夜の声

神崎

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一年目

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 ヒジカタコーヒーの仕事を始めて一週間経った。最初はミスも多かったし、仕事終わる度に足がパンパンになっていたけれどだんだんと仕事も慣れてきた。
 それでもミスは少しはある。同じような名前のコーヒー豆が多いからだ。
「でも怪我の功名よねぇ。桜さんが間違えたコーヒー豆も美味しかったって、こっちも入れるっていう店もあるのよ。」
 そう支社長は言っていたが、相変わらず蓮さんは渋い顔をしている。
「たまたまです。いつ契約を切ると言われるかとこっちは冷や冷やしてますから。」
 うーん。相変わらず毒を吐くんだなぁ。でもこれはこれでうまくバランスがとれているのかもしれない。飴と鞭。って言う感じに見える。まぁ、支社長もあまりここにはいないことが多いので、飴はほとんどないけれど。
 十五時。仕事が終わり、他の人は十五時の休憩をとっていた。私は帰ろうと、バックを持った。
「お先に失礼します。」
 するとコーヒーを入れていた支社長が私に声をかけてきた。
「桜さん。どう?仕事は。」
 なんか違うことも話そうとしているのだろうか。私を会社の外までつれてきた。
「まだミスが多くてすいません。」
「大丈夫よ。ミスは皆でカバーできるから。うちはどうしても配送さんが強いし、蓮君もちょっと口が悪いけど、人は悪くないの。だから気にしないで頑張ってね。」
「はい。」
「ところで……あなた「窓」でバイトをしているんですって?」
「このあと行きます。」
「そうだったのね……。」
 少し彼女は表情を曇らせた。
「どうかしましたか。」
「いいえ。蓮君のお兄さんがしているのよね。」
「はい。」
「……まぁ、仕事だからつきあいはするけど、本当ならあまりつきあいはしたくない相手よね。」
「なんか……みなさんそうおっしゃいますね。」
「あたしもこの辺の出身だし、葵のことはよく聞いてたの。苦労はしているみたいだけど、怖い相手よね。」
「怖い?」
「えぇ。ヤクザもビビるって有名だったもの。」
「そんな人でしたか……。」
 想像ができない。いい人だと思っていた葵さんが……。でもその片鱗は少しわかる。
 春。彼は私に無理矢理口づけをした。逃げれないように捕まれたその手はとても力強く、抵抗の余地はない。
「どうしたの?顔色良くないわね。」
「ちょっと思い出したことがあって……。」
「まぁ、あくまで昔の話よ。今は違うんでしょ?ほら、タウン誌にも載ってたけど、爽やかな君で通っているみたいだし。」
「そうですね。」
 葵さんのことを知らない私くらいの若い人が、きっと葵さんに近寄ってくるのだ。
「それにあなた彼氏がいるんですって?」
「は?」
 誰に聞いたんだよ。そんなこと。
「惜しいわねぇ。明君があなたを狙ってたみたいなのに。」
「やめてくださいよ。そんなこと。」
「フフ。照れなくていいのよ。そんな感情なしでも、あなたのことは皆気に入っているわ。あの蓮君だってあなたを気に入っているの。」
「蓮さんが?」
「えぇ。珍しいわ。普段なら声もかけないのに。」
 そう言って支社長は私を送り出した。
 支社長がなぜこんな話をしたのか。だいたいわかる。たぶん、「窓」を辞めて欲しいのだろう。でもまだ高校行ってるし、時間の都合は「窓」の方がいい。辞めるならこっちだろう。
 でも辞めて欲しいと思うくらい、葵さんを皆警戒しているんだろうな。

 その日の夜。私は仕事をすべて終えて、アパートに帰っていった。玄関のドアを開けると、そこには男物の靴とハイヒールがあった。ハイヒールはきっと母のモノだろう。男物の靴は見覚えのある革靴だった。
「おかえりー。」
 そこにはビールを何本も空けている母と、向かいのソファには柊さんが座っていた。彼の手にもグラスが握られている。
「……何しているの?」
「今日は柊さんも用事がないからって、あんたをここで待つっていうからさ、どうせなら飲もうっていう話になったの。強くっていいわねぇ。柊さん。」
「あんまり酔ったことがなくて。」
「うらやましい人。」
 つき合わされてたんだな。母さんは酒が強いし、飲むと普段よりも明るくなるからなぁ。ふだんと変わらない感じになっている柊さんだったら、ついて行くのに大変かもしれない。
「さて、あたし飲み直そっかな。」
 そう言って彼女は携帯をとりだして誰かにメッセージを送り、ソファから立ち上がって自分の部屋に戻っていった。
「すいません。なんかつき合わせてしまって。」
「……俺も珍しく夜に時間が空いたから。」
 彼はそう言って目の前にあるグラスを空けるように、それを飲み干した。やっぱ大人の人なんだな。
「母は変なことをいいませんでした?」
「お前の話ばかりしてた。小さい頃に、金網フェンスを乗り越えた先に割れた瓶があってふくらはぎに大きな傷があるとか。」
「やだ。そんなことを?」
「ずいぶん元気だったんだな。」
 彼が十三の時、私が生まれた。そのころ彼は生きていくために精一杯だったはずだ。誰にも頼らずに、生きていこうとしていた柊さん。そしてそれに手をさしのべた女性がいた。
 私はその女性を知らない。今は遠く離れたところにいるという。そこがどこなのかも知らないし、知らなくてもいい。と彼はいう。でも不安になることもある。もし彼女に会っていたら。私をおいて彼女のところへ行くのだろうかと。
「どうした。ぼんやりしてて。」
「何でもないです。」
 自分の部屋にバックだけ置いて、私はまたリビングに戻ってきた。そしてキッチンに行くとお茶をグラスに注いだ。
「さーて。飲み直そう。柊君。ゆっくりしていっていいわよ。それから、あの話、ちゃんと桜にしておいてね。あたしはかまわないから。」
「はい。」
 あの話?何の話?
 母はそれだけ言うと露出の激しいワンピースを着て、部屋を出ていった。
「あの話?」
 彼は頬を赤らませた。この赤みは酔っているからじゃない。何かを言おうとしているのだ。
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