夏から始まる

神崎

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進展

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 仕事の時間になり、蓮は菊子を家まで送った。結局あの頬に触れるくらいのことしかできなかったが、それもこれからは出来ないかもしれない。イヤ、今度は出来る。キスの一つでも出来ればいい。
 だが彼女はそれを望んでいるのだろうか。恋をしたことはないと言っていたのだから、少なくとも自分にはそんな感情がないのだろう。そんなヤツが自分に転ぶとは思えない。
「じゃあ、ここで。」
「あぁ。またな。連絡する。」
 これからがある。だから今は別れようと思ったときだった。
「蓮さん?あら。送って下さったの?」
 表門の掃除をしようと女将がほうきを持ってでて来た。
「えぇ。ちょっと音楽のことで打ち合わせもしたかったので。」
 すると女将はぽんと手を叩いた。
「蓮さん。このあと仕事ですか?」
「えぇ。少し早いけど、もう行っておこうかと思って。」
「だったら、カレーを食べませんか。」
「カレー?」
「えぇ。うちは開店前にみんな食事をすませるんですよ。今ちょうど、職人が食べているところなんです。一緒にいかがですか。」
 確かに少し時間はある。彼はそれに甘えることにした。
「いただきます。」
「今度はちゃんとした食事を用意しますから。裏から回って下さる?」
「はい。」
「菊子さんも用意ができたら食べてしまいなさいな。」
「はい。」
 そういって二人は裏口に回る。その後ろ姿を見て、女将は軽くため息をついた。まだ二人は何もないのだろう。送ってきたということは、二人でどこかに行ってきただろうに蓮は指一本菊子に触れなかったのだろうか。
「このヘタレが。」
 少しつぶやいて、ほうきをまた一旦、玄関の中に入れた。

 菊子は蓮をリビングに案内すると、そこには皐月の姿があった。彼もカレーとサラダをテーブルに置いて食べていたが、蓮の姿を見て少し驚いたように左手に持っていた携帯電話をテーブルに置いた。
「え?」
「女将さんが食べて貰えと言ってましたので、ご一緒に。」
「そうですか。」
 キッチンへ行き皿と取り出そうとしたときだった。女将がリビングにやってくる。
「菊子さん。あなたは自分の用意をなさいな。蓮さんの分は私がするから。」
「あ、はい。」
 彼女はそういってリビングから出ていく。そして女将はキッチンに立つと、皐月の方をみる。
「皐月さん。食事の時は携帯電話を止めなさいと言ってましたよね。行儀が悪い。」
「はい。すいません。」
 彼はそういって素直にその携帯電話をポケットにしまう。
「蓮さん。どれくらい召し上がります?」
「あ、軽くで結構です。」
 普段なら仕事が終わったあと、軽く食べるくらいだったが仕事の前にそんなに食事をしないので入らないだろうと思ったのだ。
 女将はサラダとカレーライスを彼の前に置くと、タバスコとケチャップも前に置いた。
「辛さは自分で調整して下さいね。」
「あ。はい。」
「じゃあ、私また仕事に戻りますから。」
 彼女はそういって部屋を出ていく。その瞬間、皐月はため息をついた。
「うるさい人だ。」
「……いい人だと思いますよ。」
「それは他人だからでしょう?それに……あんたは身内にもなり得るんだし。」
 皐月は当初、ここに来たとき最初に来たときに家に呼び込んだ男だ。それ以外はよくわからない。向かい合って食事をしているが、きれいな顔立ちをしていると思う。だが身長はそれほど高くない。おそらく菊子と同じか、それより低いくらいだろう。
「蓮さんっていいましたっけ。」
「えぇ。」
「戸崎っていってましたけど、もしかして、あの戸崎グループと何か関係があるんですか?」
 その言葉に彼は手を止めた。そして皐月をみる。
「何か知ってるんですか?」
「いいや。俺、昔ホストしてて、そこの客に戸崎グループの幹部が来ることがあったんです。俺の客ですね。直属の息子が何人か居たらしいが、そのうちの一人が行方不明になって久しいっていう話を聞いて。」
「金持ちには金持ちの事情あがるのでしょう。同じ名字だからと言って、俺には関係ない。」
 スプーンを入れて、カレーを食ちに運ぶ。わずかに辛いが、それも心地いい。普通のカレーの味だ。家で作るのと何も変わらない。
「それにしても、あの菊子さんに歌わせるなんてね。嫌がりませんでした?」
「嫌がってましたよ。本当は歌いたくなかったのでしょう。」
「それがなんで?」
「批判だけをされていたら、自信喪失になるのは当たり前でしょう。聴くのは、評論家だけではなく客がほとんどです。客は正直だった。それだけです。」
 生意気な男だ。当初から思っていたが、気にくわないと思う。どうして菊子はこの男に慕っているのだろう。
 いつか、彼女の部屋をのぞいたことがある。携帯電話を見て嬉しそうに微笑んでいた。自分ではなくこの男だ。背が高いのがいいのか、それとも音楽をしているのがいいのか。いいや、おそらくそのどちらでもない。
 彼女が蓮に気があるのだろう。
「皐月さんはここに入ってどれくらいですか?」
「二年です。今いる葵と同じくらいの時に入ったんです。」
「……それより前にホストをしていたってことですか?」
「そうですね。でも俺はまだ一本立ちする前に、辞めてしまいましたけど。」
 女に競わせて、高い酒を注文させて、それで上り詰めるのだ。そんな詐欺みたいなことは、自分の性に合わなかったようだ。
「あんたは?」
「あぁ。俺は……音楽が好きだったから、就職をしたのがたまたま音楽関係の会社だっただけです。その中のライブハウスの担当で、音楽監督みたいなこともしてますよ。もちろん、自分で演奏することもありますけど。」
 片隅に置かれたのは、ベースなのかギターなのかわからないが、それもそのためだったのだろう。
「プロになろうとは思わなかったんですか。」
「出来れば今でもなりたいですよ。でもまぁ……それで食えるかって言ったら、こっちの方が収入は安定してるかもしれませんね。」
 プロに本当はなりたかった。だが将来を考えて、もし好きな人でも出来て結婚でもすれば、そんな綱渡りのような生活に巻き込みたくないと思っていたのだ。
 そのとき彼の頭の中に、好きな人ということで菊子の顔が浮かんだ。まずい。そんなことはあり得ないのに。
 だが今日は欲情しかけた。彼女がもし嫌がらなかったら、あのままベッドに押し倒していたかもしれないのだ。
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