夏から始まる

神崎

文字の大きさ
上 下
33 / 265
進展

33

しおりを挟む
 バンドスコアを見ながら、CDを聴いていた。男女の関係になるよりも、それの方がとても良い時間だと思う。あぁでもない。こうでもないと蓮はぶつぶつ言い、菊子はその歌詞を携帯電話の翻訳サイトで正確な発音を口に出す。
「難しい。」
 ついに菊子はそれを投げ出してしまった。その様子に蓮は少し笑った。
「どうした。もうギブアップか?」
「発音の仕方が全く違うんですよ。しかもたぶんこの人たち少し訛りがあるから、正確じゃないし。」
「そうだな。やっぱり英語のヤツにするか。でもまぁ……。」
「何ですか?」
「英語も訛りがあるから、CDは参考程度だな。」
「……英語の先生に習おうかな。」
「俺が教えてやる。」
「蓮さんが?」
 少し笑って彼をみた。
「バカにしたな。俺だって別に学がないわけじゃないんだ。」
 そういえば蓮のことは何も知らない。彼は音楽のことしか語らないからかもしれないが、自分のことを話すことはないから。
「蓮さんは、どこの出身なんですか?」
 すると彼はバンドスコアを目から離すと、菊子をみた。すると頭をくしゃっと撫でる。
「俺のことが知りたくなったのか?」
 その手をふりほどくと、菊子は少し笑った。
「別に話したくなければいいです。」
 必要だから聞いているわけではない。ただの好奇心だった。
「……そうだな。俺も話したくはない。けどまぁ、こんななりをしていたら普通の生活をしていたわけではないのはわかるだろう?」
 蓮の肩には入れ墨がある。何かの模様だということはわかるが、詳しくはわからない。だが入れ墨を入れるというのは、ある程度の覚悟が必要だろう。高熱が出て、寝込むこともあるのだ。
「……知りたいか?」
「別に良いです。今が良ければ。」
 料理か、音楽か。それは祖父かそれとも母かを選んでいるようだと思った。どちらかを選ばないと、どちらも出来ないのだから。
 そのとき菊子の脳裏に棗の顔が思い浮かび、振り払った。どうしてあの男の顔が出てくるのだろう。全く、こんなに幸せに音楽を聴ける時間があるのに不愉快だ。
「どうした。百面相をして。」
「……別に。」
 蓮は少なくとも意識をしていた。頬に触れたその温かさと柔らかさがまだ残っているような気がする。
 少しうつむいて、それを払拭しようとバンドスコアに目を落とした。音楽だけ見てればいい。彼のイメージ通りに歌ってくれるこの女がいればいい。
「菊子。」
 テーブルを挟んで向かいに座っていた菊子に、蓮は近づいた。
「どうしました?」
 彼女は不思議そうに、彼をみる。思ったよりも近くにいるようで、彼の煙草の匂いと香水の匂いがした。
「ここの発音は、舌を上に付けろ。」
「上に……はい。」
 難しい単語だ。この国の人には難しいかもしれない。なのにそれを学ぼうと、彼女は口にする。
「そう。それ。」
「合ってますか?」
「あぁ。でもお前は舌が長くて良かった。結構その国の発音に近くまでいけそうだ。」
「舌が長いですか?」
 そういって彼女は舌を出す。ピンク色の舌は、おそらく誰にも触れられていない。誰もそんなことをしたことがないと言っていたからだ。
 したくない。そう言っていた。その理由はまだわからない。だがその舌を舐めて、愛撫したい。そう思えたのは、普通の二十一歳の感情だ。彼だって聖人ではないのだ。二人きりで部屋にいて、何もないわけがないだろう。
 無意識で菊子がしている行動がいちいち気にかかる。誘っているのかもしれないと勘違いをさせてしまうのだ。だがそれは違う。実際触れようとしたら、彼女はすぐ拒否をした。
「考えたこともなかったです。」
 舌を口に納めると、彼女はまた歌詞カードに目を落とした。和訳も載っていて、それに目を留める。
「……ラブソングですね。」
「そうだったのか?あまり歌詞の内容には興味がなくてな。」
「君の心が傷ついているなら、僕が癒してあげる……。臭い歌詞ですね。」
「そう言うな。もう十年以上前の音楽だ。それが良いという時代だったんだから。」
 その和訳に少し笑っている。思わずその無防備な肩に触れたくなった。この気持ちが恋心なのかはわからない。だが彼女が欲しい。
 唇が腫れるまでキスをして、その学校の制服を脱がせて、日が当たったことのない胸に触れ、中に入れてぐちゃぐちゃにかき回し、求めて、求められて、彼女の中で出したい。
「……どうしました?」
 じっと彼が見ているので思わず声をかけた。すると彼は首を横に振る。
「もしもそういう歌詞が理解が出来ないなら、ほかの曲の方が良いか、それか歌詞を変えるかなと思ったんだ。」
「理解できないことはないですよ。オペラの歌詞はほとんど愛の言葉ですから。」
「そうなのか?」
「悲劇や喜劇も多いですけどね。」
「喜劇?意外だな。」
「恋人をこっそり部屋に呼び込んだ女性の部屋に父親が訪ねる、みたいな感じですか。」
「ははっ……。現代でもあり得ることだな。」
 蓮は笑うが、菊子はそこまでして恋人を呼びたいのかは、結局理解は出来なかった。だが母親は、いつか恋人が出来ればその気持ちも理解できると言っていたが、まだそんな気分にはなれない。
「昔、女将さんから言われたことがあるんです。私は自分のことしか見えていないから、恋が出来ないのだって。自分よりも他人を大事に思える人が出来て、その人と結ばれればいいと。」
「今まで居なかったのか?」
「……ずっと批判されてました。外面も、歌も、料理も。誉められたことはありません。だから自分はこのくらいの人間なんだって思ってました。」
「菊子。」
「でも……この間初めて歌ったとき、上手だねとか感動したとか言われて、とても嬉しかったんです。」
「変な自信は持たない方が良いが、あまりにも誉めないのは良くないな……人のことは言えないが。」
「え?」
「玲二から、おまえは批判ばかりするから人が逃げるって言われたばかりだ。」
「そうだったんですか。」
「批判するんなら、一くらいは誉めろっていってたか。お前にもそうするかもしれない。」
「そうですね。」
 それでもいい。歌えるなら。そしてそれを必要だと言ってくれる人がいれば。
「ライブで歩いてる奴らが立ち止まるくらいの演奏にしよう。」
「はい。」
しおりを挟む

処理中です...