夜の声

神崎

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一年目

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 棗さんは何となく一方的に柊さんに「尊敬してます!」みたいな感じに見えた。でも何となくおもしろくない。彼らが帰った跡のカップを片づけながら、私はそんなことを思っていた。
「桜さん。あまり気にしないことです。」
 その気持ちを知ってか葵さんはそんな言葉を投げかけてくる。
「あまり女性の香りのする人に見えませんでした。あなたもそう言うタイプには見えますが、あなたの方が女性としての魅力がありますから。」
「そうですか?」
「空気が読めるというのは、大事なことです。まぁ、あなたもたまに読み間違えますが、まだ若いですしね。」
「……若いからって言うのはいい言葉ですよね。いいわけもできる。だけどそうは言ってられないから。」
 大人にならないといけない。柊さんに見劣りしないように。
「それよりも、カフェをするんですか。」
「文化祭ですか?えぇ。」
「あぁいう所で一杯一杯丁寧に煎れるわけではないんですよね。どうするんですか。」
「コーヒーはコーヒーメーカーを使うつもりです。」
「それがいいでしょうね。」
「なので豆だけはと思って明日ヒジカタコーヒーに行ってみようと思います。」
 その答えに、一瞬葵さんの顔がひきつった。多分支社長が手首を切ったあの日のことを思い出したのかもしれない。
「桜さん。紅葉はもう退院したそうですね。」
「えぇ。もう働いているそうですよ。」
「実は入院を私も進めたことがあるんですよ。今は少し落ち着いていましたけどね。昔はもっとヒドかったですから。」
「……。」
「いつも死ぬことばかり言ってましたよ。綺麗に死にたい。死ぬにはどうすればいいのかって。」
「綺麗な死体なんかあり得ませんよ。」
「えぇ。そうですね。だからいつも夢みたいなことばかり言うといって、それがもっと彼女を追いつめてました。」
「葵さん。そんなに自分を責めなくても……。」
「別に責めてませんけどね。ただ、あの男がもっとちゃんとやってくれれば良かったのかもしれませんが。」
 あの男というのはおそらくあのホテル街で、入っていった明さんのことを言っているのだろうか。
「すいません。ちょっと愚痴ってしまいました。」
「いいえ。大丈夫です。私は聞くことしかできませんから。」
 沢山の大人にアドバイスをもらっている。柊さんも、葵さんも、そして椿さんも。私に出来るのはそんな彼らの言葉を聞くだけだった。それだけで何か役に立てていると思うから。
 カップを拭きながら、私はふとカウンター席を見た。どんな形であっても、今日は柊さんが女性を連れてきたんだ。恋人だと宣言したけれど、どうしても不安は払拭できない。
「気にすることはありませんよ。」
「え?」
 まるで心を読まれたようだった。思わず葵さんの方を向いた。
「きっと柊はずっと今のあなたの気持ちを持ち続けていました。私とずっと一緒にいるのですから。」
「……何を?」
「今日、柊が棗さんという人と一緒に来ていたのを気にしていたのでしょう?」
「……。」
 ごまかしは利かない。仕方ないな。
「えぇ。そうですね。」
「しかし、彼女の方が柊と一緒にいる時間は長い。心が揺れることもあるのかもしれないと思いましたけどね。」
「……。」
「多分それはない。あんなに堂々と棗さんに、恋人宣言しているのですから。」
 カップを棚に置いた私に、葵さんは少し笑った。
「にやけてますよ。」
「え?」
「妬けますね。」
 今度は葵さんが笑顔のまま不機嫌になる。これは放っておこう。
「で、いつにしますか。」
「何がですか。」
「私はこの間あなたの言うとおりのことをしました。紅葉のいるところへ行ってくれというね。」
「……冗談ですよね。」
 支社長が手首を切ったとき、私は葵さんから選択肢を迫られた。そのまま支社長を見捨てて変えるか、支社長の所へ行きそのかわり葵さんとセックスをするということ。
「冗談ではありません。もちろん、あなたが柊に後ろめたいのはわかります。だから私はそのことを彼に話すつもりはありません。」
「……嫌です。」
「それは約束が違います。」
「私は柊さん以外に体を開きたくはありません。」
 好きだから。彼しか見えないから。
 すると葵さんは少しため息を付いた。そして時計をみる。二十時四十五分。まだ時間は少し残っているが、お客さんはもういない。
 カウンターの外に葵さんが出ると、彼はカーテンを閉め始めた。そして看板をひっくり返す。
 入り口に鍵を閉めると、またカウンターの中に入ってきた。このパターンは一度あった。私は少し怖くなり、カウンターの向こうのドアからスタッフルームに入った。鍵を閉めて彼が入らないようにするのだ。
「桜さん。」
「駄目です。あなたとは……。」
 外から葵さんの声がした。ドアをノックする音もする。するとドアをノックする音が激しくなってきた。そしてバン!という音がした。鍵を壊れ、葵さんがその中に入ってきた。
「いや。」
「こんなもろい鍵が壊せないとでも思ってましたか。」
 微笑んだその目が怖い。まるで獲物を狙う狼のようだ。私は思いっきり後退しロッカーに背を向ける。もうこれ以上は下がれない。
「柊には言いません。何なら夢とでも思って下さい。」
「……駄目。」
 首を横に振り、私は彼を見上げる。柊さんとは違う声。何もかもが違う人。
 私に彼は近づいてくる。もう駄目だ。目を閉じる。せめて暗闇の中で柊さんを感じたい。そう思っていた。
 するとひんやりとした指の感覚が顎に触れる。ぐっと上を向かされ、唇に何か堅いモノが触れた。それは甘いものだった。
「え?」
 目を開けると、葵さんが笑顔のままこちらを見ていた。
「飴。美味しいんですよ。これ。ミントの味でね。」
 唇から押し込まれたのは飴だった。私はその甘い飴を口の中に入れる。
「あの……葵さん。」
「冗談ですよ。まぁ、冗談が過ぎて鍵を壊してしまいましたが。」
 彼はそう言って私から離れた。
「片づけを手伝ってもらえますか。それでチャラにしましょう。」
「……わかりました。」
「残業代はつきませんから。」
 それくらいだったら仕方ない。私はロッカーから体を離して、彼の背中に向かって言う。
「ありがとうございます。葵さん。」
 するとスタッフルームから出ていこうとする彼の足が止まる。そして私の方を振り返った。
「え?」
 彼はすぐに私の二の腕を挽いた。そして素早く顔を近づける。
「んっ……。」
 後ろ頭を支えられて、唇を重ねられた。唇はすぐに割られ、ミントの味がきっと彼にも伝わっている。
「んー。」
 やめて欲しい。だけど彼は止めなかった。舌が器用に口内を愛撫するように舐めていく。
「はぁ……。」
 息をつく暇すらないような激しいキスをされ、そしてまた彼は私の唇にキスをした。何度もそれは繰り返される。
 やっと体を離されたとき、彼はいつもの微笑みを浮かべた。
「さ、では手伝って下さい。」
 やっぱりチャラにするつもりなんかなかった。葵さんは満足そうだったから。
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