夜の声

神崎

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一年目

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 布団の中で私はどきどきして眠れないと思っていた。でも結局、食事してベッドにはいればいつの間にか眠っている自分がいる。初めてキスをされて、しかもその人は好きなのかわからない人。
 葵さんだって大人の人だ。キスもその次のことも慣れているんだろうな。あんなにモテる人だもの。それに私の目から見ても格好いい人だもんな。
 遊びだ。それに酔ってた。だから覚えてないと思う。
 体調が回復した私は、学校へいつものように行った。その日は雨で、さすがに柊さんの姿は外には見えない。多分仕事はここだけじゃないだろうし、別の学校へ行ってるのかもしれない。
 私の鞄の中には、母から預かった包みがある。どうやら学校から連絡があって、私が倒れたときに運んでくれたのは外部の用務員の人だと言うことを知ったらしい。
 いつも来ている人ならお礼を渡してほしいと、可愛らしい包みを渡されたのだ。
「大した物じゃないわ。タオルとかよ。」
 母は外見はあんなのだけど、こういう心配りが結構行き届いている。だから、クラブのママとかできるんだろうな。でもきっと今日はこの学校にいない。
 学校で会えないのだったら葵さんに預けるしかないのかな。
「桜。聞いてー。」
 向日葵はそう言って他愛もない愚痴を言いだした。どうやら向日葵は最近彼氏とうまくいっていないらしい。
「メッセージ送っても返事返ってくるの超遅いしぃ、電話は出ないし。どこ行ってたのって聞いたら、バイトで残業してたって。本当かって思うじゃん。」
「まぁね。」
「でもそれで文句言ったら、「お前と会うためにバイトしてんだぞ」ってそればっか。」
「で、デートできてんの?」
「できてないよぉ。この間も約束してたのに、急にバイトの人が休んだからでないといけないって、ドタキャンされたし。」
「それは災難だったね。」
「そうでしょ?」
 本当に他愛のない相談だ。と言うよりアドバイスなんかしない。あなたの気持ちがわかると同調すれば、向日葵は納得するのだ。
「女の子も多いんでしょ?」
「そうそう。大学生とかさ。やっぱ年上の女の方がいいのかもしれないって思うからさ。」
 だよねぇ。女はでてるとこ出てて、引っ込んでるところは引っ込んでる方がいいに決まってる。私みたいに凹凸のない体に、あんな男の人が惹かれるわけないじゃない。
 からかってるんだよ。酒も入ってたし。葵さんの店に今日から行かないといけないけど、うん。もう忘れよう。
 ファーストキスだったけど、犬からされたとでも思って。

 学校が終わって、私は「窓」に向かった。
 少し奥まったところにある店の前のドアの前にたつと、私はふっと息を吐いた。よし。行こう。
 ドアを開けると、軽いドアベルの音がした。店の中は奥の席に四人組の男女。二人組のカップル。そしてカウンターには三人組の男女。いずれも常連だった。
「ははっ。信二さん。それはないわ。」
「マスター。玉打ちしないんだっけ?」
「僕は賭事は昔してましたけどね。今は……あぁ。桜さん。もう体調は大丈夫ですか。」
「はい。ご心配かけました。」
 少し立ち尽くしていたけど、足を踏み出してカウンターの方へ向かう。
「桜ちゃんどこか悪かったの?」
「少し体調を崩してしまって。」
「食べなきゃダメだよ。細すぎるよね。そんなんじゃ子供も産めないよ。」
「そうそう。女の子は、少しくらい太ってた方がいいんだよ。柔らかくてさ。」
 その下品な言い方に、隣に座っていたおばさんがその男の頭をぽんと叩く。
「未成年になんて事を言ってんだい。」
 愛想笑いを浮かべて、カウンターにはいる。そして奥にあるドアを開けて中に入った。
 スタッフルームにはいると、いつものように着替えを始める。あぁいう人がいて良かった。気が楽になるし、葵さんとも普通に接することができる。
 ギャルソンエプロンを身につけると、カウンターにはいる。ふと見ると、洗い場にカップや皿が溜まっていた。
「これ、洗えばいいですか。」
「そうですね。お願いします。」
 するとドアベルが鳴る。そちらを見ると、背の高い男の人がやってきた。しかも長髪でドキリとしたが、それは柊さんではなかった。後ろには女性がいる。
 私は水を止めて、二人を奥の席に案内した。
 それからお客さんが入れ替わり立ち替わりやってくる。雨が降ろうとあまり関係はない。外が雨で冷えているので、むしろ温かいコーヒーがよく出る。それから夜が近くなってくると、スパゲティやサンドイッチなんかの軽食も出ることが多い。そのときは私がカウンターに入ってコーヒーや紅茶を入れたりして、葵さんはフードを作る。
 やがて二十一時近く。もうラストオーダーの時間は過ぎている。そのときドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
 テーブルを片づけながら、そちらを見るとそこには柊さんの姿があった。
「柊さん。」
 彼は私の姿を見て、私に近づいてきた。
「体調はもういいのか。」
「はい。大丈夫です。ご心配をかけました。」
「そうか。良かったな。」
 それだけ言うと彼はカウンター席に座る。すると葵さんはいつものように笑顔を浮かべた。
「いらっしゃい。柊。」
「葵。悪いがコーヒーを一杯くれないか。」
「今日は時間は大丈夫ですか。」
「あぁ。今日はいい。」
 彼はそう言って灰皿を手元に寄せた。
「桜さん。悪いですが、ブレンドを一つ入れてやってくれませんか。ちょっと私、電話をしないといけないところがあったのを忘れていました。」
 そう言って彼は、電話の子機を手にしてスタッフルームの方へ行ってしまった。
 店の中は奥の席にカップルが一組。そしてその手前に男性同士の二人組。カウンター席には柊さんがいるだけだった。
「柊さん。あのですね。」
「何だ。」
 彼はそう言って煙草に火を付けた。この間よりもなんだか不機嫌そうだ。
「母から預かっている物があるんです。」
「俺に?お前の母親など知らないが。」
「先生から連絡をもらっていたそうです。私が倒れたのを助けてくれたのは、用務員の人だと。」
「そうか。礼を言われるようなことはしていないが。」
 そう。彼にとってその行為は普通の行為。用務員としての仕事をしただけなのだから。
「先生ならお礼は不要かもしれませんが、外部の方なので受け取って欲しいと言われてます。葵さんが戻ったら……。」
「本当にお礼ならお前の母からなどではなく、お前自身からもらいたいものだ。」
「私から?」
 すると彼は灰皿に灰を落とす。それを少し見て、また私のほうに視線を写した。
「何をしてくれる?」
「……。」
 何ができる?私は少し迷いながら、カップを取り出した。そしてコーヒーを注ぐ。
「私には何の取り柄もありませんが。」
「あるさ。」
 困ったなぁ。こんな大人の人に何のお礼が出来るのだろう。そう思いながら私はそのコーヒーを彼の前に出した。
「どうぞ。」
「……ありがとう。桜。もうバイトは終わりの時間だろう。」
「はい。」
「表通りに出たら、赤い自動販売機があるのはわかるだろうか。」
「はい。」
「そこで待っている。」
「……はい。」
 お礼のことだろうか。
 私に何が出来るのだろう。こうしてコーヒーを淹れる以外に彼に何が出来るのだろう。わからない。
 大人の男の人の考えてることは、子供の私にはわからないのかもしれない。
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