夜の声

神崎

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二年目

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 ぐっと腕を捕まれる感覚があって、私は足を止めた。息切れがするほど走ったらしい。下を向いて、とりあえず息を整えた。
 少し落ち着いて後ろを見る。そこには柊さんがいた。こんな表情を初めて見る。困ったような、怒っているような。その中に優しさはない。多分誤魔化そうとしている卑怯な自分だけだった。
「桜……百合は……。」
 私は首を横に振る。
「何もいわなくて良いです。」
「桜。」
「忘れられないんでしょう?そして私に似てるんでしょう?」
 周りの人たちがちらちらとこちらを見ながら通り過ぎていく。多分痴情のもつれだとは誰も思っていないだろう。良くて兄弟喧嘩。悪くて、親子喧嘩だろう。
 私は彼の目を見れない。向かい合っているのに、目をそらす。
「あなたが本当に思っている人に、私を重ねてたのでしょう?」
「違う。桜。お前はお前だ。百合を想っていた時期もあったが、すべては過去だ。あの人を追うこともしないし、葵にお前を渡す気もない。」
 空しい。すべてが空しい言葉のようだ。心に響かない。何も。すべてが空虚だ。
「追っても構いませんよ。私は……。」
 口先だけで答える。
「葵に転ぶのか。」
「いいえ。もう誰も好きにならないから。」
 体も心もこれ以上満たされたことはない。きっとこんな恋は初めてで、そして最後だから。
「桜。俺はお前を愛している。」
「私も愛してますよ。だけど……きっと私以上に愛している人がいるなら、そちらの方が良いでしょう?」
「すべては過去だ。」
「さっきも言ってましたね。」
 すると彼は私の二の腕をつかむと、それを引き寄せた。つんのめてこけそうになり、彼の体に倒れ込んだ。
「何を……。」
 すると周りの人がぎょっとした目で見る。私の顎をぐっとあげて、彼が私の唇にキスをしてきたから。
「やめてください。人前ですよ。」
 思わず突き放してしまった。すると彼は私の手を握り、建物と建物の間に引きずり込んだ。
「どうして……こんなにこそこそしてないといけないんだ。悪いことをしているわけではないだろう。人前では手も繋げない、触れたくても触れられない……。」
 初めて聞く言葉だった。彼はずっとこんなことを思っていたのだろうか。
「百合を重ねたことなどない。だが、俺はお前といると幸せであると同時に、背徳感を拭いきれなかった。」
「……。」
「悪いことをしているわけではないのに、悪いことをしているような気になった。それに、お前との距離が縮まることもなかった。同じ目線でお前と話をしたかったのに。」
 多分これが本音。彼がずっと思っていた本音なのだ。
 同じ目線に立っていなかったと思っていたのは、きっと私の彼に対する言葉遣いだと思う。私は彼を柊さんと呼び、言葉を丁寧に発し、そして彼のことを何も聞けず、ただ今だけ幸せであればいいと思っていた。
 彼にとってそれが不満だったのだろう。
 それが私と彼の歪みになる。そこにつけ込んだのは葵さんであり、茅さんだった。だから私と彼は長く続かないと言っていたのだ。それは本当になるのだろうか。このまま別れてしまうのだろうか。
 彼を見上げると、口を押さえて言ったことを後悔しているようだった。
「桜……つい……悪かった。」
 何で謝るんだろう。謝らなければいけないのは私の方かもしれないのに。
 私は彼の手を握る。その行動に彼は驚いたように私を見た。
「桜。」
 別れが嬉しいんじゃない。私のその笑みは、また別の理由があった。
「本音を言ってくれたのが嬉しいから。」
「え?」
「私も大人だから、仕方がないと思って我慢してたことも沢山あるの。聞いてくれる?」
「桜。」
「百合さんのことは仕方ないわ。忘れようと思っても忘れられない相手、きっと私にもこれから出てくるでしょう。恋愛感情抜きでもね。ううん。だったら今までの出会いも、すべて自分の糧にするわ。あなたもそうするんでしょ?」
「そうしてきた。」
「だったらそれでいいんじゃないの。」
 私は彼に体を寄せる。濡れているシャツが気持ち悪い。だけど、そんなことはどうでも良かった。
「別れると思ってた。」
「別れる?別れる理由なんてどこにもないじゃない。」
 すると彼は私の体を抱きしめ、通りの方へ背中を向けた。
「……桜。人前でキスするのは、なかなか恥ずかしいものがあった。」
「もうしないで。恥ずかしいから。」
「あぁ。」
「でも手くらいは繋ぎましょう。歳は離れてても、恋人同士なんだって。」
「未成年との淫行にならないかな。」
「同意があれば淫行にはならないわ。堂々と言うもの。私の恋人ですって。」
 彼は少し笑い、私を離した。
「戻るか。」
「えぇ。仕事中だったし。」
「桜。いつか聞かせてくれないか。」
「何を?」
「俺の不満。直せれば直すから。」
「……そうね。とりあえず、もう今日は帰りましょう。こんな状態じゃ仕事できないし。送ってくれる?」
「もちろんだ。」
 大通りにでて、私たちは自然と手を繋いだ。雨はひどくなり、風が出てきた。もう台風が間近なのだろう。
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