夜の声

神崎

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二年目

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 あらかた事務所の片づけが終わり、私は帰ろうとバックを持った。もう仕事はないだろう。
「じゃあ、もうバイト行きますから。」
「あ、桜。」
 デスクに資料を置いた茅さんは私に近づいてきた。何だろう。
「お前さ、卒業したらここ入んない?」
「え?」
「親は母親一人って言ってたっけ。俺らとあまりと歳がかわらない母ちゃんだろ?お前いなきゃ、再婚だって出来るだろうしさ。」
「それは考えてました。だから就職で話を進めています。だけど……。」
 ヒジカタコーヒーに的を絞っていることはまだ言わない方が良いと思う。何かえこひいきされてる気分だもん。
「彼氏?」
「え?」
「この辺の奴なんだろ?離れたくねぇとか思ってる?」
「……それも一つです。」
「本社は大学とか出た奴じゃねぇと雇わねぇから。心配するな。雇うのはあくまで支社。最初は希望聞いて、ここがよければここに配属。それから使えるようになって、ほかの支所に行く可能性はある。けど拒否も出来る。」
「拒否なんかしたら、立場が悪くなったりはしないんですか。」
「考えすぎ。でっけえ会社だからな。そいつに拒否されたからって、立場が悪くなることもねぇよ。実際、あの事務のおばさんはずっとここ勤務だ。まぁ、あのおばさんの場合、家族があったからかもしれないけど。」
「家族……。」
 また結婚っていうワードが頭をかすめる。柊さんと結婚する?そして子供を産む?
 今は考えられない。結婚も子供も未知の世界だ。
「彼氏は何をしているんだ。だいぶ年上なんだろ?」
「……普通の仕事ですよ。」
「普通ね。何が普通なんだか。」
 確かに自分でいって、何が普通なんだろうって思ってしまった。
「じゃあ、本当にバイトに間に合わないかもしれないんで、本当に帰ります。」
 出口へ行こうとすると、グンとバッグを引っ張られた。
「何ですか。」
 振り返ると、茅さんは私に思ったよりも近くに来ていた。その距離に驚いて、私はその手を振り払い出口のあるドアへ逃げようとそちらへ向かう。しかし彼はそのドアに私を突き飛ばした。

 ドン!

 ドアで額を打ってしまった。痛い。
「いたっ。」
「悪い。何かちょっと力入っちまった。」
 振り返ると、彼は私のすぐそばにいた。手を伸ばせばすぐに届くところに。
 手が額に伸びてくる。
「赤くなってる。」
「何するんですか。」
「何って?お礼?」
 額に置かれた手が頬に下りてくる。そしてその手は顎まで下りてきて、私の顔を固定された。
「止めてください。」
 手を伸ばして、彼を拒否した。しかしその手も握られ、彼はどんどんと近づいてくる。
「んっ!」
 温かい吐息が唇にかかり、柔らかな唇が私の唇を塞いだ。軽く触れても目は瞑れない。それが彼にもわかったらしく、今度は唇を少し開けて塞いだ。
 ぬるっとした舌が、口内に差し込まれた。柊さんとは違う煙草の臭いと、コーヒーの匂いがする。そしてその舌は、私の舌を味わうように器用に動く。まるで口内を愛撫するようだった。
「ん……。ん……。」
 抵抗するように私は彼を押し退けようとした。しかし彼はがっちりと顎に固定している手を離そうとしない。一瞬離れても、また重ねてくる。
 やっと唇を離されて、彼は私を自分の方へ引き寄せようとした。しかし私はそれを拒否するように、彼の頬に平手打ちをした。

 ぱん!

 人を殴るなんてあまり経験はないけれど、必死だった。しかし殴られた彼は、こっちを見て薄く笑う。
「ふん。やっぱり大人ぶってても子供だ。」
「何ですって?」
「たかがキスだ。」
「私はあなたとしたいわけじゃないんです。私がキスしたいのは一人だけ。」
「彼氏だけってわけだ。でも彼氏よりもうまかっただろ?」
「うまいとか、下手とか、そんなのわかりません。でも私は……。」
 これ以上は言えなかった。私はそのまま落ちているバッグを拾い上げて、逃げるように会社を出て行った。

 大人の人にとってキスはきっと挨拶みたいなものなのかもしれないし、キス一つでごたごたいわないのが大人なのかもしれない。だけど、私は柊さんとしかしたくない。
 駅の階段を上がりながら、ぼんやりとそう考えていた。
 確かに最近、柊さんと連絡を取ることはあってもキスをしたり、抱きしめ合うことが前よりも少なくなった。だけど男だったら誰でもいいわけじゃない。私は誰よりも柊さんがいいのだから。
 だけどあのキスは、どことなく柊さんに似ていた。力強くて、強引なキス。違う煙草の匂いとコーヒーの匂い。私はそれに多分抵抗が出来なかった。抵抗しようと思えば抵抗できたはずなのに、それが出来なかったのは、どこかで茅さんと柊さんを重ね合わせていた。
 姿も背丈も体格も、それから声も、何も似ていない。だけどどこか似ていると思った。
 私とすれ違ったカップル。幸せそうに行ってしまった。
 私と柊さんはそんなに公に歩ける訳じゃない。公に歩いていてもきっと良くて兄妹。悪くて親子。そんな風にしか見てもらえないはずだ。
 少しでも歳が近い茅さんならそんな風には見られないのかもしれない。だけど私は柊さんがいい。いくら離れていても、あの温かい手を忘れられない。大好きだから。
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