなさい。」
 髪を乾かしながら、菊子はへらっと笑った。
 祖母はおそらくこのイベントで、菊子がもう歌うことはないと思っているのかもしれない。菊子は料理人になりたいと言っていて、歌うことには消極的だったからだろう。それが蓮のために歌うのだと思っている。
 しかしそれは菊子も思うところだった。
 歌って声援を送られるのは、確かに気持ちがいい。だがそれがいつまでもできることではない。将来、職人になればそんなことは出来るはずがないのだから。
 プロで歌うというのは大変なことだ。それは母を見ればわかる。
「あぁ。そういえば、菊子さん。」
「どうしました?」
 髪を乾かし終わり、割烹着をはずした祖母が菊子に言う。
「昼間に剛さんから電話がありました。」
 父の名前に彼女の表情が固まる。
「お盆のあたりに、こちらでコンサートをするらしくて帰国するそうですよ。」
「……あーやばい。」
 課題の曲もあまり練習していなかった。ここのところばたばたしていたからだろうか。楽譜にも目を通していなかった。
「付け焼き刃で何とかなるものではないのでしょう?今から練習しておきなさいな。お店も昼なら自由も利きますしね。」
「はーい。」
 一気にやる気が失せた気がする。だがやらなければいけないのだ。そして両親の期待に添わなければいけないのだから。まぁ、最近は裏切ってばかりだから、期待はされていないかもしれない。
 自分の部屋に戻った菊子は、電気をつけると棚にある楽譜を取り出した。そして付箋をしてあるところのページをめくる。
「声が高いんだよなぁ。この曲。」
 主人公の母の役。娘を呪い殺す曲らしい。
 母の役なのに超絶技巧が必要なので、若手の歌手の登竜門になりがちな曲だ。音をはずしたり、声が出なかったりすれば彼女らの信頼は一気に消える。
「やるしかないか。」
 そういって彼女はその楽譜を机に置く。すると携帯電話がなった。それを手にすると、相手は蔵本棗だった。少しため息をつくと、通話ボタンを押す。
「はい。」
「何だよ。すげぇ不機嫌な声。」
 感に障るような笑い声だ。
「どうしました?」
「お前さ、今度こっちに来ることある?」
「忙しいので、行けませんね。」
「店は日曜日休みだろ?」
「用事があるんです。」
 すると彼は少し黙ると、彼女に言う。
「わかった。じゃあ、俺が行くわ。」
「は?」
「昼間は暇だろう?」
「あなたもお店があるんじゃないんですか?」
「お前のためなら行くし、それにうちは休みは日曜じゃねぇから。行く日が決まったらまた連絡するからな。」
「行きません。」
「お前が来なきゃ、店まで行くから。そんで、そっちの大将と女将さんに挨拶してやる。」
 深くため息をつくと、彼女はいすに腰掛けて言う。
「わかりました。詳しいことがわかったら連絡を下さい。」
「あぁ。じゃあな。」
 そういって電話を切る。しつこい男だ。あの専門学校は近くてよかったのだが、あの男が居るならやっぱりやめておこう。そして菊子は、鞄の中にあった専門学校のパンフレットを取り出した。
 だがどこもここから遠くて、通える距離ではない。この街を離れなと行けないのは少し引っかかるところだ。
 それに、蓮とも離れなければいけないのだろう。それが一番イヤだ。だが彼も会社員でここには派遣されただけだと言っていた。いずれはどこかへ行く。それが寂しいと思う。
「寂しい?」
 何でだろう。
 ふと唇に触れる。そうか。初めてキスをしたからそう思えるだけなのかもしれない。しかし後悔はしていなかった。彼にされて良かったと思う。
 菊子は席を立つと、部屋を出る。そしてリビングへ行くと、もう真っ暗で誰も居なかった。みんなそれぞれに眠ってしまったのだろう。キッチンへ行くと、少し電気をつけてコップに水を注いで、それをゆっくりと口に入れる。
 そのときリビングの入り口に誰か経っているのに気がついた。
「……。」
 それは皐月だった。彼はハーフパンツのジャージと、シャツを着ていた。さっきと同じ格好だった。
「皐月さん。」
「俺も水が欲しいんですよね。」
「コップは洗ったばかりです。どうぞ。」
 キッチンにやってくると皐月もコップに水を注いで一気に飲み干した。
「酒を飲むと、喉が渇くんですよね。」
「そんなモノなんですか。」
「ホストをしていたとき、いつもそうでした。だから水と酒を交互に飲むと、酔うのが遅くなるって先輩が言ってました。」
「なるほど。」
 コップを洗うと、皐月は菊子の方をみる。
「今日、しました?」
「え?」
「あいつの部屋に行ったんでしょ?ヤったんですか?」
 その聞き方に、少しむっとしたがかまっている暇はない。
「想像に任せます。じゃあ、おやすみなさい。」
 彼女はそういって、彼の前を通って自分の部屋に戻ろうとした。しかし彼がそれを許さない。
 手を握り、行かせないようにした。
「何ですか?」
「キスくらいしたでしょ?」
「想像に任せます。」
「してないとしたら、よっぽどヘタレかゲイなんじゃないんですか?」
 手をふりほどいて戻ろうとしたのに、それは逆効果だった。菊子の手のひらを握り、壁に押しつける。視線は少し下。だが彼の方が余裕があるようだ。
「やめて下さい。大声出しますよ。」
「声が大きい方でしたね。でもそうさせないことも出来ますから。」
 両手を捕まれて、皐月はじっと菊子をみる。綺麗な顔立ちに、おそらく普通の女性なら頬を赤らませるのかもしれない。だが今は不快感でしかない。蓮ではないから。
「やめて下さい。」
「俺が送らないと、あんたその音楽の練習にも行けないんだろう?黙ってさせろよ。」
 ついに本音が見えた気がする。
「イヤ……です。誰が来るかわからないのに……。」
「それだけ?それだけで拒否しているのか?」
 彼は少し笑い、手を離した。ほっとした。これで何もしないのかもしれない。
 彼の手から逃げるようにリビングを出て、自分の部屋に戻る。そして鍵を閉めようとしたときだった。急にドアが勝手に開いた。
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