夏から始まる

神崎

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夏休み

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 簡単に食事を作った。ご飯だけはあったので、なすと挽き肉で味噌いためをして、あとはサラダや簡単なスープを添える。
 それを蓮はおいしそうに食べていた。
「昔はナスは嫌いだったんだけどな。」
「美味しいのに。」
「あぁ。今は好き嫌いはない。」
 そんな会話の途中も音楽は流れる。絞れた十曲の中から四曲選ぶのだ。あまりにもかけ離れたものだといけないだろう。かといってあまりにも受けを狙ったモノはこっちの本意ではない。
「……やっぱりこっちが良いかな。」
 食事と音楽の話しかしない。やはり自分にはあまり興味がないのかもしれないと思うと、少し悲しくなってくる。
「蓮さん。」
「何だ。」
 コンポに向かおうとしていた蓮に、菊子は声をかける。
「あの……やっぱり、玲二さんが作ってくれてたあの曲も良い曲だと思うんです。」
「確かに良い曲だ。だがあの曲は間に合わないかもしれない。オリジナルはみんなの意見を聞きたいんだ。」
「……みんなで作る曲だからってことですか?」
「もっと余裕があるときに、じっくり作っていけばいい。とりあえず今回は、カバーで良いと思う。」
 そんなことを聞きたいんじゃない。彼女は少しため息をついて、またナスに箸をのばした。
 食事を終えて食器を洗っていると、蓮はバンドスコアを取り出してそれを見ながら煙草に火をつけた。
「……良い曲だが、コードが難しい。投げそうになりそうだ。」
 食器を洗い終わると、菊子はベッドに腰掛けている蓮の隣に座った。そしてそのバンドスコアを横から見る。
「メロディが難解ですね。ファルセットかぁ……。あまりしたことがなくて。」
 菊子の行動に蓮は少し違和感を感じていた。前にここに来たとき、彼女を襲おうとして拒否されたことがある。キス一つ出来なかった。
 なのにこうしてベッドに腰掛けていても、彼女は隣に座ってくる。そして彼に近づくようにバンドスコアを見ていた。
 誘っているように見えるが、違う。彼女のパーソナルスペースが狭いのかもしれない。そう思わなければすぐにでもこのベッドに押し倒し、そのままキスをしたいと思ってしまう。。
「練習次第で何とかなりそうか?」
「ファルセットは基礎ができてからの話です。私はまだそれが出来ていないからと言ってさせて貰えませんでしたから。」
「……だったらこの曲はないな。」
 別のページにして曲を変える。だが思っていた曲と違うらしく、バラードが流れた。
「違った。」
 コンポのリモコンで曲を変えようとした彼の手を、彼女は止める。
「待って下さい。」
 すっと入ってくる感覚。心地の良いビブラート。何よりも綺麗なメロディだった。
「この曲……がしたい。です。」
「何曲目だったか……。」
 彼はそう言ってスコアを広げた。最初に歌詞が載っている。どうやらラブソングのようで、手に届かない、触れたくても触れられない、そんな歌詞のようだった。
「失恋の曲でしょうか。」
「……どうだろうな。ただの臆病な男の歌詞にも見える。」
「どうしてですか?」
「触れなければなにも進まないし、玉砕覚悟で女を手に入れる根性がないんだろう。だから臆病だなと思ったんだ。」
「……。」
 人のことは言えない。この関係が崩れるのがイヤで、近くても我慢して手にも触れないのに。
「……人のことは言えないがな。」
「え?」
「何でもない。でもこの曲は良い。候補の一つに入れよう。あとはみんなで決めればいい。」
 そう言って彼は付箋でそのページに印を付ける。
「四曲のうち一曲はバラードというのもおかしいかもしれませんね。」
「だが曲の締め切りも近いし、あまり悩めない。今日決めてしまおう。今日、お前は「rose」には来れないだろう?」
「店があるので。」
「だったらメッセージで送る。曲と、歌詞は明日、俺が出勤前に店に届けてやるから。」
「いいんですか?私、ここに来ても良いですけど。」
「あのな……菊子。」
「あ……そうか。私が来ると、ゆっくり眠っていられませんかね。」
「いいや。そんなことじゃない。前にも言ったが、あまり男の部屋に女が軽々しく一人で来るもんじゃない。」
「……。」
 そうか。迷惑だったのか。彼女はそう思い、彼から視線をはずした。
「そう……ですか……。」
 決定的。蓮は、菊子を女として見ていない。そしてここに来るのも迷惑だと思っているのだ。
「すいません。迷惑でしたよね。」
 うつむいている彼女は立ち上がると、玄関の方へ向かっていく。
「どこに行くんだ。」
 焦ったように蓮は菊子を追いかけた。
「帰ります。もう曲はあらかた決まってるし、あとはみなさんで決めて下さい。」
「菊子。」
 肩を掴んで、背中を向けていた菊子を自分の正面に向ける。すると彼女の瞳には涙が溜まっていた。
「何かあったのか?」
「……ごめんなさい。変に泣いてしまって。」
「良いから。菊子。何かあったんだろう。」
 すると彼女の瞳から涙がこぼれた。もう苦しかった。何も考えられず、小さな子供のようにただ泣くだけしかできない。
「くっ……。ふっ……。」
 出来るのは声を殺して泣くことくらい。いつも歌って、評価を受ければ悔しくて、でも悔しかったことがばれたくなくて声を殺したのだ。そこから声を殺して泣くことを覚えたのだ。
 蓮は菊子の肩から手を離すと、タオルを持ってきた。
「とりあえずそのままじゃ帰せない。家に帰る前にキャッチに声をかけられるぞ。」
 そう言って彼女の手を引いて、またベッドに座らせた。すると彼はキッチンに向かい、コーヒーを入れた。
「インスタントだけどな。甘くはない。」
 優しい人だ。やはり自分も臆病で、この関係を壊したくないと思っている。
 だが、ここに来る前の男の腕の温かさはイヤだった。皐月には悪いが、一瞬でも抱きしめられたくなかったのだ。
「ごめんなさい。取り乱してしまって。」
 タオルから顔を話すと、涙を拭った。
「別に話したくなければ何も話さないで良いけど、いきなり泣き出したらやっぱり気になるな。」
「……そんなものですか?」
「そんなものだろう。」
 彼はコーヒーを一口飲むと、煙草に手を伸ばした。
「だったら一つ、蓮さんに聞いて良いですか?」
「答えられる範囲だったらな。」
 彼女はコーヒーを一口飲むと、決心を決めたように彼に向かって言う。
「どうして、私に何もしないんですか?」
「は?」
 思わず煙がむせて、せき込んでしまった。
「子供だからですか?それとも……魅力全然無いですか?」
「菊子……あのな……。」
「正直に言って貰っていいんです。私全然肉が付かないし、男の人に免疫もないから……。もっと慣れた人の方が男の人もやりやすいんじゃないかって……。」
「誰がそんなことを言ってたんだ。」
「……誰って……。」
「別に魅力がないわけじゃない。こう見えて押さえてるんだ。」
 その言葉に、今度は彼女の方がぽかんとして彼を見上げた。すると彼の方から視線をはずした。
「押さえてるって……。」
「高校生だし、あの女将さんの孫だし、何より同じバンドの女に手を出して、浩治たちみたいに上手くいけばいいけど、大抵はごたごたするし。そんなことばっかり考えてれば、手なんか出せるか。」
「……蓮さん……。」
 こちらから見える蓮の頬が赤くなっている。
 言葉が饒舌な人ではない。だからこれが精一杯なのだ。その言葉に菊子は、わずかにうなづいた。
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