142 / 355
二年目
141
しおりを挟む
時計を見てもう「窓」へ行く時間だと、私はソファから立ち上がった。
「バイトか。」
「えぇ。ちょうど時間ですので。そのまま行きます。」
玄関へ向かうと、茅さんもその後ろを着いてきた。
「では失礼します。」
すると彼はキスをするのではないかというくらい顔を近づけてきた。思わずそれを払いのけようと、のけぞる。しかし彼は私の頭をつかみ、その頬にキスをしたあと耳元でささやいた。
「信用で出来てる愛はもろいな。長く続かない。そのときは俺がもらってやるよ。」
それだけをいうと手を離した。突き飛ばそうとした手が宙を泳ぐ。
「そんな日は来ませんから。」
私はそれだけを言って部屋を出た。
その台詞は誰からも言われたことだ。葵さんにも、竹彦にも、そして蓬さんにも。
別れを想定して恋人になることなどあるのだろうか。少なくとも私は、そんなことを想定しない。別れは来ないと思う。別れるかもしれないと思ったことはあるけれど、やはり信頼して彼についてきたのだ。それはこれまでも、そしてこれからも続くのだと思う。
家に戻ることもなく、私はそのまま窓へ向かった。ポケットには携帯、財布、鍵、すべてが揃っている。問題はない。
「窓」へ行くと、カウンター席に女性のお客さんと男性のお客さん。常連の人だ。
「お疲れさまです。」
「あら。桜ちゃん。この暑いのに黒いシャツね。」
「ラフな格好だな。」
「いつも通りですけど。」
「そう?でもあまりサイズあってないの?そのシャツ。男の子みたいなシャツね。」
「彼氏の家から直接来たんだよ。」
「まぁ。やるわねぇ。高校生。」
誤解を生んだようだ。たぶん私は微妙な顔をしていたに違いない。
「違いますよ。ちょっとあわててきたんで、そんなシャツしか着てこれなかったのかな。」
「慌てなくても大丈夫ですよ。」
葵さんは涼しそうな顔をして、私をカウンターの奥に呼んだ。バックヤードでシャツを脱ぐと、他の家の洗剤の匂いがした。それはきっと茅さんの家の洗剤の匂いだろう。
その日の夜。閉店間際に蓮さんがやってきた。
「いらっしゃいませ。」
葵さんはまだ蓮さんと確執があるのか、笑顔ではあったけれどひきつっていた。
「ブレンド、ください。」
「はい。じゃあ、桜さん淹れてあげてください。私はちょっと電話をするところがあるので。」
そういって葵さんは携帯電話を手に、バックヤードへ行ってしまった。私は水とおしぼりを、蓮さんの前に置く。
「茅さんから連絡がありました。」
「そうですか。」
「あなたが連絡を取ってくれたんですね。」
「……えぇ。」
隠す必要もない。隠して変な歪みも作りたくなかった。
「支社長は風邪だと信じていました。一人暮らしだと連絡も取れないのは不便だと言ってましたからね。」
「蓮さんはだいたいわかっているのですね。」
「えぇ。私が茅さんを推薦しましたし、彼の人間性はだいたいわかります。」
「……そうですか。では椿だったことも?」
「それも知っています。何かしらの確執があったことも。」
豆を挽く音がガリガリと響く。お湯が沸いて、ポットに移し替えた。
「蓮さん。茅さんを責めないでください。」
「……判断は私にはありませんよ。会社としては支社長。そしてそれを統括するエリアマネージャーにあります。あなたの頼みだとしてもしても、私に何の権限もありません。」
コーヒーを淹れ終わり、カップを用意してそれを注ぐ。そして彼の前に出した。
「どうぞ。」
「はい。いただきます。」
「……今夜戻るのですか。」
「えぇ。今は身軽な一人ですし。」
「一人?」
この人結婚していたよね?去年まで。
「離婚が成立しました。春に。」
「そうでしたか。」
「私には結婚は向いてません。家庭を顧みませんからね。それだけはわかりました。」
コーヒーを一口飲み、彼はため息をついた。
「蓮さん。一度きりで判断するのはいかがなものでしょうね。」
「……一度でわかりますよ。実際、彼女が連れてきた子供の名前も私はすっと出てきませんでしたしね。」
「自分の子供なら出てくるんじゃないですか。」
「そうでしょうかね。たぶん結婚して子供が出来ても、私は出産にも立ち会わず会社にいることを選択しますよ。それが私の幸せですから。」
会社すら自分で作っているわけじゃないのに、会社を子供だとでも思っているのかな。この人。
「蓮さん。」
「あぁ。そんな話をしにきたのではないのですよ。あなたに用事があったのです。」
「私に?」
「えぇ。」
すると葵さんが携帯電話を手に、バックヤードから戻ってきた。そして彼をみる。
「蓮。桜さんを口説くのはやめてくれよ。」
「口説く?そんなことはしませんよ。兄が狙っている女性を私が口説いてどうしますか。」
「どうだか。」
不機嫌そうな言い回しだ。そのとき奥にいたカップルが、レジに近づいた。葵さんは笑顔でレジに向かう。
「高校三年生でしたよね。」
「えぇ。」
「就職をすると聞きました。」
「はい。」
「うちへ来ませんか。」
は?
思わず片づけようとしたペーパーフィルターを落としかけた。
「あぶな。」
「大丈夫ですか。」
「……大丈夫です。あの……私がそちらの会社に?」
「えぇ。一応あなたの高校にも求人は出していますが、それとは別の枠になりますね。」
「スカウトって事ですか。」
「はい。そうです。詳しい話は、本社に来て頂いてからにらなりますが。」
「私そんな大それた……。」
「大それているかどうかは、実際働いたものが判断することです。去年の働きっぷりをみて支社長とエリアマネージャーが判断しました。」
「……。」
「あぁ。もちろん拒否することは出来ますよ。あなたにも考えることがあるでしょうしね。」
あまりにも突拍子のない話に、私は戸惑うことしかできなかった。
「バイトか。」
「えぇ。ちょうど時間ですので。そのまま行きます。」
玄関へ向かうと、茅さんもその後ろを着いてきた。
「では失礼します。」
すると彼はキスをするのではないかというくらい顔を近づけてきた。思わずそれを払いのけようと、のけぞる。しかし彼は私の頭をつかみ、その頬にキスをしたあと耳元でささやいた。
「信用で出来てる愛はもろいな。長く続かない。そのときは俺がもらってやるよ。」
それだけをいうと手を離した。突き飛ばそうとした手が宙を泳ぐ。
「そんな日は来ませんから。」
私はそれだけを言って部屋を出た。
その台詞は誰からも言われたことだ。葵さんにも、竹彦にも、そして蓬さんにも。
別れを想定して恋人になることなどあるのだろうか。少なくとも私は、そんなことを想定しない。別れは来ないと思う。別れるかもしれないと思ったことはあるけれど、やはり信頼して彼についてきたのだ。それはこれまでも、そしてこれからも続くのだと思う。
家に戻ることもなく、私はそのまま窓へ向かった。ポケットには携帯、財布、鍵、すべてが揃っている。問題はない。
「窓」へ行くと、カウンター席に女性のお客さんと男性のお客さん。常連の人だ。
「お疲れさまです。」
「あら。桜ちゃん。この暑いのに黒いシャツね。」
「ラフな格好だな。」
「いつも通りですけど。」
「そう?でもあまりサイズあってないの?そのシャツ。男の子みたいなシャツね。」
「彼氏の家から直接来たんだよ。」
「まぁ。やるわねぇ。高校生。」
誤解を生んだようだ。たぶん私は微妙な顔をしていたに違いない。
「違いますよ。ちょっとあわててきたんで、そんなシャツしか着てこれなかったのかな。」
「慌てなくても大丈夫ですよ。」
葵さんは涼しそうな顔をして、私をカウンターの奥に呼んだ。バックヤードでシャツを脱ぐと、他の家の洗剤の匂いがした。それはきっと茅さんの家の洗剤の匂いだろう。
その日の夜。閉店間際に蓮さんがやってきた。
「いらっしゃいませ。」
葵さんはまだ蓮さんと確執があるのか、笑顔ではあったけれどひきつっていた。
「ブレンド、ください。」
「はい。じゃあ、桜さん淹れてあげてください。私はちょっと電話をするところがあるので。」
そういって葵さんは携帯電話を手に、バックヤードへ行ってしまった。私は水とおしぼりを、蓮さんの前に置く。
「茅さんから連絡がありました。」
「そうですか。」
「あなたが連絡を取ってくれたんですね。」
「……えぇ。」
隠す必要もない。隠して変な歪みも作りたくなかった。
「支社長は風邪だと信じていました。一人暮らしだと連絡も取れないのは不便だと言ってましたからね。」
「蓮さんはだいたいわかっているのですね。」
「えぇ。私が茅さんを推薦しましたし、彼の人間性はだいたいわかります。」
「……そうですか。では椿だったことも?」
「それも知っています。何かしらの確執があったことも。」
豆を挽く音がガリガリと響く。お湯が沸いて、ポットに移し替えた。
「蓮さん。茅さんを責めないでください。」
「……判断は私にはありませんよ。会社としては支社長。そしてそれを統括するエリアマネージャーにあります。あなたの頼みだとしてもしても、私に何の権限もありません。」
コーヒーを淹れ終わり、カップを用意してそれを注ぐ。そして彼の前に出した。
「どうぞ。」
「はい。いただきます。」
「……今夜戻るのですか。」
「えぇ。今は身軽な一人ですし。」
「一人?」
この人結婚していたよね?去年まで。
「離婚が成立しました。春に。」
「そうでしたか。」
「私には結婚は向いてません。家庭を顧みませんからね。それだけはわかりました。」
コーヒーを一口飲み、彼はため息をついた。
「蓮さん。一度きりで判断するのはいかがなものでしょうね。」
「……一度でわかりますよ。実際、彼女が連れてきた子供の名前も私はすっと出てきませんでしたしね。」
「自分の子供なら出てくるんじゃないですか。」
「そうでしょうかね。たぶん結婚して子供が出来ても、私は出産にも立ち会わず会社にいることを選択しますよ。それが私の幸せですから。」
会社すら自分で作っているわけじゃないのに、会社を子供だとでも思っているのかな。この人。
「蓮さん。」
「あぁ。そんな話をしにきたのではないのですよ。あなたに用事があったのです。」
「私に?」
「えぇ。」
すると葵さんが携帯電話を手に、バックヤードから戻ってきた。そして彼をみる。
「蓮。桜さんを口説くのはやめてくれよ。」
「口説く?そんなことはしませんよ。兄が狙っている女性を私が口説いてどうしますか。」
「どうだか。」
不機嫌そうな言い回しだ。そのとき奥にいたカップルが、レジに近づいた。葵さんは笑顔でレジに向かう。
「高校三年生でしたよね。」
「えぇ。」
「就職をすると聞きました。」
「はい。」
「うちへ来ませんか。」
は?
思わず片づけようとしたペーパーフィルターを落としかけた。
「あぶな。」
「大丈夫ですか。」
「……大丈夫です。あの……私がそちらの会社に?」
「えぇ。一応あなたの高校にも求人は出していますが、それとは別の枠になりますね。」
「スカウトって事ですか。」
「はい。そうです。詳しい話は、本社に来て頂いてからにらなりますが。」
「私そんな大それた……。」
「大それているかどうかは、実際働いたものが判断することです。去年の働きっぷりをみて支社長とエリアマネージャーが判断しました。」
「……。」
「あぁ。もちろん拒否することは出来ますよ。あなたにも考えることがあるでしょうしね。」
あまりにも突拍子のない話に、私は戸惑うことしかできなかった。
0
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる