夜の声

神崎

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一年目

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 しばらくして奥に座っていたカップルと、男の二人組が帰って行った。カップを片づけて、テーブルを拭くとカウンターに戻ってきた。
 私は柊さんに背を向けて、洗い物をしていた。その間、私たちに会話はない。何を話せばいいのかわからないからだ。やがて洗い物も終わり、柊さんの前にたつ。彼はコーヒーを飲み、そしてもう一本煙草を取り出した。そして私の方をみる。
「この間……。」
 そのとき後ろのドアから葵さんが戻ってきた。
「桜さん。悪かったですね。少し時間をオーバーしてしまいました。」
 そう言われて私は時計をみる。確かに二十一時から十分ほど時間はたっていた。
「大丈夫です。」
「雨はまだ降っていますかね。」
「少しだ。さっきまで土砂降りだったが。」
「そう。じゃあ、小降りのうちに帰った方がいいですね。」
「いいんですか。」
「もう洗い物も終わってますし、大丈夫ですよ。あとは私一人で。」
「あ、はい。では失礼します。」
 そう言って私は、スタッフルームに入っていった。着替えを終えて、出て行こうとしたときだった。

 ガチャン!

 何かが倒れる音がした。私は急いで表に出る。するとそこには葵さんしかいなかった。カウンターを出ると、もうそこに柊さんの姿はなく、彼が座っていたいすが倒れていた。
「……何かあったんですか。」
 私はそう言っていすをたてた。カウンターにいる葵さんは一瞬、真顔になっていたが、目をつぶりため息を一つ。そしてまた私の方を見たとき、もういつもの笑顔だった。
「何もありませんよ。昔から知っていると、ちょっとしたことでも喧嘩になります。もっとも……今回は彼が最初から喧嘩腰でしたけどね。」
「喧嘩腰?」
「えぇ。機嫌が今日は悪かった。」
 葵さんはカップを片づけるとカウンターを出てきた。そして私の前にたつ。見下ろすような格好だった。
「彼は、私があなたにキスをしたことに腹を立てていますよ。」
「……。」
 覚えていたんだ。思わずうつむいてしまう。恥ずかしくて。いっそ、酔って覚えていなかったと言って欲しかった。
「葵さん。私……。」
「合意ではありませんでしたね。それにあなたにとっては初めてのことでしたから、悪いことをしたと思ってます。」
 こう言うとき、どうしたらいいのだろう。思いっきり頬を叩けばいいのか。それとも「あなたのことは好きではない」と言って罵倒したらいいのか。
 わからない。
 椿さんはそんなときどうすればいいのか、教えてくれたことはない。
「しかしあなたの頭の隅にでも置いてくれればいい。私があなたのことをとても大切に思っていることを。」
「……葵さん。それは男女の関係ではないんですよね。」
「あなたがそう思うのであれば。」
「そうではないと、私はここで働くことは出来ないでしょう。だから……今はそう思わせてください。」
 すると彼は私の頭を撫でて、そうですねとつぶやいた。
「また、明日。」
「えぇ。また。」
 外にでると雨はまだ少し降っていた。私は傘を差して、表通りにでる。
 葵さんは私に振られたと思っているのかもしれない。
 大それた事だ。あんなにかっこいい人が私のような女を好きになるなんてあり得ない。きっとからかっただけ。きっとそうだ。
 酔った勢いでキスをした。その責任をとろうとしたのかもしれないし。だったら……。私が葵さんを振ったっていうことにはならない。恋愛感情はその間にはなかったのだから。
 ごちゃごちゃと考えながら、私はその自動販売機の前に立っている、柊さんを見つけた。
「柊さん。」
 彼は私を見ると、口元だけで微笑んだ。
「……桜。」
 だがその微笑みは一瞬だった。彼はすぐに視線をそらせた。
「あの……お礼なんですが。」
「何をしてくれる?」
 視線を外したまま彼は私に問う。しかし私がその質問に詰まっていると、彼はその場から去ろうと私に背を向けた。
「柊さん。私……何も出来ませんが。」
「……葵にはしていた。」
「葵さんに?」
「そう。あいつから聞いた。あいつは手が早いのは知っていたが、まさかお前にまで手を出すとは。」
「聞いたんですか。」
「感情のない行為はただの行為だ。お前は望んでいたか。」
「いいえ。むしろ、雇用主とアルバイトの関係が崩れるのではないかと思いました。だから、さっき……お互いに忘れようと言い合いました。」
「……それでいいのか。」
「えぇ。ではないと……冷静でいられないから。」
「桜。無理をしない方がいい。」
「無理などしていません。私は……。」
 もう無理だ。どうしてこんな事を言われないといけないんだろう。あなたから言われたくない。椿さんの声のあなたに。
「人を好きになったことがないんです。」
「桜。」
 彼が振り返り、私の方をみた。そのときだった。
「すいません。ちょっといいですか。」
 パトカーが停まり、降りてきた警察官が私の前に立った。
「高校生だね。君。もう二十二時になるけど、帰らないの?」
「え?もうそんな時間に?」
「そう。親御さんは知っている?家はどこ?」
 すると柊さんが警察に頭を下げた。
「すいません。俺の妹が。」
「あ、あなたお兄さん?」
「傘を持ってなくて、持ってきてもらったから。」
「そうでしたか。保護者がいれば別に問題はありませんから。早く帰らせてくださいね。」
 パトカーに警察官が乗る。しかし動かなかった。そこで柊さんは私に向かって言う。
「ほら。帰るぞ。」
 多分、エンコーとかしてる女子高生に見えたのかもしれない。私たちは私の住んでいるアパートに向かう。
「柊さん。」
「まだ疑ってるようだ。付いてきてる。パトカー。」
「え?」
「振り向くな。」
 アパートの入り口に入り、部屋の鍵を開ける。そして柊さんもその部屋の中に入ってきた。
 暗い部屋の中。玄関で立ち尽くしている私たちは、何も言わなかった。腕を伸ばせばお互いの腕が掴めるくらい近い。
 とりあえずお礼を言おうと、私は声をかけようとした。そのとき腕を思いっきり捕まれる。
「い……。」
 痛い。強い力が、私の腕をつかみあげた。
「桜。」
 暗いせいか柊さんの声がますます椿さんの声に聞こえる。それがまた鼓動を高ぶらせる。
「桜。」
 今度は耳元で囁かれる。胸が捕まれるくらい切なかった。
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