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二年目
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やがて冬になる。
退院した瑠璃さんの所に、日曜日のたびに電車で向かう。そして夕方になると、「窓」へ行きバイトをしてその夜におさらいをさせてもらう。帰るとバリスタライセンスの勉強。
忙しい日々を送っていた。柊さんも忙しいらしくて、ほとんど会えることはないけれど、メッセージだけは送ってくれると安心した。と同時に私は罪悪感に苛まれていた。
忙しく動いているのは、私のためだった。それを不安に思い、裏切ってしまったことは消すことは出来ないのだ。だけど相変わらず茅さんは、隙あれば手を出そうとしてくる。茅さんもその場にいたから、柊さんの真意は知っているはずなのに、それでも私を手に入れようとしている。そんなにしてまで私の何がいいのか全くわからない。
「そのくらいのローストが、エスプレッソの濃さです。」
「相当濃いですね。」
「少し細かく挽いて、濃く入れますからね。少しの量で満足させるのがエスプレッソです。アイスコーヒーはもう少し薄めですね。」
営業が終わった後、葵さんは今日習ったことをおさらいのように教えてくれる。それだけが目的ではないことはわかるけれど、早くものにしなければいけないと思っている。
瑠璃さんは会う度に、痩せていっている。本当に調子がよくないのは目に見えているから。それでもそこにいて、私に教えてくれているのは無理をしてまで私にすべてを教えてくれようとしているからだと思う。
不意に店のドアが開く。入ってきたのは茅さんだった。
「終わったか?」
淹れたコーヒーを試飲しようとしたときやってきたのだ。
「お前はいつもいいタイミングでやってくるな。見てたようだ。」
葵さんは呆れたように、彼をみる。
「どうだ。桜。調子は。」
「覚えることが多くて、頭パンパンですよ。」
「そう気負うな。そのコーヒー、もう一杯分くらいはある?」
「えぇ。飲みますか。」
そういってカップをワンセット取り出した。
「それを目当てにやってきたんだろう。」
葵さんは最近、茅さんがここに来るのをいやがっているように思えた。だけど柊さんが忙しいから、バイト終わりに送って欲しいと指名したのは茅さんであり、葵さんに送ってもらうのは拒否したらしい。
葵さんが私を家に送ると、何か手を出されるかもしれないと思っているのだろう。実際は茅さんにも手を出されたわけだけど、そのことは柊さんは知らないわけだし。
それに茅さんにとっては会社のことだという名目もある。順調に育っていって欲しいと願っているのだろう。もちろん下心もあるけれど。
「二日後が飲み頃です。これを明後日は出しましょう。」
葵さんはそういって送ってくれた。
二十二時。高校生はもう補導される時間だ。だけど茅さんがいれば、声をかけられることもない。一応保護者に見えるがいるからだと思う。パトカーが通り過ぎていく。その赤いランプを見ながら、私たちはアパートへ向かう。
「瑠璃さんの様子はどうだ。」
「……どんどん痩せていってる気がする。座ってる時間も多くなったし、年内は無理かもしれないって自分でも言ってた。」
「困ったな。あの人から習ったことがウチの強みになるはずだと思ってたのだが。」
いつか茅さんが、どうしてヒジカタコーヒーに入社したのかを話していたのを覚えてる。理想の喫茶店を作りたいらしい。
最高のコーヒーと、音楽、本で非日常の空間を作りたい。
この国の人は忙しく働きすぎだ。その空間でゆっくりした時間を送って欲しい。
そのためにはヒジカタコーヒーがカフェを作りたいという話を持ってこられたとき、自分の理想の店を作れるなら乗ると言ったのだ。だからカフェが作れなければ、彼はここにいる意味がないのだ。
「やめてよ。」
コンビニを過ぎて、住宅街。もう人通りが少ないこの道で、彼はいつも私の手を握ろうとする。それを振り払うのがいつも通りの光景だった。
「もう一回してるんだから、今更恥ずかしがんなよ。」
「イヤなの。」
彼はため息を付いて、タバコに火をつけた。
「またお前、あいつに操をたててんのか。」
「えぇ。私のために動いてくれているのに、裏切れないわ。」
「もう一度、裏切ってんのに?」
「……気の迷いだったのよ。」
私はそういってアパートの中に入っていった。
「ありがとう。おやすみなさい。」
「柊は今日も来ないんだろ?」
「来るかもしれないわ。」
時間がないといいながらも、柊さんはたまには私の部屋にやって来ることもある。朝起きたら、彼がいることもあるのだ。それを告げると、茅さんは無理に私の部屋に来ることはなくなった。
彼もまだ「柊の可愛い後輩」であると、柊さんに思わせておきたいのだろう。
部屋に戻ってきて、食事をすませた。そしてお風呂にはいると、すぐにラジオをつけた。最近は最初から椿さんのラジオを聴ける暇がない。今日も音楽が流れている。ヨーロッパの方の音楽。でも英語ではないようだ。
それをつけながら、私は勉強机にテキストを並べた。バリスタライセンスの勉強は嫌いじゃない。公務員の試験よりも意味不明だとは思わなかった。
ただ一つ気になることがある。
「……講習か。高校生でもとれるのかなぁ。」
とれると思うんだけど。言ってきたことだし。どこで出来るのかは自分で問い合わせてみないとなぁ。
ん?平日かぁ。一番早いのが。学校休まないといけないか。どうしようかな。
学校休んでまでとるかというと……やっぱとらないといけないよな。うん。やらないと。あと未成年者は保護者のサインか。明日母さんにサインしてもらってと。
ため息を付く。椿さんのラジオ番組はいつの間にか終わっていて、あとは気軽な番組しかしていない。
ラジオを消すと耳が痛くなるほどの静寂が襲ってきた。
瑠璃さんは行けば行くほど笑顔だ。きっと痛みで気が遠くなりそうなのに。それなのに笑顔になっている。そこら辺が葵さんに似ているところなのだろう。
葵さんも苦しいときほど笑顔になるのだから。
退院した瑠璃さんの所に、日曜日のたびに電車で向かう。そして夕方になると、「窓」へ行きバイトをしてその夜におさらいをさせてもらう。帰るとバリスタライセンスの勉強。
忙しい日々を送っていた。柊さんも忙しいらしくて、ほとんど会えることはないけれど、メッセージだけは送ってくれると安心した。と同時に私は罪悪感に苛まれていた。
忙しく動いているのは、私のためだった。それを不安に思い、裏切ってしまったことは消すことは出来ないのだ。だけど相変わらず茅さんは、隙あれば手を出そうとしてくる。茅さんもその場にいたから、柊さんの真意は知っているはずなのに、それでも私を手に入れようとしている。そんなにしてまで私の何がいいのか全くわからない。
「そのくらいのローストが、エスプレッソの濃さです。」
「相当濃いですね。」
「少し細かく挽いて、濃く入れますからね。少しの量で満足させるのがエスプレッソです。アイスコーヒーはもう少し薄めですね。」
営業が終わった後、葵さんは今日習ったことをおさらいのように教えてくれる。それだけが目的ではないことはわかるけれど、早くものにしなければいけないと思っている。
瑠璃さんは会う度に、痩せていっている。本当に調子がよくないのは目に見えているから。それでもそこにいて、私に教えてくれているのは無理をしてまで私にすべてを教えてくれようとしているからだと思う。
不意に店のドアが開く。入ってきたのは茅さんだった。
「終わったか?」
淹れたコーヒーを試飲しようとしたときやってきたのだ。
「お前はいつもいいタイミングでやってくるな。見てたようだ。」
葵さんは呆れたように、彼をみる。
「どうだ。桜。調子は。」
「覚えることが多くて、頭パンパンですよ。」
「そう気負うな。そのコーヒー、もう一杯分くらいはある?」
「えぇ。飲みますか。」
そういってカップをワンセット取り出した。
「それを目当てにやってきたんだろう。」
葵さんは最近、茅さんがここに来るのをいやがっているように思えた。だけど柊さんが忙しいから、バイト終わりに送って欲しいと指名したのは茅さんであり、葵さんに送ってもらうのは拒否したらしい。
葵さんが私を家に送ると、何か手を出されるかもしれないと思っているのだろう。実際は茅さんにも手を出されたわけだけど、そのことは柊さんは知らないわけだし。
それに茅さんにとっては会社のことだという名目もある。順調に育っていって欲しいと願っているのだろう。もちろん下心もあるけれど。
「二日後が飲み頃です。これを明後日は出しましょう。」
葵さんはそういって送ってくれた。
二十二時。高校生はもう補導される時間だ。だけど茅さんがいれば、声をかけられることもない。一応保護者に見えるがいるからだと思う。パトカーが通り過ぎていく。その赤いランプを見ながら、私たちはアパートへ向かう。
「瑠璃さんの様子はどうだ。」
「……どんどん痩せていってる気がする。座ってる時間も多くなったし、年内は無理かもしれないって自分でも言ってた。」
「困ったな。あの人から習ったことがウチの強みになるはずだと思ってたのだが。」
いつか茅さんが、どうしてヒジカタコーヒーに入社したのかを話していたのを覚えてる。理想の喫茶店を作りたいらしい。
最高のコーヒーと、音楽、本で非日常の空間を作りたい。
この国の人は忙しく働きすぎだ。その空間でゆっくりした時間を送って欲しい。
そのためにはヒジカタコーヒーがカフェを作りたいという話を持ってこられたとき、自分の理想の店を作れるなら乗ると言ったのだ。だからカフェが作れなければ、彼はここにいる意味がないのだ。
「やめてよ。」
コンビニを過ぎて、住宅街。もう人通りが少ないこの道で、彼はいつも私の手を握ろうとする。それを振り払うのがいつも通りの光景だった。
「もう一回してるんだから、今更恥ずかしがんなよ。」
「イヤなの。」
彼はため息を付いて、タバコに火をつけた。
「またお前、あいつに操をたててんのか。」
「えぇ。私のために動いてくれているのに、裏切れないわ。」
「もう一度、裏切ってんのに?」
「……気の迷いだったのよ。」
私はそういってアパートの中に入っていった。
「ありがとう。おやすみなさい。」
「柊は今日も来ないんだろ?」
「来るかもしれないわ。」
時間がないといいながらも、柊さんはたまには私の部屋にやって来ることもある。朝起きたら、彼がいることもあるのだ。それを告げると、茅さんは無理に私の部屋に来ることはなくなった。
彼もまだ「柊の可愛い後輩」であると、柊さんに思わせておきたいのだろう。
部屋に戻ってきて、食事をすませた。そしてお風呂にはいると、すぐにラジオをつけた。最近は最初から椿さんのラジオを聴ける暇がない。今日も音楽が流れている。ヨーロッパの方の音楽。でも英語ではないようだ。
それをつけながら、私は勉強机にテキストを並べた。バリスタライセンスの勉強は嫌いじゃない。公務員の試験よりも意味不明だとは思わなかった。
ただ一つ気になることがある。
「……講習か。高校生でもとれるのかなぁ。」
とれると思うんだけど。言ってきたことだし。どこで出来るのかは自分で問い合わせてみないとなぁ。
ん?平日かぁ。一番早いのが。学校休まないといけないか。どうしようかな。
学校休んでまでとるかというと……やっぱとらないといけないよな。うん。やらないと。あと未成年者は保護者のサインか。明日母さんにサインしてもらってと。
ため息を付く。椿さんのラジオ番組はいつの間にか終わっていて、あとは気軽な番組しかしていない。
ラジオを消すと耳が痛くなるほどの静寂が襲ってきた。
瑠璃さんは行けば行くほど笑顔だ。きっと痛みで気が遠くなりそうなのに。それなのに笑顔になっている。そこら辺が葵さんに似ているところなのだろう。
葵さんも苦しいときほど笑顔になるのだから。
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