夜の声

神崎

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二年目

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 茅さんが煙草に火をつけた。本来なら、茅さんの方が部下であるから、蓮さんの前で煙草を吸うのはやめた方がいいのかもしれない。だけどそれを咎める気にもならないようだった。
「内定を断ると言うことですか。」
「えぇ。」
「妊娠でもしているのですか?」
「いいえ。」
 それは首を横に振る。その答えに蓮さんはあらか様にほっとした表情になった。
「好きなことが出来ないから辞めるというのですか。そんなに社会は甘いものではありませんよ。茅だって好き好んで事務仕事をしていると思っているのですか。」
 私だって好き好んで接客業をしているわけじゃない。怒鳴られたり、水をかけられそうになったりしたこともある。いいや。そんな事じゃない。一番辛いのは、自分に何があっても笑顔でいないといけないと言うことだ。お客様には関係がないから。
「この国で手にはいる豆には限界があると思うんです。」
「……。」
「もっと条件のいいところで出来ているコーヒー豆をみたい。焙煎をする度に思います。」
 その言葉に、茅さんは灰を落として私に言う。
「まるで百合だな。百合だってそういう理由で南米に行ったんだよ。でも結局薬から逃げられなかった。イヤ……正確には蓬さんから逃げられなかったんだけどな。」
「茅。お前はその話……。」
「昨日知った。昨日、実際瑠璃さんの店に行ってみて、初めて聞いたんだけどな。こいつ大学も出てねぇから、バイヤーとして雇うわけにもいかないだろ?」
「君にも出来ていたことだ。桜さんに出来ないことはないとは思うが……桜さん。英語以外は何か話せますか。」
「いいえ。」
「でしたら無謀ですね。せめてスペイン語でも出来ればいいのですが。」
 そうか。言葉の問題もあったんだ。そのために少しこの国で勉強して……あぁ。いつ出ることになるんだろう。
「蓮。お前、こいつを雇うの諦めてねぇの?」
「えぇ。社長が桜さんを気に入ってましてね。」
「どうせついでの柊もこっちに入れてぇと思ってんだろ?」
「……兄は、組に入るのをいやがってましたからね。柊がいてくれれば、それも解消されたのですが。」
 やっぱり社長と葵さんはつながりがあったようだった。だから彼の店に社長が来ていたのだ。それを芙蓉さんが見たのだろう。
「柊はもうこっちの世界には入らねぇよ。」
「でしたら、茅は柊があんな清掃作業の仕事を望んでやっていると?彼にはこっちの世界が天職だったのでしょう。」
「人を殺しても咎められない世界か。」
 私はその話を聞いて、首を横に振る。
「柊は、もうこっちの世界に来たくないんです。人を傷つけるよりも、人を楽しませたいと思ってますから。」
「……楽しませる?」
 あぁ。そうだった。蓮さんはSyuのことは知らなかったんだ。
「さっき、蓮さんがおっしゃいましたよね。好きなことだけをして、仕事は出来ないと。でも彼は、仕事を選べない立場にあります。前科があるから。」
「こっちの世界では前科があった方がハクがつくそうですよ。」
「だけどそっちの世界だけには行きたくないと言ってます。だから仕事を選んでいない。どんな仕事でもする。それが人に喜ばれるならそれでいいと。傷つけるのはどれだけ金を積まれても、もうしたくない。と言ってました。」
 すると茅さんは煙草を消して、少し笑う。
「変わったな。もう昔の柊じゃねぇんだよ。蓮。」
「……茅。それでいいと思っていますか。彼が何をしてきたのか、私は当事者ではない。だが、あなたは当事者だ。恨みがあるだろう。それを忘れて、すべて水に流したいと?だとしたら彼が傷つけた多くの人たちはどうするんですか。」
 それはきっと葵さんや茅さんのことも含まれているのだろう。蓮さんはそういって茅さんを説得しようとした。しかし茅さんは熱くなっている蓮さんとは真逆に冷静に言う。
「誰も人を傷つけねぇで生きてきたヤツなんかいねぇよ。お前だって葵を傷つけて育ってきたんだろう?親があてになんないから、葵がどんな思いで金稼いでたと思ってんだ。自分だけが聖人君子のつもりか。」
 蓮さんはその言葉にぐっと言葉を詰まらせた。そして携帯電話を見る。
「時間ですね。茅が何を言おうと、会社としてはもうあなたを中心に動いているプロジェクトです。茅もプロジェクトリーダーですから。あなたがしたくないと言っても、今更代わりを捜すことは出来ません。茅。今から試作店に彼女を連れていってください。」
「いいのかよ。」
「えぇ。社長の許可は得ています。そのまま連れて行ってください。」
 蓮さんはそう言って、席を立った。
 私の前には沢山の道が開かれている。このままこの会社にいて、コーヒーを淹れるのもまた道かもしれない。だけど柊さんと一緒にいることだけは、確定しているのだ。
「いくぞ。」
 茅さんは空のコーヒーのカップを握りつぶすと、私についてくるように促した。

 本社の近くには、地下鉄がある。そこから二駅。車を使わなかったのは、面倒だからと言う理由だった。
 その街は、ヒジカタコーヒーがあるところよりも活気があり、若者が多い気がした。雑誌から抜け出たような格好の男女。がっつりメイクとバサバサまつげ。
 うーん。あまり自分の格好とか気にしたことはないけど、浮いてる感がハンパない。特にこの伸ばしっぱなしの髪が。
「こっちだ。人混みに紛れるな。はぐれたら見つけるの大変だからな。」
 茅さんは私の手を握ると、その人混みの中に入っていった。
 大通りは確かにおしゃれなショップとか、カフェとかが軒を連ねていたけれど、その一本でもはずれると古い店が多い。人混みもそんなに無かった。だけど茅さんの手が離されることはない。きっと彼は上機嫌なのだ。
 どっちかというとこの近辺は古書とか、古着なんかの店が多い。まぁ中にはカレー屋さんやパン屋さんもあるけど。
 その奥。そこで茅さんは足を止めた。花壇には植物が植えてあり、奥には二階建ての白くて赤い屋根の建物があった。そしてその花壇の脇には「ヒジカタカフェ 0号店」と書かれてある。
「0号店?」
「そう。まだ試作って事だ。」
「でも営業しているんでしょう?」
「一応な。」
 でも建物の前には車が数台停められるようなスペースがあるけれど、車はない。ぱっと見た感じは目は引くけれど、お客さんが少ないのかもしれない。
 茅さんは手をやっと離し、その中に入っていった。
「いらっしゃいませ。」
 店内は「窓」よりも少し広いといったくらいだろうか。だけどコーヒーのにおいがあまり強くない。
「何名様でしょ……あぁ。藤堂さん。」
 そこから出てきたのは、赤い髪の女性だった。
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