夜の声

神崎

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一年目

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 確かにホテル街を出た方が、アパートや「窓」のある通りに出るのは早い気がした。しかしその間、葵さんは何も話さず、何も言わず、ただ淡々と足を進めているような気がした。そして「窓」のあるわき道の前にたどり着くと、彼は足を止めた。
「あまり美味しくないコーヒーでしたね。」
 誤魔化すように彼は、カフェのコーヒーのことを言っているのだろうか。
「……大手のチェーン店のコーヒーだとそんなものですかね。」
「コーヒーマシンのコーヒーでしたね。アイスコーヒーは作り置きみたいでしたし。」
 一杯一杯、丁寧にコーヒーをいれて飲んでいる私たちには、物足りないコーヒーだったように思える。だけどそんな話題をしたいんじゃないと思う。
 だけど私に何が出来るってわけじゃない。ショックな出来事だったかもしれないけれど、慰めるのは私の役目では無い気がしたのだ。
 そのとき私のバックの中で携帯電話がなった。メッセージが来たようだ。携帯電話を開くと、メッセージの主は柊さんだった。
「……彼からですか。」
「えぇ。今日、食事を一緒にする予定だったのですが、用事が出来てしまったようですね。」
「それは残念でしたね。」
 それが口先だけの軽い言葉だろう。だけどそういうことしか言えないくらい上の空なのは、私でもわかる。

”出来ないことは無理をしない方がいいのです。自分の器を知りましょう。出来ないことを出来るようにすると、あとでぼろが出てかえって迷惑をかけてしまいます。”

 確かにそうかもしれない。私には葵さんから助けられることはあっても、助けることは何も出来ないのだ。
「荷物をもらえますか。」
「あぁ。はい。」
 そのビニールの袋を手にする。
「美味しそうなトマトでした。私も買えば良かったですよ。」
 なんで笑えるんだろう。こんな時にもいつものようにまぶしい笑顔だ。それがかえって私には、苦しく思える。
「ショックだったんじゃ……。」
 それを言い掛けて、私は口をつぐんだ。いけない。私には何もできないってさっきわかったばかりなのに。
「明日買いますよ。今トマトが一番美味しい季節ですから。」
 聞かなかったことにしてくれているの?どうしてそんなに優しく私に接するの?それが大人だっていうことなの?
「……ではまた明日。お疲れさまでした。」
 私は誤魔化すように、その場を離れた。でもこれでいいの?ずっとお世話になっていた葵さんが、きっとショックを受けているだろうに。
 私は振り返ると、彼はじっと私を見ていた。そして手を少し挙げて、「窓」へ行く道へ帰って行く。
 考えるよりも私は足を走らせていた。そして彼の背中に向けて言葉を投げる。
「葵さん。」
 私の声に驚いたように彼は振り返った。
「私はあなたの気持ちには答えられません。でも、話を聞くことは出来ますから。もちろん……それについて何も答えることは出来ないけれど、だけど……話すだけでも力になれるなら……。」
 それが汗なのか涙なのかわからない。だけど、彼はまた笑顔になる。
「えぇ。そうさせてもらいます。ありがとう。桜さん。」
 伝えられた。私はそれだけにほっとして、また背中を向ける。

 アパートに帰ると、もうすでに母の姿はなかった。「今日は同伴頼まれているの。」とか何とか言っていたから、早く出たんだろうな。
 エアコンのスイッチをいれて、野菜を冷蔵庫にいれた。そして母の用意してくれた食事をみる。今日は冷やした豚しゃぶにしていたらしい。柊さんも来ると聞いていたから一人分では多いな。
 まぁいいか。明日食べればいいわけだし。
 そのとき外で音がした。どうやら雨の音のようだ。
 雨?やばい!
 私は急いでベランダに出た。そして洗濯物をいれる。麻から干している洗濯物は乾いているのに、雨で濡らされてたまるか。
 洗濯物を入れ終えてベランダのドアを閉めようとしたとき、電話が鳴った。
「もしもし。」
 あー忙しいなぁ。
「桜さん?」
 それは葵さんだった。どうして携帯ではなくて家の電話に電話をしたのだろう。
「えぇ。どうしました。」
「あなたの鞄に、私の本があると思うのですが。」
 え?驚いて私は自分の鞄を見てみた。するとそこには大きめの紙袋に包まれた本があった。そうだった。葵さんの鞄には入らないかもしれないからって、私の鞄の中に本をいれたんだっけ。
「ありました。」
「すいません。明日持ってきてもらえますか。」
「明日で大丈夫ですか。」
「えぇ。本当は今日欲しいですが、今からお伺いしたら柊に本当にぶっ飛ばされそうなので。」
「でしたら、私がお伺いします。」
「え?」
「必要なんですよね。今日。」
「えぇ。」
「では今からお伺いします。」
 そういって私は電話を切った。そしてエアコンを止める。バックを持つと、外に出て行った。雨は通り雨のようで、さっきまで激しい雨だったのに、今はもうしとしととしか降っていなかった。こういう雨って、むわってするからイヤだなぁ。
 そして私はすぐに「窓」へやってきた。ドアを開けようとするけれど、開かなかった。あれ?今から行くって言ったのに。
「桜さん。」
 すると建物の横手から葵さんが出てきた。
「そっちから?」
「えぇ。コッチにも一応入り口はあるんです。」
 通されたところには確かに入り口があるが、狭くて人が一人通れるくらいの隙間しかない。傘は当然のようにさせないので、私はそれを閉じた。
 そして屋根がある入り口の前で、バックから本を取りだした。
「これですか。」
「えぇ。ありがとうございます。」
 彼はそういってその本と引き替えにと言わんばかりに、小さな包みを手渡してくれた。
「何ですか。」
「あまり甘いものは食べないのは知ってますが、お礼です。」
 透明な包みには小さなクッキーが二つ、三つ入っている。その包みは可愛らしくて、つい微笑んでしまう。
「ありがとうございます。」
 それを私はバックにいれた。そのときだった。急に彼の顔が目の前にやってきた。
「え?」
 拒否すら出来ない。彼は軽く、ほんの軽く、私の唇に唇を合わせた。
「……葵さん。」
「ごめんなさい。可愛くて、つい我慢できませんでした。」
「だめです。」
「知ってますよ。」
 隙があった私のせいだ。私はそのまま振り返り、何も言わずにその場を去っていった。
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