夜の声

神崎

文字の大きさ
上 下
105 / 355
一年目

105

しおりを挟む
 自分がどんな精神状態だろうと、お客様には関係のないことだ。葵さんは常日頃からそれを言っている。だから私もまた仮面をかぶり、笑顔で接客をする。
 今日はチョコレートケーキがよくでる。カップルで来る人たちも多い。中には男同士や女同士もいる。
「今晩は。」
 その中には棗さんの姿もあった。相変わらず男の人にしか見えない彼女の隣には、可愛らしい女子がいた。おそらく学生。ロングヘアの髪の一本一本がとても綺麗に手入れされた、お嬢様のような容姿の人。きっとこの子が棗さんの恋人なのだろう。
 余所から見るとただの歳の離れたカップルに見える。帰るときに棗さんは私に耳打ちをした。
「今日は柊さんイベントらしいね。」
「そうなんですよ。」
「残念だな。会えないなんて。」
「……いつものことですよ。クリスマスなんて、いつもの日と変わりませんから。」
「あんたらしいよ。」
 少し笑い、彼女らは出て行く。強がっている。そう自分でもそう思うけど、どうしようもないのだ。私にできるのは笑顔の仮面を被るだけ。

 二十一時。仕事が終わる時間だ。今日はそこそこの人はやってきたけれど、そんなに忙しいわけじゃない。葵さんもそれがわかっていて、早くあがらせようと思っていたらしい。
「そろそろ閉めますよ。」
 葵さんは看板をcloseにして、またカウンターに戻ってきた。
 私は一度バックヤードに戻ると、鞄の中から置き時計の入っている包みを取り出した。そしてカウンターに戻ってくると、葵さんにそれを差し出した。
「葵さん。今日はクリスマスイブなので、これを。」
「どうしたんですか。急に。」
「お世話になっているので、気持ちです。」
「あなたの気持ちの方が嬉しいですけどね。」
 彼はそれを受け取り、包みを開けた。
「小さいけれど、置き時計ですか。」
「えぇ。ここからでは時計が見えない角度もあるので。」
「ありがとうございます。では早速置かせてもらいますね。」
 彼は立ち上がると、カウンターにその時計を置いた。その場所は、いつも柊さんが座っているところで、驚いてしまった。
「いいですね。よく合っている。」
「葵さん。あの……できれば別のところが。」
「どうしてですか。」
「特に理由はないんですけど……。」
「ここからの角度が見にくいんですよ。助かります。」
「……。」
 人にあげたものだ。自分がどうの言える事じゃないのはわかっている。だけど気になるのだ。
「桜さん。お礼を差し上げましょう。」
「あ、結構です。そんなつもりではなかったので。」
「いいえ。あなたも喜ぶと思いますよ。さ、カウンター席に座ってください。」
 そういって彼は私をカウンターの席に座らせる。その席はいつも柊さんが座っているところだった。それがさらに心を曇らせる。
 だけど匂いが私を上向きにさせた。
「希少品のコーヒー豆なんです。今日が飲み頃にしておきました。」
 ガリガリとミルでつぶすだけでもいい香りがする。そしていつものように彼はお湯を注いで、コーヒーを入れる。もうこの匂いだけでとても美味しいのだろうなと思えてくる。
「いい香り。」
 すると彼はちらりと私をみた。そしてコーヒーにお湯を注いだ。
「いい顔ですね。やっと見せてくれましたね。自然の笑顔を。」
「……。」
「今日は一日中こわばってました。ううん。正確には、ここ最近ですか。」
 彼は入れ終わったコーヒーをカップに移し替える。そしてそれを二つ持ち、カウンターに出てきた。そして私の隣に座る。
「どうぞ。」
 香りの高いコーヒーは、目の前にあり口に含むことすらもったいない気がする。
 それでも私はそのカップを持ち、それを口に含んだ。すると口の中に、苦みと、少し甘みと、そして香りがふわっと広がった。
「おいしい。」
「桜さん?」
 葵さんが頬に手を伸ばしてくる。何?
「どうして泣いてるんですか。」
「泣いてる?」
 そうか。私、泣きたかったんだ。柊さんに隠していることがあるとか、そういう事じゃない。柊さんがいないことに寂しさを感じて、泣きたかったのに我慢してたんだ。笑顔を忘れてはいけない。周りの人に迷惑をかけてはいけない。心配させてはいけない。
 母さんからいわれていたことを、ずっと今でも守っていたんだ。私の本音を誰にも言えないまま。
「桜さん。辛いことがありましたね。でも柊はきっと、何も守ってくれなかったんでしょう。」
「……違うんです。私がそれを拒否してしまったから。それに隠している私も悪くって……。」
「隠し事をしないで関係が続くことがありましょうか。すべてをオープンにしているカップルなんていませんよ。」
 彼はその頬に持ってきた手を、頭に持ってきた。
「柊の代わりでかまいませんよ。こうして撫でてあげることで、あなたが少しでも安らぐのであれば、ずっとこうしていましょうね。」
「……葵さん。」
「彼は苦労します。私が必要になるときが来る。それは以前にも言いましたね。」
「はい。」
「今、必要なのではないのですか。」
 返事は返せなかった。
 彼は頭に置かれた手を、後ろ頭に持ってきた。そしていすから立ち上がり、今度は逆の手で私の唇に触れてきた。
 その瞬間びくっと体が勝手に反応した。あの強姦未遂の時の夜を思い出すから。でも私は彼を見上げる。違う。あのときの男じゃない。でも柊さんでもない。でもその手は優しくて、そして冷たい。冷えた手だった。
 彼は唇に置かれた手を顎に持ってくる。そしてゆっくりと私の唇に触れてきた。
 なじみのない唇。だけど、私は初めてその細い首に手を回した。彼は少し驚いたように唇を離す。だけど再び唇を合わせてきた。今度は深く、そして水の音が響く。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

教え子に手を出した塾講師の話

神谷 愛
恋愛
バイトしている塾に通い始めた女生徒の担任になった私は授業をし、その中で一線を越えてしまう話

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

処理中です...