或る殺人者が愛した人

神崎

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仮宿 を 出るとき

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 誰もいない伊勢さんの部屋でその日の夜は過ごした。そして伊勢さんに心配かけまいと、夜明け前に部屋を出る。
 私にどこに行くところがあるだろう。伊勢さん以外の友人を捨てた私に。結局私が帰ってくるのは、自分の家だけだった。
 家の入り口は引き戸になっている。開ければがらがらと音を立てるので、きっと桐にも私が帰ってきたことはわかっていると思う。そして彼は何を思うだろう。わからない。でも私が出来るのは、今日からの仕事だけだった。
 いつものようにスーツを着て、そのまま家を出よう。朝食は適当に駅前なんかで食べればいいのだ。そう思っていた。
 スーツに袖を通して、出ていこうとしたときだった。
「…桐?」
 まるで誰もいないように静かだ。そう思ったとき、私は自然と桐の部屋に足が向いていた。
「桐。」
 ふすまの前で声をかけるが、返事はない。眠っているのかもしれないと、そこを開ける。するとそこはもぬけの殻だった。
「桐?」
 パソコンの横にある携帯電話も、灰皿の横にある煙草もそのままだった。
「…桐?」
 押入を開ける。本の山や少しの洋服があるだけだった。
「…どこへ行ったのかしら。」
 携帯電話があるということは、ちょっとどこかに出ていったというわけでもないのだろう。なぜなら、彼がいつも持っている財布もそのままだったからだ。
「…確かに出て行ってとは言ったけれど…。」
 だけど桐と連絡が付かなければ困ることもある。作家としての仕事もあるのだ。
「桐!」
 トイレにでも行ったのかもしれない。僅かな望みだった。しかしやはりこの家のどこを探しても、彼の姿はない。

「…出ないわね。」
 駅前のカフェでコーヒーとベーグルを食べながら、成に電話をしてみた。しかし朝早いからかもしれないが、成は出なかった。とりあえずメールを打って、気がついたら電話をしてもらえるようにメッセージを残しておく。
 だけど夕べのことを成にすべて言えるだろうか。ううん。言う権利なんかあるのだろうか。成のことも私は突き放してしまったのに。都合のいいと思わないだろうか。
 それから伊勢さんにも言わないといけないだろう。伊勢さんは何というのだろう。呆れるだろうか。
 そういえば伊勢から言われたことがある。男と女の間に友情は成立しないと。私はそれを身を持って体験してしまったのだ。後悔している。桐を家に入れたことを。

 会社に行くと、私はまずパソコンを起動させる。完全に起動するまでは少し時間がかかる。その間、コートを脱いで給湯室でコーヒーを入れた。
「おはよう。」
 後ろから声をかけられたのは隣の席の久保さんだった。
「おはようございます。」
「早いね。急ぎの仕事でもあるの?」
「別にないですけど、目が早く覚めてしまったんで。」
「…佐藤さんって、有給溜まっているんじゃないの?」
「あぁ、そうですね。あまり使ったこともないし。」
「流れたらもったいないよ。ぱあっと使ってみたらいいのに。」
「そうしたいんですけど、作家先生の事情もありますし。」
「そうだね。だから、部長が言ってたよ。これから作家先生のお宅に伺う昔の手法を止めようかとね。」
「そうでしたか。」
 インターネットが普及している昨今。確かに作家先生のお宅に伺って、原稿のチェックをするなんてことはナンセンスなのかもしれない。
「それでも東雲先生のところへは君が行かないといけないのかな。」
「そんなことはないですよ。こつさえわかれば東雲先生のところへは誰でもいけます。」
「へぇ。そのこつを是非知りたいものだ。」
「よかったらお貸ししましょうか。料理の本。」
「料理?」
「差し入れでも結構ですけど、そんなことを口実に伺っていましたから。」
 そうしないと桐は食事もしないまま、あの部屋に籠もっていただろう。
「まるで家政婦だ。」
「そうでしょうか。」
「体の関係がなければ、家政婦でしかないよ。俺には無理かもしれないな。」
 やがて始業時間になる。朝礼をすませて、パソコンをみる。そこには数件のメールがあった。デザイン会社や印刷会社、そして見たこともないメールアドレス。
「?」
 それを開いてみると、そこには桐の名前が書いてあった。
「桐?」
 その声にとなりの久保さんが私の方をみる。
「何でもないです。」
 久保さんには誤魔化して、私はそのメールをみる。
 どうやら桐は成のところに身を寄せたらしい。成の住んでいるところは私は知らない。だけど、これから作家としての連絡はすべてメールと電話だけにして欲しいと書いてあった。メールアドレスと、電話番号が最後に書いてある。どうやら電話番号は携帯電話で、見たことのない番号だった。
「…。」
 普通の作家と担当者の関係に戻っただけ。そう思うしかない。私はそのアドレスに返信をする。
「了解しました。」
 成の住んでいるところは知らない。彼について知っているのはすでに会社の場所だけだ。
 わかっている。私が望んだこと。伊勢さん以外の人を遠ざけようとした身の出た錆だ。
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