夜の声

神崎

文字の大きさ
上 下
314 / 355
二年目

314

しおりを挟む
 コーヒーもそこそこに、芙蓉さんはカウンターの中に入ってきた。まだ周りにお客様が居たから、入ってくるなとキツい言葉を葵さんも言えなかったのだろう。
「どの豆使えばいい?」
 もう諦めたように、彼はブレンドの豆を彼女に渡した。その間、奥のお客様がレジの前に立った。それを私が会計し、トレーと布巾を持って片づけにいく。
 お皿を片づけて、カウンターの中に入ると芙蓉さんは手際よく豆を挽いていた。
「手際いいな。ずっとやってたのか?」
 棗さんが聞くと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「母さんが教えてくれた。でも母さんのやり方とちょっと違う。でも母さんの前ですると怒られるのよ。こっちの方があたし、美味しいと思うんだけど。」
 豆を挽いたのを見て、彼女はにっこりと微笑んだ。そしてペーパーフィルターをセットする。
「お母さんは、ペーパーを使わなかったんじゃないんですか?」
「良く知ってるねぇ。そう。ネルドリップばっか。あっちに帰ったらネルも教えてくれるって言ってたけど……。」
 もうその願いは叶わないかもしれない。少なくとも彼女が成人するまでは、それが叶わないのだと思う。
 百合さんの裁判の一回目がこの間あったらしい。情状酌量の余地はないと、検察側は実刑を求めた。片桐さんもおそらく実刑になるだろう。少しでも短い刑期になればいいと言っている。
 ふわっといい香りがした。
 お湯を注いだらしい。彼女の淹れ方は独特だ。まぁきっと蓮さんに言わせると、私や葵さんの淹れ方もマニュアルとは違うと言うらしい。
 葵さんはその淹れ方を黙って見ていた。何を思っているのだろう。
「出来たー。カップどれ使えばいい?」
 後ろの棚にあるカップを取ろうとした芙蓉さんを、葵さんは止める。
「いいえ。飲まなくても結構。」
「え?」
「飲めたものじゃないですよ。あぁ。豆が無駄になってしまった。」
 もう怒りが頂点を達している。笑顔なのに、その目の奥が笑っていない。
「美味しいと思うよー?飲んでみてよー。」
「いいえ。結構。何なら自分で飲んでみますか?この冷えた桜さんが淹れたコーヒーと、自分のコーヒーを。」
 カウンターから芙蓉さんを追い出すと、彼はそのコーヒーをカップに注いだ。そして彼女の前に置く。
「ねぇ。葵さん。私にも飲ませてくれない?」
 棗さんはそう言ってきた。葵さんはその言葉通り、カップにもう一つコーヒーを注ぐ。そして芙蓉さんと棗さんの前に置いた。
「コーヒー苦手じゃないんですか?」
「うーん。苦いじゃん。」
 棗さんはそう言ってそのカップに口を付けた。
「悪くねぇよ。」
「そうですか?ではこっちのコーヒーを一口分くらいしかありませんが、飲んでみてください。」
 彼女が差し出されたコーヒーに口を付ける。
「うわっ。何これ。すげぇ。コーヒー?これ?苦くねぇな。なんかいい香りがする。何だろう。これ。木の実みたいな感じ。」
「それがコーヒー本来の香りですよ。私はあまり豆を深入りにしませんから、その分コーヒーの本来の味が楽しめるんです。」
 そういえば瑠璃さんの所に初めて行ったとき、豆が深炒りだから私もここの淹れ方ではコーヒーが台無しになったと言っていたのだ。
「んー。そうかな。」
「そうです。誰の舌でも味わえるようにして、そこからもう少し苦いものがいいとか、もう少し甘い匂いのものがいいとか、そういったものに変化していきます。このコーヒーでは基準がわからない。」
「……。」
 芙蓉さんは口をとがらせて、私が淹れたコーヒーを口にする。
「商売向きではありませんね。あなたのコーヒーは。」
「でもさぁ。」
「口答えは許しません。」
 驚いた。葵さんがそんな厳しい口調を使ったところを見たことがないから。
「じゃあ、どうやって淹れるの?」
「私が教えるんですか?桜さんはここの従業員ですから教えられますが、あなたは違う。教える義理はありません。」
 本気でイヤなんだな。そういえば、松秋さんも習いたいって来たけど断られたって言ってた。他人に教えるのは本気でイヤなんだ。
「棗さん。」
 私はカウンターをでて、彼女に耳打ちをする。
「そろそろ帰ったらどうですか?」
「……あぁ。ごめんな。こんな事に巻き込んで。」
 棗さんはちらりと芙蓉さんの方を見て、袖を引っ張った。
「そろそろ帰るぞ。桔梗さんもそろそろ帰ってるだろうし。」
「やぁだ。」
「芙蓉。」
 芙蓉さんも意地になっているようだ。カウンターの席から立ち上がり、葵さんに向かって言う。
「あたし、ここでバイトする。」
「芙蓉さん?」
 驚いて彼女をみる。
「どうせ桜ちゃんは春には居なくなるんでしょ?あたしがその後働く。」
 その言葉に、葵さんは鼻で笑うように言った。
「冗談でしょう?」
「いいじゃん。」
「敬語が出来ない、この国の言葉もろくに使えないような方を雇うわけにはいきません。コーヒーを淹れるというのは、技術だけじゃないんです。接客も必要になってきますからね。」
 うーん。確かにそうかもしれない。わずかだけどこの国の言葉がたどたどしい芙蓉さんには厳しいのかもしれないな。
「明日からお前、学校だろ?もう今日は帰ろう。」
「やーだ。」
「わがまま言うな。桜。会計して。」
「はい。」
 レジへ行くと、私は二人分の会計をした。そして棗さんは引きずるようにして芙蓉さんと出て行った。
 それを見て葵さんはため息をついた。
「ほかのお客様が居なくて良かったですよ。」
「……それにしては……。」
「どうしました?」
「いいえ。何か冷たい言い方だと思って。」
「あぁ。そうですね。そうでも言わないと、彼女は諦めてくれないだろうと思ったんです。」
 カウンター席を片づけて、お皿を流しに入れた。もうほかのお客様はいない。
「でも私が居なくなったら、ほかの従業員を雇わないといけませんよね。まだ決まっていないのだったら……。」
「冗談。彼女を雇えるわけがありません。」
「そうですか。」
「……あなたがずっと居てくれたらいいのですが。」
 そういって彼は私の腰に手を伸ばしてきた。その手をふりほどき、彼を見上げる。
「冗談はやめてください。」
「冗談じゃありませんよ。私はずっとあなたしか見てませんから。確かに当初は、あなたと百合を重ね合わせていたところがあります。しかし、今は違う。あなたしか見てません。」
 彼はそういって私の頬に手を合わせてきた。
「イヤです。」
「ほら。そんなにのけぞってはお尻が濡れてしまいますよ。」
 腰のあたりに手が伸びる。そして自分の方に引き寄せようとしたときだった。
「忘れ物した。」
 ドアベルが鳴り、さっと彼は手を離した。ドアの向こうから、芙蓉さんがやってきた。そして不思議そうに私たちを見ている。
 その様子に、葵さんは軽く舌打ちをした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?

碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。 まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。 様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。 第二王子?いりませんわ。 第一王子?もっといりませんわ。 第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は? 彼女の存在意義とは? 別サイト様にも掲載しております

亡くなった王太子妃

沙耶
恋愛
王妃の茶会で毒を盛られてしまった王太子妃。 侍女の証言、王太子妃の親友、溺愛していた妹。 王太子妃を愛していた王太子が、全てを気付いた時にはもう遅かった。 なぜなら彼女は死んでしまったのだから。

お父様お母様、お久しぶりです。あの時わたしを捨ててくださりありがとうございます

柚木ゆず
恋愛
 ヤニックお父様、ジネットお母様。お久しぶりです。  わたしはアヴァザール伯爵家の長女エマとして生まれ、6歳のころ貴方がたによって隣国に捨てられてしまいましたよね?  当時のわたしにとってお二人は大事な家族で、だからとても辛かった。寂しくて悲しくて、捨てられたわたしは絶望のどん底に落ちていました。  でも。  今は、捨てられてよかったと思っています。  だって、その出来事によってわたしは――。大切な人達と出会い、大好きな人と出逢うことができたのですから。

婚約破棄とか言って早々に私の荷物をまとめて実家に送りつけているけど、その中にあなたが明日国王に謁見する時に必要な書類も混じっているのですが

マリー
恋愛
寝食を忘れるほど研究にのめり込む婚約者に惹かれてかいがいしく食事の準備や仕事の手伝いをしていたのに、ある日帰ったら「母親みたいに世話を焼いてくるお前にはうんざりだ!荷物をまとめておいてやったから明日の朝一番で出て行け!」ですって? まあ、癇癪を起こすのはいいですけれど(よくはない)あなたがまとめてうちの実家に郵送したっていうその荷物の中、送っちゃいけないもの入ってましたよ? ※またも小説の練習で書いてみました。よろしくお願いします。 ※すみません、婚約破棄タグを使っていましたが、書いてるうちに内容にそぐわないことに気づいたのでちょっと変えました。果たして婚約破棄するのかしないのか?を楽しんでいただく話になりそうです。正当派の婚約破棄ものにはならないと思います。期待して読んでくださった方申し訳ございません。

【完結】お父様の再婚相手は美人様

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 シャルルの父親が子連れと再婚した!  二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。  でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

6年後に戦地から帰ってきた夫が連れてきたのは妻という女だった

白雲八鈴
恋愛
 私はウォルス侯爵家に15歳の時に嫁ぎ婚姻後、直ぐに夫は魔王討伐隊に出兵しました。6年後、戦地から夫が帰って来ました、妻という女を連れて。  もういいですか。私はただ好きな物を作って生きていいですか。この国になんて出ていってやる。  ただ、皆に喜ばれる物を作って生きたいと願う女性がその才能に目を付けられ周りに翻弄されていく。彼女は自由に物を作れる道を歩むことが出来るのでしょうか。 番外編 謎の少女強襲編  彼女が作り出した物は意外な形で人々を苦しめていた事を知り、彼女は再び帝国の地を踏むこととなる。  私が成した事への清算に行きましょう。 炎国への旅路編  望んでいた炎国への旅行に行く事が出来ない日々を送っていたが、色々な人々の手を借りながら炎国のにたどり着くも、そこにも帝国の影が・・・。  え?なんで私に誰も教えてくれなかったの?そこ大事ー! *本編は完結済みです。 *誤字脱字は程々にあります。 *なろう様にも投稿させていただいております。

処理中です...