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二年目
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こんな早朝に柊さんのアパートに来ることはない。錆びた階段を上る音が二つ響き、まるで死刑台に上がる罪人のようだと思った。それを茅さんも感じたのか足を早め、それでも登らなければいけないと言い聞かせているようだった。
やがて部屋の前に立つ。合い鍵は持っているので、そこに差し込もうとしたけれど茅さんはそれを止めた。
「どうして?」
「常に最悪の場合を想定しろ。」
この場合の最悪は何だろう。想像したくない。だからもし最悪だった場合、私の心理を考えて彼はそうしたのかもしれない。
チャイムは壊れている。鳴らないのは知っていたので、茅さんはそのドアを叩いた。しかし誰も出てこない。
「いないのか。」
どこかでほっとしている自分がいた。最悪の場合はないのだ。
「どうする?帰るか?」
「いいえ。中で待ちます。」
「でも家で待っていると言っていたのだろう?家に来るかもしれないぞ。」
「……この時間まで来ないことはなかったんですけどね。」
ぽつりと言い、私はため息を付いた。
「メッセージも来てないのか。」
「えぇ。」
「菖蒲姉さんも既読は付かない。まぁ、あの人は忙しい人だからな。連絡がある方が珍しかった。」
「やっぱり家で……待ちます。来るかもしれないから。」
「家に帰ってきたら、胡桃さんから連絡はないだろうか。」
「母さんはすぐ寝ちゃうと思うから。」
部屋のドアから離れ、私たちは自分たちのアパートへ戻っていった。上の階に上がろうとした私に、茅さんが声をかける。
「桜。コーヒーを入れてくれないか。」
「コーヒーを?」
「あぁ。気分を晴らしたい。」
それもそうかもしれない。私も気分を変えることは必要かもしれないから。
「母さんにいいわけをしないといけないんですよね。家へ来ますか。」
「……それもそうだな。豆を持って行く。知り合いが郵送してくれた豆がある。焙煎具合も、今日が飲み頃だ。」
「楽しみですね。」
私はそこで少し待つと、茅さんはすぐにやってきた。手には紙袋がある。
家に帰ると、シャワーを浴びてシャツとショートパンツをはいた母さんがいた。煙草を片手に、私を待っていたようだった。
「母さん。」
「早い帰りね。浮気でもしてんの?あんた。しかも茅とだなんて。」
「浮気じゃないわ。茅さんとは何もない。」
「どうだか。手の早い男だもの。」
茅さんは母さんの向かいに座ると、煙草を取り出した。
「娘とはいつからの知り合いなの?」
「春かな。この国に帰ってきたのは正月くらいだったけど、本社とこっちとでなかなか安定しなかったからな。」
「ふーん。本社ってことは、まともな仕事に就いてるのね。」
「あぁ。ヒジカタコーヒーだ。」
「紅葉さんの下ってこと?」
「そう。それにカフェプロジェクトのリーダーだ。」
キッチンでお湯を沸かしながら、私は受け取った紙袋の封を開けた。フワンといい香りがした。多分、豆もだけど焙煎がいいらしい。少し濃いめのロースト具合。これくらいが好きなのだろう。葵さんならもう少し薄めに仕上げるはずだ。
「蓬さんのところにはいないの?」
「あの人は俺にもう関心はない。あの人が感心があるのは柊くらいだろう。」
「柊さんはまだ繋がりがあるっていうの?」
「無いな。調べてみたけど、全くと言っていいほどない。特に今年の春からは接点が全くないようだ。」
「……だったらいいけど。」
豆をミルで挽くと、さらにいい香りが立ってきた。
「俺のやっていたことをあんたは知っているから、桜に近づくなといいたいのかもしれない。」
「女を売ってたこと?それとも違うことかしら。」
「まぁ、それも含めてだ。だが、今はこんな彫り物ばかりしているが、見る目は確かだ。」
「自分でいうところなんか、昔と変わってないわね。」
母さんが笑っていた。割と上機嫌なのかもしれない。
「桜をウチにくれないか。」
「ウチ?桜は柊って人がいるけど?」
「そういう意味じゃない。だいたい、俺がいつロリコン趣味に走ったかよ。」
「そうね。あんたは人妻キラーだったものね。」
「ふん。」
お湯が沸いて、コーヒーをじっくりと入れる。香りが部屋中に充満するようだった。
「ウチの会社にくれないか。」
「……そのつもりじゃないの?事務方でしょ?そう言ってたわ。」
「カフェ事業に来てほしい。」
「は?この子が葵を裏切ってあんた等の会社のためにコーヒーを淹れろっていうの?バカにしてるの?」
「そんな意味じゃない。バカはお前だ。」
「何ですって?」
コーヒーを淹れ終わり、カップを三つ用意した。そしてコーヒーを一つずつ入れて、私もリビングに入る。
「喧嘩腰にならないの。コーヒーでも飲みなさいな。」
カップを前に置くと、私は母さんの隣に座った。
「……いい豆だぞ。とっておきだ。」
「いただくわ。」
ずいぶん香りの高い豆だ。昨日路上で入れた豆によく似ている。
「うん。うまい。」
「どこの豆なの?ずいぶん美味しいコーヒーね。」
確かに、どこの豆だとかそんなに詳しいわけじゃないけれど、ちょっと甘い匂いがして、でもほんのり酸味もある。だけど飲みあとがすっきりしててこの国の人には合うかもしれない。
「国産だ。」
「南の方でしかとれないわね。」
「そうね。」
さっきまでの殺伐とした雰囲気が、コーヒーの魔力で一気になくなった。みんなでコーヒーを飲む。そして自然と笑顔になった。
これがコーヒーの力なのかもしれない。
やがて部屋の前に立つ。合い鍵は持っているので、そこに差し込もうとしたけれど茅さんはそれを止めた。
「どうして?」
「常に最悪の場合を想定しろ。」
この場合の最悪は何だろう。想像したくない。だからもし最悪だった場合、私の心理を考えて彼はそうしたのかもしれない。
チャイムは壊れている。鳴らないのは知っていたので、茅さんはそのドアを叩いた。しかし誰も出てこない。
「いないのか。」
どこかでほっとしている自分がいた。最悪の場合はないのだ。
「どうする?帰るか?」
「いいえ。中で待ちます。」
「でも家で待っていると言っていたのだろう?家に来るかもしれないぞ。」
「……この時間まで来ないことはなかったんですけどね。」
ぽつりと言い、私はため息を付いた。
「メッセージも来てないのか。」
「えぇ。」
「菖蒲姉さんも既読は付かない。まぁ、あの人は忙しい人だからな。連絡がある方が珍しかった。」
「やっぱり家で……待ちます。来るかもしれないから。」
「家に帰ってきたら、胡桃さんから連絡はないだろうか。」
「母さんはすぐ寝ちゃうと思うから。」
部屋のドアから離れ、私たちは自分たちのアパートへ戻っていった。上の階に上がろうとした私に、茅さんが声をかける。
「桜。コーヒーを入れてくれないか。」
「コーヒーを?」
「あぁ。気分を晴らしたい。」
それもそうかもしれない。私も気分を変えることは必要かもしれないから。
「母さんにいいわけをしないといけないんですよね。家へ来ますか。」
「……それもそうだな。豆を持って行く。知り合いが郵送してくれた豆がある。焙煎具合も、今日が飲み頃だ。」
「楽しみですね。」
私はそこで少し待つと、茅さんはすぐにやってきた。手には紙袋がある。
家に帰ると、シャワーを浴びてシャツとショートパンツをはいた母さんがいた。煙草を片手に、私を待っていたようだった。
「母さん。」
「早い帰りね。浮気でもしてんの?あんた。しかも茅とだなんて。」
「浮気じゃないわ。茅さんとは何もない。」
「どうだか。手の早い男だもの。」
茅さんは母さんの向かいに座ると、煙草を取り出した。
「娘とはいつからの知り合いなの?」
「春かな。この国に帰ってきたのは正月くらいだったけど、本社とこっちとでなかなか安定しなかったからな。」
「ふーん。本社ってことは、まともな仕事に就いてるのね。」
「あぁ。ヒジカタコーヒーだ。」
「紅葉さんの下ってこと?」
「そう。それにカフェプロジェクトのリーダーだ。」
キッチンでお湯を沸かしながら、私は受け取った紙袋の封を開けた。フワンといい香りがした。多分、豆もだけど焙煎がいいらしい。少し濃いめのロースト具合。これくらいが好きなのだろう。葵さんならもう少し薄めに仕上げるはずだ。
「蓬さんのところにはいないの?」
「あの人は俺にもう関心はない。あの人が感心があるのは柊くらいだろう。」
「柊さんはまだ繋がりがあるっていうの?」
「無いな。調べてみたけど、全くと言っていいほどない。特に今年の春からは接点が全くないようだ。」
「……だったらいいけど。」
豆をミルで挽くと、さらにいい香りが立ってきた。
「俺のやっていたことをあんたは知っているから、桜に近づくなといいたいのかもしれない。」
「女を売ってたこと?それとも違うことかしら。」
「まぁ、それも含めてだ。だが、今はこんな彫り物ばかりしているが、見る目は確かだ。」
「自分でいうところなんか、昔と変わってないわね。」
母さんが笑っていた。割と上機嫌なのかもしれない。
「桜をウチにくれないか。」
「ウチ?桜は柊って人がいるけど?」
「そういう意味じゃない。だいたい、俺がいつロリコン趣味に走ったかよ。」
「そうね。あんたは人妻キラーだったものね。」
「ふん。」
お湯が沸いて、コーヒーをじっくりと入れる。香りが部屋中に充満するようだった。
「ウチの会社にくれないか。」
「……そのつもりじゃないの?事務方でしょ?そう言ってたわ。」
「カフェ事業に来てほしい。」
「は?この子が葵を裏切ってあんた等の会社のためにコーヒーを淹れろっていうの?バカにしてるの?」
「そんな意味じゃない。バカはお前だ。」
「何ですって?」
コーヒーを淹れ終わり、カップを三つ用意した。そしてコーヒーを一つずつ入れて、私もリビングに入る。
「喧嘩腰にならないの。コーヒーでも飲みなさいな。」
カップを前に置くと、私は母さんの隣に座った。
「……いい豆だぞ。とっておきだ。」
「いただくわ。」
ずいぶん香りの高い豆だ。昨日路上で入れた豆によく似ている。
「うん。うまい。」
「どこの豆なの?ずいぶん美味しいコーヒーね。」
確かに、どこの豆だとかそんなに詳しいわけじゃないけれど、ちょっと甘い匂いがして、でもほんのり酸味もある。だけど飲みあとがすっきりしててこの国の人には合うかもしれない。
「国産だ。」
「南の方でしかとれないわね。」
「そうね。」
さっきまでの殺伐とした雰囲気が、コーヒーの魔力で一気になくなった。みんなでコーヒーを飲む。そして自然と笑顔になった。
これがコーヒーの力なのかもしれない。
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