夜の声

神崎

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一年目

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 バイトの前に本屋に寄った。公務員試験の参考書を買うためだ。でもやはりちらりと見た限りでも、難しい内容でおそらく四年制大学とか行った人が、受けるような試験なんだろうな。と言うか、何だろうこの経済とか政治って項目は。

”やれないことは何もない。”

 椿さんならそういうかもしれないけど、なんか、こう……学校の体育の時間でしか運動していないのに、いきなりフルマラソンを走るような、そんな感覚かもしれない。
「どうしたらいいのかしら。」
 夏休みの間に、公務員の予備校か何かに行った方がいいのかもしれないな。でもなぁ。そんな暇があるのかと言われたら微妙だ。
 バイトもして、学校行って、家のこともして……。寝る暇あるかなぁ。
「桜さん。」
 声をかけられて、そちらを見た。そこには竹彦の姿があった。
「竹彦君。」
 彼はそのコーナーの本を見て、納得したように私を見た。
「自分でも勉強するんだ。」
「頼りにならないから、出来ることからやろうと思って。でも……。」
「どうしたの?」
「難しいわね。どこから手を着けていいかわからないし、夏の間だけでも夏期講習に行きたいわ。」
「それもいい手だと思うよ。」
 竹彦はそういって、本棚に手を伸ばした。だけど手が届かなくて、本に触れることすら出来ない。
「これか?」
 後ろから声がして、驚いた。そこには柊さんの姿があったからだ。
「柊さん。」
 仕事終わりらしく、いつもの灰色の作業着を着ていた。そしてその本を竹彦に渡す。
「ありがとうございます。」
「前にも会ったことがあるな。」
「あ、竹彦と言います。」
「……柊。」
 竹彦は見上げるような感覚だったかもしれない。それに自分よりずいぶん大人の男の人の感覚に、彼は戸惑っていた。見上げるように柊さんを見ていたから。
「桜と同級生と言ってたか。」
「えぇ。」
「そっか。」
 すると向こうから柊さんを呼ぶ声がした。女性の声だった。
「柊さん。私たち行きますけど。」
「あぁ。あとからすぐ行きます。」
「向かいの店ですので、よろしくお願いしますよ。」
 茶色の髪を長く伸ばした細い女性のわりに、でも灰色のスーツがきつそうな胸の持ち主だった。
 女性らしいって言うのはあぁいう人なのかもしれない。母親のような感じの人は、女性を全面に出しているからかえって手を出しにくいのかもしれないけれど、あんな風に適度な女性らしさは近寄りやすいのかもしれないな。
「向かいのカフェか。コーヒーが不味いが、仕方ない。」
「……あとで「窓」に来ますか?」
「いいや。今日は多分、飯に行かないといけない。面倒だ。」
「そうですか。」
「また行くから。」
 柊さんはそういって、手に持った本をレジに持って行って店を出ていった。
「……桜さん?」
「あぁ。ごめん。」
 いたんだ。とか、言えないけど、本当にそう思った。竹彦。ごめんなさい。
「竹彦君、その本買うの?」
「うん。あれ?違う本だ。」
 彼はそういってまた本を戻そうとしたが、やっぱり背が足りない。一生懸命背伸びしようとしているのが、何となく可愛い。向日葵なんかも「竹彦って可愛いよねぇ。」って言われているのを聞いて、今納得した。
「踏み台持ってくるね。」
「あ、ありがとう。」
 柊さんが気を利かせて取ってくれた本が違うって言うのも、面白い話だと思った。珍しく気を利かせてくれたのになぁ。
 本を買って店を出ると向かいのオープンテラスで、柊さんを見た。柊さんは煙草を吸いながら、二人の男女と何かを話していた。女性の方は前に何かのファイルを開いている。何かの打ち合わせだろうか。
「桜さん。時間大丈夫なの?」
「え?今何時?」
「五十分だけど。」
「やばっ。行かないと。」
 私は急いで「窓」に向かおうとした。そのとき、竹彦が声をかけてくる。
「僕、行ってみてもいい?」
「かまわないよ。じゃあ、一緒に行く?」
 そういって竹彦も私の後ろから走ってきた。まるで急いでいるカップルだ。そんな風に見えたのかもしれないけど、柊さんの表情は見えなかった。彼だって、今、目の前に女性がいるのだからお互い様よね。
 「窓」はクーラーがよく利いていて、涼しかった。走ってきて、頭から湯気がでてそうな状況だった私たちにはありがたい。
「桜さん。そんなに急がなくてもいいのに。」
 カウンターの向こうには葵さんがいる。彼は苦笑いをしながらこちらを見ていた。
「遅刻すると思ったので。」
「かまいませんよ。一、二分くらいは。あれ?後ろの方は?」
 後ろを振り向くと、涼しい顔をした竹彦がいた。
「同級生です。」
 息切れ一つしていない。案外体力あるんだな。
「そうでしたか。どうぞカウンター席に。」
 いつもの笑顔で、葵さんはカウンター席に案内する。彼が座ったのは、いつも柊さんが座る席だった。
 丸いすに腰掛けた竹彦と柊さんの体格の差が違いすぎて、少し笑えてくる。心の中でね。本当に笑ったら失礼だもの。
 カウンターの向こうに私が入ると、いつものようにバックヤードに入っていった。その間、竹彦と葵さんは何を話しているのかわからないけれど、私が再びカウンターに出てきたとき穏やかな雰囲気だった。良かった。
「何か頼んだ?」
「うん。コーヒーもらおうかな。」
「アイス?」
「ホット。」
「この暑いのに?」
「体を冷やしたくないんだ。」
 私はお湯を沸かす為に、水をケトルに入れてお湯を沸かす。
 すると葵さんは、私の腰あたりに手を伸ばしたのが見えた。その行動に、竹彦も驚いてこちらを見た。
「ほどけかけてますよ。」
「エプロンですか?すいません。」
「そっか。ここで触ったらセクハラと言われますかね。」
「……そんなことはないですよ。」
 あなたにはセクハラまがいのことを沢山されましたから。とは言えないけど。
 エプロンをまき直すと、今度は葵さんがエプロンをとった。
「ちょっと買い出しに行ってきます。ちょっと店をお願いしますね。」
「はい。わかりました。」
「では竹彦君。ごゆっくり。」
 そういって葵さんはカウンターをでると、店をあとにした。店の奥には深刻そうな話をしているカップルが一組と、本を読んでいる女性が一人いた。それからカウンターには竹彦がいる。
 静かな店内に、ミルで豆を挽くガリガリという音だけが響いた。
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