夏から始まる

神崎

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雨の日

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 昼休みを挟んで、五時限目の途中で雨が降り出した。菊子は恨めしそうにその空を見ている。友人の中には送ってあげようかと傘を差し出す人もいたが、さすがに繁華街の中に入ったところに住んでいる人はいないし、そこまで遠回りをさせるわけにはいかない。それに高校生が繁華街に足を踏み入れるなんて事は、あってはいけない。
 繁華街に住んでいるのは武生や梅子くらいなのだから。もっとも、二人とも下校の時間になったらそれぞれ用事があるらしく見かけなかった。
 だがそんな菊子の読みは外れ、後ろには武生がいた。彼は黒い傘を持っている。
「よかったら一緒に行かないか。」
 そう言いたいのに、周りの目が気になる。武生に彼女がいるのはみんな知っているし、そんな彼が優しさだけで相合い傘をするとは誰も思っていないのだろう。それにそんなことをすれば、菊子が「武生の彼女から武生を奪い取った女」として噂されるかもしれない。
 いいや。そんなことはどうでもいい。
「入っていかない?」
 そう言って傘を差しだそうとしたときだった。
 菊子はその雨の中、校門をめがけて走っていった。その姿はとても頼もしく、一人で走っていけるんだと言わんばかりだった。
「……。」
 惨めだと思う。たった一言が言えない自分も、それについていけない自分も。武生はそう思いながら、傘を差して雨の道を歩いていった。

 さすがに大通りに出るまでにはびしょ濡れになっている。濡れた髪から滴が落ちて目にはいる。制服も絞れそうだ。
 洗い替えの制服があるからいいけれど、祖母から何か言われそうだ。
 くそ。全て天気が悪いのだ。菊子はそう思いながら、信号が青になるのを待つ。そのときだった。菊子に傘を差しだした人がいる。驚いて見上げると、そこには蓮の姿があった。
「傘を持ってないのか。」
「忘れてきました。」
「朝のニュースで、今日は昼から雨だと言っていたが知らないのか。」
「テレビあまり見ないんです。」
 どきどきする。こんなに濡れているところを見られたくなかった。
 雨で濡れた制服は、ボーダーのキャミソールを着ているのか、それが白いブラウスに透けている。そして思ったよりも胸が大きい。大人の女に見えた。
「そんな格好で帰ったら怒られるんじゃないのか。俺、まだ少し時間があるし、少し寄っていくか?」
「え?寄るって?」
「「rose」。あそこシャワーもあるし。」
 そのとき信号が青になった。蓮は菊子を促すように、傘を差して歩いていった。傘のおかげで彼との距離が近い。煙草の匂いがさらに彼女の鼓動を早くさせる。
 やがて繁華街にある「rose」にたどり着いた。吾川酒店は今日も開いているが、どうやら若旦那はいないようで彼の父親がビールケースを運んでいる。ほっとした。こんな所を見られたら、若旦那に何を言われるかわからない。
 蓮はそんなことを気にするそぶりもなく、「rose」のドアを開ける。煙草の匂いと薄暗い店内が目に飛び込んだ。
「おつかれー。蓮。あれ?女連れ?」
 店内は広くない。ライブハウスと言えばもう少し大きいところを想像していた菊子は、少し驚いたように店内を見ていた。だが奥にはちゃんとステージがあり、そこにはドラムセットやキーボードがセットされていた。
 店内の右手にバーカウンターがあり、そこに一人の女性がグラスを拭いていた。随分大柄な女性だと思いながら、こんな女性が隣にいたら自分が小さく見えるだろうと菊子は思っていた。
「百合さん。悪いけど、シャワー貸してやって。」
「蓮さん。あの……いいんです。タオルだけで。」
「バカねぇ。女の子は冷やしちゃ駄目よ。シャワールーム、ステージ裏にあるの。蓮。案内してあげて。それから着替え、何か用意するわ。あたしの私服でいいかしら。」
「別にいいんじゃないのか。」
 そう言って蓮は菊子を連れて、トラムセットの後ろの目立たないドアを開いた。そこには小さな小部屋があり、あまり大きくないがベッドもある。一人で寝るなら余裕だろう。そしてその奥にシャワールームがある。湯船はなく、本当にシャワーを浴びるだけの部屋のようだ。
「洗いたいなら、シャンプーとか勝手に使え。」
「あ、ありがとうございます。」
「それから、店に遅れるって連絡した方がいいんじゃないのか。」
「そうですね。じゃあ、ちょっと失礼して……。」
 鞄の中から携帯電話を取り出すと、菊子は店に電話をかける。
「はい。女将さん。すいません。傘を忘れてしまって……えぇ、あの……知り合いの方の所で少しお世話になっています。それで……はい。ちゃんとお礼を……。」
 女将さんというのは、「ながさわ」の女将だろうか。女傑で、気っ風のいい女性だと聞いている。その下で働いているのだったら、菊子もまた気が強いのだろう。
 電話を切ると、蓮もまた携帯電話を取り出した。そして菊子を見下ろす。
「何か?」
「……とにかくシャワーを浴びろ。ここに連れてきた意味がない。浴びてる間に着替えを出してもらっておくから。」
 そう言って蓮はその部屋から出ていった。
 そしてドアにもたれ掛かる。くそ。なんか調子が狂う。子供だと思っていたのに、あんな視線で見上げられたらなにも言えない。
「どうしたの?蓮。」
 女はカーキ色のワンピースを手にして、不思議そうに彼を見ていた。
「何でもねぇよ。」
「彼女に、これ渡しておいて。返すのいつでもいいから。」
「……わかった。」
「それにしても濡れ鼠だったわねぇ。下着も全部濡れてるでしょう?さすがに下着までは新品はないから、ノーパンでノーブラで帰さないとねぇ。」
「お前……。」
「それでまた送るんでしょ?途中で突っ込まないようにね。」
「アホか、お前は。ロリコンじゃねぇんだから。」
「あら。そうだったの?だったらあたしが送ろうか?」
「ふざけんな。」
「あんたが行くよりましでしょ?あたしの性趣向は女なんだし、彼女が女と思っているならあたしにとってはチャンスね。」
 その言葉に彼はワンピースを奪い取るように受け取ると、部屋にまた戻っていった。
「可愛くない子。あぁ、タオルも好きに使ってって言っておいて。」
 その声が聞こえて、くぐもった声で蓮の声が聞こえる。
「わかった。」
 シャワーを浴びる音がする。ガラスのドア一枚向こうで、菊子がシャワーを浴びているのだ。磨り硝子でほんのり見える肌が、妙に生々しい。
「菊子。着替えとタオル置いておくから。それから……サンダルで良ければ貸せるらしいが、どうする?」
「あ、ありがとうございます。何から何まで。」
 磨り硝子一枚向こうに、蓮がいる。それがわかり少し恥ずかしくなった。こんなに細い体を彼に見られたくなかった。
 見られて恥ずかしくない体とは、どんなのだろう。彼はどんな体だったら嬉しいのだろう。
 真っ先に思い浮かんだのは、梅子の体だった。Eカップあるという胸も、腰のくびれも、きっと男が好きな体型だ。
 自分はそれの正反対を行っていると思う。胸はないわけではないがEカップもあるわけではないし、骨ばった体は抱いても柔らかくないだろう。
 自分のコンプレックスは高い身長だけだったのに、どうして彼と出会ってからこんなに自分がイヤになるのだろう。自信もないし、何よりバンドなんてしていれば女が寄ってくるだろう。そんな女と並べられるとイヤになる。
 ううん。もう考えない。菊子はシャワーの蛇口を止めると、シャワールームのドアを開いた。するとドアノブにタオルがかかっている。それで体を拭くと、そのタオルでシャワールームの水気を簡単にとった。そして換気扇のスイッチを入れると、ベッドの上にコットンで出来たカーキ色のワンピースが置いてあった。
 それを直接着る。だが下着も濡れているのでそれ以外は何も着ていない。この状態で蓮の前に出るのだろうか。ますます恥ずかしくなる。
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