夜の声

神崎

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二年目

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「や……。」
 最悪の状況だった。手を捕まれ逃げようがない。顔を避けているけれど、いつ正面を向かされるかわからない。それにこの唇が、何か離す度にかかる吐息が、背中までぞくぞくさせる。
「桜。まだいるか?」
 そのときドアベルが鳴った。あわてて葵さんは私の手を離す。そこには茅さんの姿があった。スーツ姿の所を見ると、仕事終わりらしい。
「どうした?」
「もう上がりなさいと言っていたんです。」
「……。」
 葵さんの口調はいつもと変わらないようだった。私は唇をかみしめたまま、笑顔で茅さんを見た。
「どうしました?」
「あぁ……。ライセンスの取得に、都会に行かないといけないだろ?十二月くらいか。」
「はい。」
「俺、その時期、本社に行かないといけなくてさ。一緒に行こうぜ。」
「は?」
 茅さんと行くって言うの?無理無理。絶対襲ってくる。
「会社もお前を一度、見たいって上が言っててさ。交通費も出るらしいから。」
「……。」
「大丈夫だって。受講代は出ねぇけど、交通費は出すってんだから言い話だろ?」
 にこにこしながら話す茅さんはさっき葵さんから襲われそうになったことなど、予想もしていなかったように思えた。

 着替えを終えてカウンターに出てくると、茅さんは私の顔を見て笑っていた。
「んだよ。お前、そんなに絵のセンスねぇのか。」
「うるさいですよ。あーもう。葵さん話したんですか?」
「いずればれますよ。内緒にしてても。」
「もー。やだ。練習したあとに披露したかったのに。」
「ほら、茅見てくださいよ。」
 そう言って葵さんは自分の携帯電話を茅さんに差し出した。
「マジで?これ何作る予定だったんだよ。お前。」
「写真撮ってたんですか?ひどい!」
 頬を膨らませて抗議すると、葵さんは笑いながら携帯電話をしまった。
「いずればれることです。要練習ですね。頑張ってください。」
 いつもと変わらない様子で、葵さんは見送ってくれた。さっきまで襲おうとしていた人とは思えない。
 茅さんと並んで歩いている。いつもだったら茅さんは、うるさいくらい話しかけてくるのに、今日は黙ったままだった。どうしたんだろう。
「茅さん。あの……。」
「お前、不満?」
「何が?」
「俺と都会行くの。」
「……。」
「そりゃ、柊の方が良いかもしれないけどな。でも……。」
「茅さん。イヤだとは思わないわ。でも……あなたといると、ずっと柊を裏切っている気がするから。」
「手は出さない。」
「……本当に?」
「保証はしない。あっちにはあっちの付き合いもあるし、酔った勢いでそういうことをすることもあるかもな。」
「それは本当にやだ。」
「わかってるよ。酔った勢いで生でしたら大変だなぁ。」
「しないわ。」
 バックを持ち直す。そのとき彼の目が私の手首に刺さる。
「どうした。その手。」
「え?」
 手を捕まれて、やっと痛みを感じた。
「いたっ。」
「痣になりかけてる。どうしたんだ。やっぱあのとき、葵に何かされたのか。」
「……されかけた。正確には何もされてない。」
 手を離し、私は改めて手首を見た。街灯に照らされた手首はわずかに変色している。
「間一髪だったのか。」
「えぇ。そういう意味ではありがたかったわ。」
「……葵もお前を狙ってたって、わかってたはずなのにな。」
 彼はため息を付いた。そして私をみる。
「あいつの方がよっぽど男らしいな。俺は、柊に何も言えてない。おまえに惚れてるのも。寝たのも。」
「……言わないで。」
「どうしてだ。隠したまま続けるのか。」
「続ける?私たちは何もないわ。これからも何もないでしょう?」
 冷たい言い方だったかもしれない。でもそういわないと、彼は私を追い続けるから。
「お前、そんなにイヤか?」
「……え?」
「俺と何かあるのがイヤなのか。」
 イヤ?ここでイヤだ。離れて欲しい。触れないで欲しいと言うのは簡単だと思う。だけど心が揺れる。
 茅さんの手の温かさを今でも思い出すことがある。柊さんと違う細い腕。私を呼ぶ声。
「……罪の意識があるわ。」
「……。」
「柊が好きよ。あの人しか見えていないし、守られたいと思う。だけど忘れられないこともある。」
 いつの間にか足が止まっていた。そして茅さんを見上げた。
「だから怖い。」
「桜。」
 変色しかけた腕を、彼は手に取る。そしてそこに唇を寄せた。
「よく冷やせよ。柊にいつ会うかわからないだろう。疑われるぞ。」
「そうね。」
 足をまた進める。それから家に帰るまで茅さんは、私に触れなかった。
 もう茅さんは私に触れないつもりなのかもしれない。これで良いんだ。私はもう柊さんしか見ないんだから。
 だけどどうしてだろう。こんなに心の中に穴が開いたような気がした。
 お風呂から上がると、冷凍庫から保冷剤を取り出した。こんなこともあろうかと取っておいたのが役にたったのだ。それを腕に当てると、体まで冷えるようだった。だけど心もなぜか冷えている。
 茅さんを振ったような形になったからだろうか。
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