夜の声

神崎

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一年目

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 自分がどんな精神状態だろうと、お客様には関係のないことだ。葵さんは常日頃からそれを言っている。だから私もまた仮面をかぶり、笑顔で接客をする。
 今日はチョコレートケーキがよくでる。カップルで来る人たちも多い。中には男同士や女同士もいる。
「今晩は。」
 その中には棗さんの姿もあった。相変わらず男の人にしか見えない彼女の隣には、可愛らしい女子がいた。おそらく学生。ロングヘアの髪の一本一本がとても綺麗に手入れされた、お嬢様のような容姿の人。きっとこの子が棗さんの恋人なのだろう。
 余所から見るとただの歳の離れたカップルに見える。帰るときに棗さんは私に耳打ちをした。
「今日は柊さんイベントらしいね。」
「そうなんですよ。」
「残念だな。会えないなんて。」
「……いつものことですよ。クリスマスなんて、いつもの日と変わりませんから。」
「あんたらしいよ。」
 少し笑い、彼女らは出て行く。強がっている。そう自分でもそう思うけど、どうしようもないのだ。私にできるのは笑顔の仮面を被るだけ。

 二十一時。仕事が終わる時間だ。今日はそこそこの人はやってきたけれど、そんなに忙しいわけじゃない。葵さんもそれがわかっていて、早くあがらせようと思っていたらしい。
「そろそろ閉めますよ。」
 葵さんは看板をcloseにして、またカウンターに戻ってきた。
 私は一度バックヤードに戻ると、鞄の中から置き時計の入っている包みを取り出した。そしてカウンターに戻ってくると、葵さんにそれを差し出した。
「葵さん。今日はクリスマスイブなので、これを。」
「どうしたんですか。急に。」
「お世話になっているので、気持ちです。」
「あなたの気持ちの方が嬉しいですけどね。」
 彼はそれを受け取り、包みを開けた。
「小さいけれど、置き時計ですか。」
「えぇ。ここからでは時計が見えない角度もあるので。」
「ありがとうございます。では早速置かせてもらいますね。」
 彼は立ち上がると、カウンターにその時計を置いた。その場所は、いつも柊さんが座っているところで、驚いてしまった。
「いいですね。よく合っている。」
「葵さん。あの……できれば別のところが。」
「どうしてですか。」
「特に理由はないんですけど……。」
「ここからの角度が見にくいんですよ。助かります。」
「……。」
 人にあげたものだ。自分がどうの言える事じゃないのはわかっている。だけど気になるのだ。
「桜さん。お礼を差し上げましょう。」
「あ、結構です。そんなつもりではなかったので。」
「いいえ。あなたも喜ぶと思いますよ。さ、カウンター席に座ってください。」
 そういって彼は私をカウンターの席に座らせる。その席はいつも柊さんが座っているところだった。それがさらに心を曇らせる。
 だけど匂いが私を上向きにさせた。
「希少品のコーヒー豆なんです。今日が飲み頃にしておきました。」
 ガリガリとミルでつぶすだけでもいい香りがする。そしていつものように彼はお湯を注いで、コーヒーを入れる。もうこの匂いだけでとても美味しいのだろうなと思えてくる。
「いい香り。」
 すると彼はちらりと私をみた。そしてコーヒーにお湯を注いだ。
「いい顔ですね。やっと見せてくれましたね。自然の笑顔を。」
「……。」
「今日は一日中こわばってました。ううん。正確には、ここ最近ですか。」
 彼は入れ終わったコーヒーをカップに移し替える。そしてそれを二つ持ち、カウンターに出てきた。そして私の隣に座る。
「どうぞ。」
 香りの高いコーヒーは、目の前にあり口に含むことすらもったいない気がする。
 それでも私はそのカップを持ち、それを口に含んだ。すると口の中に、苦みと、少し甘みと、そして香りがふわっと広がった。
「おいしい。」
「桜さん?」
 葵さんが頬に手を伸ばしてくる。何?
「どうして泣いてるんですか。」
「泣いてる?」
 そうか。私、泣きたかったんだ。柊さんに隠していることがあるとか、そういう事じゃない。柊さんがいないことに寂しさを感じて、泣きたかったのに我慢してたんだ。笑顔を忘れてはいけない。周りの人に迷惑をかけてはいけない。心配させてはいけない。
 母さんからいわれていたことを、ずっと今でも守っていたんだ。私の本音を誰にも言えないまま。
「桜さん。辛いことがありましたね。でも柊はきっと、何も守ってくれなかったんでしょう。」
「……違うんです。私がそれを拒否してしまったから。それに隠している私も悪くって……。」
「隠し事をしないで関係が続くことがありましょうか。すべてをオープンにしているカップルなんていませんよ。」
 彼はその頬に持ってきた手を、頭に持ってきた。
「柊の代わりでかまいませんよ。こうして撫でてあげることで、あなたが少しでも安らぐのであれば、ずっとこうしていましょうね。」
「……葵さん。」
「彼は苦労します。私が必要になるときが来る。それは以前にも言いましたね。」
「はい。」
「今、必要なのではないのですか。」
 返事は返せなかった。
 彼は頭に置かれた手を、後ろ頭に持ってきた。そしていすから立ち上がり、今度は逆の手で私の唇に触れてきた。
 その瞬間びくっと体が勝手に反応した。あの強姦未遂の時の夜を思い出すから。でも私は彼を見上げる。違う。あのときの男じゃない。でも柊さんでもない。でもその手は優しくて、そして冷たい。冷えた手だった。
 彼は唇に置かれた手を顎に持ってくる。そしてゆっくりと私の唇に触れてきた。
 なじみのない唇。だけど、私は初めてその細い首に手を回した。彼は少し驚いたように唇を離す。だけど再び唇を合わせてきた。今度は深く、そして水の音が響く。
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