夏から始まる

神崎

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コンプレックス

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 じりじりと暑い日差しが少し和らいでいるアーケード沿いのスーパーに、菊子と武生はいた。少し変わった食材が置いているスーパーで、他のスーパーよりは僅かに価格設定が高い。だが普通のスーパーでは売っていないモノが置いてあるので、菊子はたまにここで買い物をすることがある。
 「コレは何だろう、どうやって使うんだろう」彼女はそう言っていつもその食材を手に取る。そのたびに携帯電話を取り出して、検索をしているようだ。そんな彼女が武生は好きだと思う。
 だが今日は食材に目を向けずに、真っ先に向かったのは冷凍のコーナーだった。どうやら箱入りのアイスを選んでいるらしい。それもまた少し変わったモノが多い。すいかのアイスなど初めて見たと、少し笑っていた。
「アイスを頼まれてるの?」
 武生がそう聞くと、菊子は少し笑っていった。
「昨日ね、少しお世話になったお店があるの。だからお礼を持っていこうと思って。」
 確かにいつも持っている鞄とは別に紙袋と傘がある。こんなに晴れているのに傘を持っていることに少し違和感を持っていたのだが、そのためだったのか。
 お世話になった店というのも気になる。それは菊子に傘を差しだした背の高い男のことだろうか。笑顔で答えていた彼女の表情を今でも思い出す。
 男はよくわからない。傘で顔も隠れていたし、後ろ姿だけだった。
 あれは誰なんだと聞きたいのに、未だに何も聞けなかった。
「武生ちゃん?」
 そのとき聞き慣れた声が聞こえて、武生の動きが止まる。菊子もその声が聞こえてそちらをみた。
「こんにちは。おばさん。」
 こちらを見ようともしない武生の隣にいるのは、「ながさわ」の孫娘だ。同じ歳で同じクラス。幼なじみの一人だと覚えている。
「菊子ちゃんだっけ?」
 武生の母はいつもの和服ではなく、スカートと白いブラウスを着て買い物かごを持っていた。
「はい。」
 十センチはあるヒールを履いているのに、それでもローファーの彼女よりも背が低い。それだけ彼女が背が高いのだろう。
「デート?」
「違います。ちょっと買い物したくて付いてきたんです。」
「ふーん。あたしも欲しい食材がここしかないときもあるからたまに来るんだけど。」
 菊子に母を見られたくなかった。三十五だという彼女なのに、こんなに露出の高い服を着てこの近所をうろうろしているというのが、どうにも嫌だった。
「今日は何を作るんですか?」
「カレーよ。でもスパイスから調合するの。」
「本格的ですね。」
「ううん。でもあなたの家の方がもっと凝ってるでしょう?」
「どうですかね。普通に食べているモノのカレーは、普通のルーを入れたものですよ。普通です。」
 すると武生が、菊子をせかす。
「菊子。そろそろ行かないといけないんじゃない?今日も店に立つんだろう?」
「そうだった。えーと。どうしようかな。やっぱコレにしよう。」
 いつもだったらそんなに悩まずに即決しているように見えたが、今日は随分悩んでいた。果汁入りの何種類かある棒アイスの詰め合わせを手に取ると、母の方をみる。
「じゃあ、おばさん。また。」
「えぇ。今度うちにも遊びに来てね。」
「はい。」
 リップサービスだ。菊子は何も思っていないようだが、明らかに母は菊子に敵対心を持っている。きっと武生が菊子に気があるのに気が付いているからだ。

 公園で武生と別れ、菊子はroseへ向かった。窓から見えるroseは少し暗く見えて、営業をしているかわからない。だが僅かに音が聞こえる。
 ドアを開けるとさらに音楽が聞こえた。舞台の上には数人の男女がいる。ギターとドラム、そしてキーボード。ベースを見て菊子は少しドキリとした。そこには蓮がベースを持って器用に弾いていたからだ。
「あら。菊子ちゃん。いらっしゃい。」
 カウンターの向こうには百合がいる。少し彼女は笑い、カウンター席に近づいた。カフェバーといっても昼間は閑散としている。やはり繁華街の中にあるだけに、昼間はお客が少ないのかもしれない。
「今リハーサルなのよ。」
「あぁ。そうだったんですね。だったらコレを……。」
 そう言って菊子は紙袋を百合に手渡した。すると彼女は少し笑ってそれを受け取る。
「いつでも良かったのに。」
「早い方がいいかと思って。それからコレを。」
 そう言ってビニールの袋を百合に手渡した。
「何?気を使ってくれなくても、昨日女将さんからお茶菓子をいただいたのよ。」
「でもお世話になったのは私ですから。」
「そうね。じゃあ、遠慮なくいただくわ。あら。美味しそう。リハーサルが終わったら、バンドの人たちにも渡しておくわね。」
 そう言って百合はそのアイスを冷凍庫に入れた。菊子はそれを見てもう帰ろうかと思ったときだった。
「いい加減にしろよ!」
 大きな声が聞こえて、菊子はビクッとして足を止める。音楽が止まったステージを恐る恐る見てみると、ベースを持ったままの蓮がステージ上のバンドのメンバーを怒りの表情で見ていた。そんな表情も見た事がないからかもしれないが、少し恐怖を感じる。
「リズム遅れてんだよ。合わせる身にもなれ。ギターは無視して早くなってんじゃねぇよ。キーボードもだ。」
 そして蓮は歌っていた女を一番に見下ろす。
「お前、リズム音痴なのか?それもわからねぇで歌ってんだな。」
 百合はその言葉に頭を抱えた。
「あーもう。蓮ったら……。せっかく歌ってくれるって女の子なのに……。」
 すると女は怒ったようにマイクをスタンドにかけると、ステージを降りていった。それをギターの男が焦ったように追いかける。
「ごめん。蓮はちょっと口が悪くてさ。」
 するとその言葉に、彼女は頬を膨らませていった。
「ちょっと?ヘルプで来て欲しいって言って来てんのに、何あの態度?すごい不愉快だわ。」
「ごめんって。」
「あり得ない。もう来ないから。あの人がいるんなら。」
 あの人というのは蓮のことだろう。
 女はバッグを持つと、店から出ていった。
「蓮。ちょっとは考えろよ。ライブ、今日なんだぞ。」
「だったらお前等もしっかりしろ。客だってバカじゃねぇんだ。」
 ふとギターの男がカウンター席をみる。すると制服姿の菊子と目があった。
「あれ?女子高生?」
「あぁ……そうよ。貸したモノを返しに来てくれたの。」
「へぇ。ごめんね。見苦しいモノを見せて。」
 蓮とは違う柔らかい物腰だ。その男は、少し笑ってまたステージに戻る。
「どうするんだよ。ボーカル。」
「インストでいけるだろ?」
「ボーカルなしのインストで三十分も繋げられねぇよ。間が持たない。」
「だったらもう少ししっかり歌える奴を連れてこい。ん?」
 やっと蓮が菊子の方をみた。その様子に、少し彼女は怯えているようだ。見苦しいモノを見せたのだから仕方がない。
 蓮はスタンドにベースを乗せると、ステージを降りて菊子に近づいた。
「来たのか。」
「はい。今日届けようと思っていたので。」
 怖かったかもしれない。だから離れていくのも仕方ない。
「菊子。あのな……。」
 すると菊子は蓮から視線を逸らしたまま、ぽつりと言った。
「確かに人前でするレベルじゃないわ。」
 あくまでアマチュアだ。趣味の範囲を超えない程度なのだろうが、金を払ってまで聞こうとは思わないだろう。
「菊子?」
「あぁ。すいません。独り言です。アイスを買ってきてるので、みなさんでどうぞ。」
 帰ろうとした菊子の手を汗塗れの蓮は、手首をつかんだ。その言葉を聞き逃さなかったから。
「お前……歌える?」
「嫌です。音痴なんで。」
「カラオケくらい行くだろう?」
「あまり進んでは行きません。」
「でもお前には耳がある。そうだろう?さっきの演奏、一文にもならないって思ったんじゃないのか?」
 その言葉に菊子の言葉が詰まる。
「歌。何を知っている?パンクは?」
「詳しくありません。」
「だったら何を普段聴くんだ。」
「……。」
 言いたくなかった。だが言わなければこの手は離されないだろう。
「……オペラ。」
「は?」
「父も母も音楽に携わってます。だから私もそれに習っていただけです。」
 両親のことはあまり言いたくなかった。色眼鏡で見られるから。
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