或る殺人者が愛した人

神崎

文字の大きさ
上 下
41 / 42

小説 の 内容

しおりを挟む
 春。
 私の職場にも新入社員がやってきた。出版業界は不況の最中だというのに、それでも入社したいと希望を持ってやってくる人は多いものだった。
 そして桜の花が咲いたというニュースが流れたその日。「東雲」の新刊が発売された。今回の本は官能小説ではなく、ジャンルはミステリーになるのだろう。おそらく手にとって読んだ人は、大騒ぎになるだろう。
 担当者の私は、家に帰れない日々が続くと覚悟していた。

「佐藤さん。電話が止まらないよ。これでは電話線がパンクしてしまう。サーバーも落ちそうだ。」
 予想はしていた。しかし予想以上だったのかもしれない。
「…はい。その予定はまだ…。申し訳ございません。」
 理由は「東雲」の本である「殺人の記憶」の内容が、事実ではないのかという問い合わせばかりだった。

 少女Aは5歳の時、両親を殺された。その犯人Bは後進国に逃亡し、20年近く雲隠れしていた。
 20年過ぎたある日、Bは突然、この国に帰国した。しかし空港でBは殺され、そしてこの国にいたBの妻Cも殺された。
 Cを殺した人物Dは、20代になっていたAに指示されて殺したと自供したが、Aに会った瞬間、Dは服毒し自殺した。真実は闇の中に入っていったという。
 Aはずっと両親を殺した人物を追っていたEという警察官に、恋心を抱き、そしてEもAにいつしか恋心を抱き、すべてを忘れて一緒になろうと結婚する気であった。
 しかしEは職務の途中で殉職する。
 Aは自分が死に神ではないのだろうかと責めていた。
 しかしすべてはある人物の手のひらで行われていたことだった。

 ここまでは「真実」だった。私の身の回りであったこと。だからこれは真実だった。
 しかしそのトリックやすべてを仕切っていた人物。それはあくまで予想だった。証拠はないと思われていたこと。
「佐藤さん。」
 隣の席にいる久保さんがメールで対応をしていた私に、声をかけてきた。
「はい。」
「部長が呼んでいる。」
「メールの処理が終わり次第、行きます。」
 そういって私は画面を見ながら答えた。おそらく出版差し止めを言いたいのだろう。

 部長の部屋へ行くと、そこには一人の人物がいた。それは成の父である小林武蔵だった。和服を着ていて、とても堂々としている。
 気後れしそうなくらい貫禄があった。
「佐藤さん。オーナーが君に話があるそうだ。」
 そういって部長は席を外し、外に出て行った。
 見下ろす武蔵は、とても怖い。しかし負けていられないのだ。
「この本の出版は、君がしたというのか。」
「はい。東雲先生の担当をしています。」
「悪いことは言わない。この本の出版を今すぐ止めろ。」
「…そうはいきません。出版初日で重版も決まっています。それから文庫本にもなる予定です。」
「即刻だ。文句は言わせない。」
「そんなことをすれば、この会社は多額の負債を抱えることになりますが。」
「かまわん。それくらいの負債で傾くようなへまはしない。」
 どことなく焦っていたような気がする。おそらく本を読んだのかもしれない。
「この「東雲」というのは、何者だ。」
「中村桐。」
「中村…あの中村仁の?」
「甥になりますか。」
「そうか。引き取ったといっていたが…あの娘の…。」
 あぁ。やはりそうなのだ。あの小説のとおりなのだ。私は後ろ手で、携帯電話を当たり会る人物に空メールを送る。
「あの娘?」
「お前には関係ない。中村桐にも会わなければいけないか。全くどうしてこんな話が漏れたのか…。」
「…話?」
「いいや。」
「この話はフィクションです。やましいことがなければ、販売しても何もかまわないと思うのですが。」
「やましいことなど…。」
「どうしてそんなに焦っているのですか。」
「焦ってなど…。」

 すべてはある人物の欲で始まった。
 代々名家であるFの家は、代々続くグループ関連会社の出版社の社長になるべく育てられたが、他の兄弟は自分より遙か上の社長になっていた。それが悔しかったのだろう。
 本人に言わせれば「砂を噛み、泥水を飲み、悔しさを滲ませていた」と言っていた。それを挽回するべく、彼はその企業をてにどんどんと吸収合併し、巨大なグループ会社を作ることに成功した。
 悔しさもあったが他の兄弟たちもFに一目を置くようになった。
 そしていつの間にか、その会社より独立し、一つの大きな会社を立ち上げることに成功した。それが彼の自信になった。
 当然のようにワンマンで動かしてきた企業だ。そしてそれは他のことにも通じる。
 妻も子もいたが、彼には気になる女性がいた。出版会社で校閲をしているGという女性だった。可憐で美しい女性は、他の男子社員も虜にしていった。
 Gはそんなものには見向きもせずにただ一心に仕事をしているように見える。そんな女性にFはいつの間にか虜になっていった。あの手、この手でGを手に入れようと必死だった。しかしGは何も反応を示さない。
 それどころか、彼女は一人の男性とずっと交際していることがわかった。同じ会社のHという男で、どうやら大学生の頃より二人はつきあっていたらしい。「結婚」という話も出てきている。
 結婚などさせるわけにはいかない。自分のものにするのだ。独りよがりなFは無理矢理Gを抱いたり、それをもみ消したりした。
 しかしGとHはその攻撃を避けるように二人そろって退職し、結婚した。Fが手に入れられなかったものは、その女一つだけだった。
 その感情は、やがて嫉妬となり、恨みに変わる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢は毒を食べた。

桜夢 柚枝*さくらむ ゆえ
恋愛
婚約者が本当に好きだった 悪役令嬢のその後

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。

ふまさ
恋愛
 楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。  でも。  愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。  この作品は、小説家になろう様にも掲載しています。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

妻を蔑ろにしていた結果。

下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。 主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。 小説家になろう様でも投稿しています。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

処理中です...