夜の声

神崎

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二年目

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 すでに定時は過ぎているからかもしれないが、エントランスはもうあまり人がいない。受付すらいないように思えた。人の少ない広いエントランスの窓側にソファがあるのは、ここできっと商談なんかをしたり、お客様を待たせたりすることもあるのだろう。
 まだここに入社もしていない私がここに座っていいのだろうか。そう思ったから、エレベーターが見える壁側にもたれて行き交う人たちを見ていた。
 若い会社だと思ったけれど、そうでもないようだ。創始者という男性は社長には全く似ていない。きっとヒジカタという名前なのに、社長の名前が芹沢というのが何か理由があるのだろう。まぁ、関係ないけれど。
 携帯電話が鳴る。相手は柊さんだった。
「もしもし。」
「桜。こっちに何時ぐらいに帰れそうか?」
 柱にかかっている時計をみる。もう二十時近い時間だ。
「わからない。二十三時近いか、日をまたぐかもしれないわ。」
「そんなにかかりそうか。」
 ため息をつく音が聞こえてくる。少し私は笑い、言葉を続けた。
「これからいつでも会えるわ。春になれば毎日顔をあわせるのでしょう?」
「それはそうだが……。」
「それまで待ちましょう。私もそれを待っているわ。」
「そうだな。でも直接言いたくて。」
「何を?」
「試験に合格したこと。」
「ありがとう。」
「メッセージだけは送ったがな。」
「えぇ。でも嬉しかった。」
「明日、店に行く。」
「待ってるわ。」
 電話を切る。わずかな隙間の時間だ。それを縫って連絡してくれたのだろう。携帯電話越しの声が嬉しかった。
 そのときエレベーターから数人の人が降りてきた。その中に茅さんの姿がある。ソファの方を見たけれど、こちらを見て近づいてきた。
「気持ち悪いヤツ。どうした。にやにやして。」
「何でもないわ。」
「どうせ、柊から連絡があったとかそんなところだろ?」
「うん。」
「単純なヤツ。」
 顔は笑っていたけれど、口調は不機嫌そうだった。
「どうせ今日は会えないんだ。」
 外を見る。昨日はいい天気だったのに今日は朝から厚い雲がかかっていて、雨が降るかもしれないと言っていた。
「ゆっくり帰るか。」
「……明日は仕事よね?私も明日は学校なの。早く帰りたいわ。」
「もったいないと思わないか。」
「柊さんとならもったいないと思えたかもしれないわね。」
 そんなことを言いながら、会社の裏にある駐車場へ向かう。そして目立った赤い車に乗り込んだ。エンジンをかけると、茅さんは煙草を取り出して火をつける。
「飯を食って帰るか。」
「簡単なもので良いよ。」
「そんなに早く帰りたいのか。」
「そんなことはないわ。ただ遅くなると体がきつくなるなと思っただけ。」
「あぁ。そうだな。夕べは遅かったし。」
 夕べという言葉で私はぞっとしてしまう。夕べもこの人に抱かれてしまった。後悔はもちろんだけれど、湿っぽいこの体も恨めしい。せめて何も感じなければ良かったのに。
「入社式の時にもう一度来てと言われたわ。」
 その言葉に、茅さんはニヤリと笑う。
「また連れてくるか?」
「そこまでするとえこひいきだわ。それでなくても会社で噂が持ちきりらしいのに。」
「気にするな。会社のことは、俺が守ってやる。そこは柊にもできないことだろう。」
 その言葉に首を横に振る。
「いいのか?」
「うん。自分で何とかしないといけないところは何とかしなきゃ。自分で出来ることは、自分でする。結果を出すわ。」
「……そうか。」
 結果を出せば黙る。というか出さなければいけない。たぶん良い企画だから、結果を出せないとなると私の責任になるだろう。
「お前の出来ることをしろ。能力以上のことは出来ないのだから。」
「そうね。」
 きっと椿さんもそう言うだろう。
 私が出来ることは、目の前のお客様に最高の一杯を淹れること。
 きっと資格を取ったのはその自信を持つのに最適だから。そんなことまで会社は思っていたのだろうか。わからない。だけど有意義なモノだった。
 茅さんと体を重ねた以外は。

 日を結局越してしまった。結局食事をしたり、寄り道をしたりして帰ってきたのはその時間になってしまった。
「すっかり夜ね。」
「あぁ。もう終わりか。」
 車を駐車場に停めると、私はそこから出ようとした。しかし茅さんの手が私を止める。
「何?」
「キスしたい。」
「イヤよ。」
「夕べはさんざんしたくせに。」
「帰りたいのよ。それにこんな車の中でしたくない。誰が見てるかわからないもの。」
「あいつとは外でもしてたのに?」
「見てないと思ったから。」
「今も誰も見てねぇよ。」
 私の手を引こうとする。しかしその手をやっとふりほどくことが出来て、私は外に出る。雨が降っていた。急いでアパートの中に入らないと。
 そのとき私の上に傘を差し出された。上を見上げると柊さんがいる。少し微笑んだような表情だった。
「お帰り。」
「ただいま。」
 茅さんも車の外に出てくる。そして柊さんのそばにやってきた。
「こいつの世話をしてもらって悪かったな。茅。」
 雨に濡れている茅さんは、彼から少し視線をはずした。
「別に……会社のことのついでだったから。お前、今日来れないんじゃなかったのか。」
「都合を付けた。」
 無理に都合を付けたんじゃないのだろうか。不安そうに彼を見上げると、彼は私の頭を少し撫でた。
「ありがとう。柊。」
「あぁ。どうしても今日会いたくてな。」
「あーあ。」
 その言葉に茅さんが大げさにため息をつく。その行動に柊さんも彼をみる。
「どうした。茅。」
「あちいな。と思ってな。昔とあんた違うんだな。」
「違うとしたらこいつのお陰だろう。」
「ベタぼれかよ。参ったな。」
 そう言うと茅さんは私の方をみる。それはさっきのこと場と裏腹の視線だった。そう。夕べと同じ、熱いモノだった。それに気がついて、柊さんは私の肩を抱いた。
「ま、いいや。俺帰るし。」
 そう言って彼はまた車に乗り直した。私は後部座席から荷物を取り出す。そして赤い車は行ってしまった。
「どうしたんだ。あいつは。様子がおかしかったが。」
「風邪でもひいたのかしらね。」
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