28 / 42
仮宿 を 出るとき
しおりを挟む
誰もいない伊勢さんの部屋でその日の夜は過ごした。そして伊勢さんに心配かけまいと、夜明け前に部屋を出る。
私にどこに行くところがあるだろう。伊勢さん以外の友人を捨てた私に。結局私が帰ってくるのは、自分の家だけだった。
家の入り口は引き戸になっている。開ければがらがらと音を立てるので、きっと桐にも私が帰ってきたことはわかっていると思う。そして彼は何を思うだろう。わからない。でも私が出来るのは、今日からの仕事だけだった。
いつものようにスーツを着て、そのまま家を出よう。朝食は適当に駅前なんかで食べればいいのだ。そう思っていた。
スーツに袖を通して、出ていこうとしたときだった。
「…桐?」
まるで誰もいないように静かだ。そう思ったとき、私は自然と桐の部屋に足が向いていた。
「桐。」
ふすまの前で声をかけるが、返事はない。眠っているのかもしれないと、そこを開ける。するとそこはもぬけの殻だった。
「桐?」
パソコンの横にある携帯電話も、灰皿の横にある煙草もそのままだった。
「…桐?」
押入を開ける。本の山や少しの洋服があるだけだった。
「…どこへ行ったのかしら。」
携帯電話があるということは、ちょっとどこかに出ていったというわけでもないのだろう。なぜなら、彼がいつも持っている財布もそのままだったからだ。
「…確かに出て行ってとは言ったけれど…。」
だけど桐と連絡が付かなければ困ることもある。作家としての仕事もあるのだ。
「桐!」
トイレにでも行ったのかもしれない。僅かな望みだった。しかしやはりこの家のどこを探しても、彼の姿はない。
「…出ないわね。」
駅前のカフェでコーヒーとベーグルを食べながら、成に電話をしてみた。しかし朝早いからかもしれないが、成は出なかった。とりあえずメールを打って、気がついたら電話をしてもらえるようにメッセージを残しておく。
だけど夕べのことを成にすべて言えるだろうか。ううん。言う権利なんかあるのだろうか。成のことも私は突き放してしまったのに。都合のいいと思わないだろうか。
それから伊勢さんにも言わないといけないだろう。伊勢さんは何というのだろう。呆れるだろうか。
そういえば伊勢から言われたことがある。男と女の間に友情は成立しないと。私はそれを身を持って体験してしまったのだ。後悔している。桐を家に入れたことを。
会社に行くと、私はまずパソコンを起動させる。完全に起動するまでは少し時間がかかる。その間、コートを脱いで給湯室でコーヒーを入れた。
「おはよう。」
後ろから声をかけられたのは隣の席の久保さんだった。
「おはようございます。」
「早いね。急ぎの仕事でもあるの?」
「別にないですけど、目が早く覚めてしまったんで。」
「…佐藤さんって、有給溜まっているんじゃないの?」
「あぁ、そうですね。あまり使ったこともないし。」
「流れたらもったいないよ。ぱあっと使ってみたらいいのに。」
「そうしたいんですけど、作家先生の事情もありますし。」
「そうだね。だから、部長が言ってたよ。これから作家先生のお宅に伺う昔の手法を止めようかとね。」
「そうでしたか。」
インターネットが普及している昨今。確かに作家先生のお宅に伺って、原稿のチェックをするなんてことはナンセンスなのかもしれない。
「それでも東雲先生のところへは君が行かないといけないのかな。」
「そんなことはないですよ。こつさえわかれば東雲先生のところへは誰でもいけます。」
「へぇ。そのこつを是非知りたいものだ。」
「よかったらお貸ししましょうか。料理の本。」
「料理?」
「差し入れでも結構ですけど、そんなことを口実に伺っていましたから。」
そうしないと桐は食事もしないまま、あの部屋に籠もっていただろう。
「まるで家政婦だ。」
「そうでしょうか。」
「体の関係がなければ、家政婦でしかないよ。俺には無理かもしれないな。」
やがて始業時間になる。朝礼をすませて、パソコンをみる。そこには数件のメールがあった。デザイン会社や印刷会社、そして見たこともないメールアドレス。
「?」
それを開いてみると、そこには桐の名前が書いてあった。
「桐?」
その声にとなりの久保さんが私の方をみる。
「何でもないです。」
久保さんには誤魔化して、私はそのメールをみる。
どうやら桐は成のところに身を寄せたらしい。成の住んでいるところは私は知らない。だけど、これから作家としての連絡はすべてメールと電話だけにして欲しいと書いてあった。メールアドレスと、電話番号が最後に書いてある。どうやら電話番号は携帯電話で、見たことのない番号だった。
「…。」
普通の作家と担当者の関係に戻っただけ。そう思うしかない。私はそのアドレスに返信をする。
「了解しました。」
成の住んでいるところは知らない。彼について知っているのはすでに会社の場所だけだ。
わかっている。私が望んだこと。伊勢さん以外の人を遠ざけようとした身の出た錆だ。
私にどこに行くところがあるだろう。伊勢さん以外の友人を捨てた私に。結局私が帰ってくるのは、自分の家だけだった。
家の入り口は引き戸になっている。開ければがらがらと音を立てるので、きっと桐にも私が帰ってきたことはわかっていると思う。そして彼は何を思うだろう。わからない。でも私が出来るのは、今日からの仕事だけだった。
いつものようにスーツを着て、そのまま家を出よう。朝食は適当に駅前なんかで食べればいいのだ。そう思っていた。
スーツに袖を通して、出ていこうとしたときだった。
「…桐?」
まるで誰もいないように静かだ。そう思ったとき、私は自然と桐の部屋に足が向いていた。
「桐。」
ふすまの前で声をかけるが、返事はない。眠っているのかもしれないと、そこを開ける。するとそこはもぬけの殻だった。
「桐?」
パソコンの横にある携帯電話も、灰皿の横にある煙草もそのままだった。
「…桐?」
押入を開ける。本の山や少しの洋服があるだけだった。
「…どこへ行ったのかしら。」
携帯電話があるということは、ちょっとどこかに出ていったというわけでもないのだろう。なぜなら、彼がいつも持っている財布もそのままだったからだ。
「…確かに出て行ってとは言ったけれど…。」
だけど桐と連絡が付かなければ困ることもある。作家としての仕事もあるのだ。
「桐!」
トイレにでも行ったのかもしれない。僅かな望みだった。しかしやはりこの家のどこを探しても、彼の姿はない。
「…出ないわね。」
駅前のカフェでコーヒーとベーグルを食べながら、成に電話をしてみた。しかし朝早いからかもしれないが、成は出なかった。とりあえずメールを打って、気がついたら電話をしてもらえるようにメッセージを残しておく。
だけど夕べのことを成にすべて言えるだろうか。ううん。言う権利なんかあるのだろうか。成のことも私は突き放してしまったのに。都合のいいと思わないだろうか。
それから伊勢さんにも言わないといけないだろう。伊勢さんは何というのだろう。呆れるだろうか。
そういえば伊勢から言われたことがある。男と女の間に友情は成立しないと。私はそれを身を持って体験してしまったのだ。後悔している。桐を家に入れたことを。
会社に行くと、私はまずパソコンを起動させる。完全に起動するまでは少し時間がかかる。その間、コートを脱いで給湯室でコーヒーを入れた。
「おはよう。」
後ろから声をかけられたのは隣の席の久保さんだった。
「おはようございます。」
「早いね。急ぎの仕事でもあるの?」
「別にないですけど、目が早く覚めてしまったんで。」
「…佐藤さんって、有給溜まっているんじゃないの?」
「あぁ、そうですね。あまり使ったこともないし。」
「流れたらもったいないよ。ぱあっと使ってみたらいいのに。」
「そうしたいんですけど、作家先生の事情もありますし。」
「そうだね。だから、部長が言ってたよ。これから作家先生のお宅に伺う昔の手法を止めようかとね。」
「そうでしたか。」
インターネットが普及している昨今。確かに作家先生のお宅に伺って、原稿のチェックをするなんてことはナンセンスなのかもしれない。
「それでも東雲先生のところへは君が行かないといけないのかな。」
「そんなことはないですよ。こつさえわかれば東雲先生のところへは誰でもいけます。」
「へぇ。そのこつを是非知りたいものだ。」
「よかったらお貸ししましょうか。料理の本。」
「料理?」
「差し入れでも結構ですけど、そんなことを口実に伺っていましたから。」
そうしないと桐は食事もしないまま、あの部屋に籠もっていただろう。
「まるで家政婦だ。」
「そうでしょうか。」
「体の関係がなければ、家政婦でしかないよ。俺には無理かもしれないな。」
やがて始業時間になる。朝礼をすませて、パソコンをみる。そこには数件のメールがあった。デザイン会社や印刷会社、そして見たこともないメールアドレス。
「?」
それを開いてみると、そこには桐の名前が書いてあった。
「桐?」
その声にとなりの久保さんが私の方をみる。
「何でもないです。」
久保さんには誤魔化して、私はそのメールをみる。
どうやら桐は成のところに身を寄せたらしい。成の住んでいるところは私は知らない。だけど、これから作家としての連絡はすべてメールと電話だけにして欲しいと書いてあった。メールアドレスと、電話番号が最後に書いてある。どうやら電話番号は携帯電話で、見たことのない番号だった。
「…。」
普通の作家と担当者の関係に戻っただけ。そう思うしかない。私はそのアドレスに返信をする。
「了解しました。」
成の住んでいるところは知らない。彼について知っているのはすでに会社の場所だけだ。
わかっている。私が望んだこと。伊勢さん以外の人を遠ざけようとした身の出た錆だ。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。


セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。
ふまさ
恋愛
楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。
でも。
愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。
この作品は、小説家になろう様にも掲載しています。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる