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拒否するプロポーズ
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この部屋に来るのも久しぶりだった。最後に来たのは夏頃だろうか。
小夜子はキッチンへ行くと丁寧にコーヒーを入れて、カップを二つもっていく。本当はコーヒーなど飲む気にもなれないが、一巳はコーヒーが好きだから仕方がないだろう。せめて香りのいいコーヒーにしようと、インスタントではなく豆から入れたコーヒーを入れたのだ。
「どうぞ。」
カップを彼の前に置き、彼女はその隣に座った。
「体調大丈夫?」
「うん。ちょっとね。生理になっちゃって。」
「そっか。」
彼女相手に避妊してセックスをしたことがなかったので、内心彼はほっとしていた。と同時に、残念な気持ちにもなる。
結婚したいと思っていたのは事実。だから避妊しなくてもいい。子供が出来たら、彼女も結婚してくれると思っていたから。
「お腹痛くて。今回量も多いし。」
「大変だね。」
「……そうね。」
彼と話すほど体調がいいわけじゃないのだろう。それでも彼女は無理して彼に合わせようとした。緑子とは違うが、とても嬉しかった。
「アルバム聴いたわ。」
「そう?どうだった?」
「一曲異質な曲があったわね。あなたが作ったの?」
「そう。「heaven」って曲をね。」
「……。」
どことなく一巳は変わった気がする。以前は彼女にべったりといった感じがあったが、今は距離がある気がする。それは彼女も一緒だった。
お互いに言えないことがあるのだ。
コーヒーを一口飲み、彼は彼女の方に手を回した。そして唇を寄せる。
「……。」
唇を重ねるだけのキス。だが、彼女はふと違和感を感じた。
「……どうしたの?」
彼が聞くと、彼女は一瞬うつむきそして彼を見上げる。
「香水の匂いがしたから。」
「……え?」
「甘い匂いがしたわ。」
「……瑠衣のつけてる香水の匂いかな。女性モノが好きなんだよ。」
嘘だ。瑠衣には今日会った。彼は香水をつけない。おそらく阿久津もそれが嫌いで、阿久津がそれに会わせているという話を聞いたことがある。
誰の香水なのだろう。
「君は香水つけないの?」
「あぁ。頂いたもの?今日はつけてもね……。」
普段はつけないし、休みの時もそんなにキツく付けることはない。だが嫌いな匂いではないので、部屋でほのかに楽しむことはあったが。
「来週から、誠二がこっちに帰ってくるそうだ。」
「誠二が?」
「あぁ。今誠二が使っている離れに、父さんの愛人が住むらしい。だから誠二は出てこっちに来る。」
「そう。」
誠二が隣にいてくれるだけでもしかしたら斉藤は、今のように頻繁に彼女を求めてくることはないかもしれない。そう思うと少しほっとした。
「……小夜子。僕、来年にはここを出るよ。」
「え?」
「やはり前のようなことがあったら、アパートにも迷惑がかかるしね。」
「前?あぁ。あなたが私のことを言い掛けたこと?」
「そう。怒られたよ。瑠衣から。正直すぎるのも良くないって。」
「そうね。」
少し前のことなのにずいぶん前のことのように感じる。小夜子もばれるのではないかと、どきどきしていたのだ。
「そのとき小夜子。君も来ないか。」
「え?」
驚いて彼女は彼をみる。
「ここは居辛いだろ?斉藤さんもここに住んでいるのだろうし。」
「えぇ。そうだけど……。」
「僕と一緒になろうよ。」
彼はまっすぐ彼女を見てそういった。しかし彼女は彼と目が合わせられない。
「……一巳……。」
負い目がある。斉藤という負い目。気持ちはないにしても、体で繋がっているその事実が負い目だ。払拭するには、これもいい手なのかもしれない。
しかしすべてを隠して彼について行くのか。
そして絵を描けないまま、いつか選ってくるかわからない彼を待つのか。
そんな女になるのか。
「……私……。」
「絵を描きたいなら、描けばいい。ただ僕は君と一緒になって、帰ってきたとき君が家にいればいいと思っている。家族になれる。そう思うよ。」
「……。」
無理だ。
「閉じこもって、絵を描けっていうの?」
「小夜子。」
「あなたが連れだしてくれたのよ。覚えてる?祭りに行って、山車を見て、息づかい、暑さ、鼓動、すべてを絵にしたいと思って描いたの。」
皮肉にも、その絵はもう無い。そしてその絵が一人の男の命を奪った。それでもその絵を完成させたとき、彼女は初めて絵で満足したのだ。
「私は閉じこもりたくない。」
「閉じこもれなんていってないよ。ただ……。」
「悪いけれど、そんな女にはなれない。」
彼女は立ち上がると、自分の部屋に戻っていった。そして再び出てきたとき、彼にその小瓶を手渡した。
「……出て行くなら一人で出て行って。」
そして再び彼女は自分の部屋に戻る。その瞬間、彼女は涙を流した。
冷たい一言だった。それでも本音だった。閉じこもるようなまねはしたくない。狭い範囲で描ける絵は、狭い世界の絵しか描けないから。
「小夜子。」
ドアの向こう側で一巳の声が聞こえる。そしてドアノブが回され、そこに一巳が入ってきた。
「自己完結しないでよ。僕は……君が好きだ。」
「えぇ。そうね。私も好きよ。でも……あなたは……。」
「君だって僕のことを考えないじゃないか。」
「……。」
「やり直せるよ。」
やっと手に入れた小夜子。それを手放したくはなかった。しかし彼女は首を横に振る。
「一巳。私もあなたのことを責められないわ。だから、これ以上あなたを裏切りたくないの。」
それが本音だった。本当に許せないのは自分自身。感情がないと思っている斉藤に、体を許している自分の体が一番許せない。
小夜子はキッチンへ行くと丁寧にコーヒーを入れて、カップを二つもっていく。本当はコーヒーなど飲む気にもなれないが、一巳はコーヒーが好きだから仕方がないだろう。せめて香りのいいコーヒーにしようと、インスタントではなく豆から入れたコーヒーを入れたのだ。
「どうぞ。」
カップを彼の前に置き、彼女はその隣に座った。
「体調大丈夫?」
「うん。ちょっとね。生理になっちゃって。」
「そっか。」
彼女相手に避妊してセックスをしたことがなかったので、内心彼はほっとしていた。と同時に、残念な気持ちにもなる。
結婚したいと思っていたのは事実。だから避妊しなくてもいい。子供が出来たら、彼女も結婚してくれると思っていたから。
「お腹痛くて。今回量も多いし。」
「大変だね。」
「……そうね。」
彼と話すほど体調がいいわけじゃないのだろう。それでも彼女は無理して彼に合わせようとした。緑子とは違うが、とても嬉しかった。
「アルバム聴いたわ。」
「そう?どうだった?」
「一曲異質な曲があったわね。あなたが作ったの?」
「そう。「heaven」って曲をね。」
「……。」
どことなく一巳は変わった気がする。以前は彼女にべったりといった感じがあったが、今は距離がある気がする。それは彼女も一緒だった。
お互いに言えないことがあるのだ。
コーヒーを一口飲み、彼は彼女の方に手を回した。そして唇を寄せる。
「……。」
唇を重ねるだけのキス。だが、彼女はふと違和感を感じた。
「……どうしたの?」
彼が聞くと、彼女は一瞬うつむきそして彼を見上げる。
「香水の匂いがしたから。」
「……え?」
「甘い匂いがしたわ。」
「……瑠衣のつけてる香水の匂いかな。女性モノが好きなんだよ。」
嘘だ。瑠衣には今日会った。彼は香水をつけない。おそらく阿久津もそれが嫌いで、阿久津がそれに会わせているという話を聞いたことがある。
誰の香水なのだろう。
「君は香水つけないの?」
「あぁ。頂いたもの?今日はつけてもね……。」
普段はつけないし、休みの時もそんなにキツく付けることはない。だが嫌いな匂いではないので、部屋でほのかに楽しむことはあったが。
「来週から、誠二がこっちに帰ってくるそうだ。」
「誠二が?」
「あぁ。今誠二が使っている離れに、父さんの愛人が住むらしい。だから誠二は出てこっちに来る。」
「そう。」
誠二が隣にいてくれるだけでもしかしたら斉藤は、今のように頻繁に彼女を求めてくることはないかもしれない。そう思うと少しほっとした。
「……小夜子。僕、来年にはここを出るよ。」
「え?」
「やはり前のようなことがあったら、アパートにも迷惑がかかるしね。」
「前?あぁ。あなたが私のことを言い掛けたこと?」
「そう。怒られたよ。瑠衣から。正直すぎるのも良くないって。」
「そうね。」
少し前のことなのにずいぶん前のことのように感じる。小夜子もばれるのではないかと、どきどきしていたのだ。
「そのとき小夜子。君も来ないか。」
「え?」
驚いて彼女は彼をみる。
「ここは居辛いだろ?斉藤さんもここに住んでいるのだろうし。」
「えぇ。そうだけど……。」
「僕と一緒になろうよ。」
彼はまっすぐ彼女を見てそういった。しかし彼女は彼と目が合わせられない。
「……一巳……。」
負い目がある。斉藤という負い目。気持ちはないにしても、体で繋がっているその事実が負い目だ。払拭するには、これもいい手なのかもしれない。
しかしすべてを隠して彼について行くのか。
そして絵を描けないまま、いつか選ってくるかわからない彼を待つのか。
そんな女になるのか。
「……私……。」
「絵を描きたいなら、描けばいい。ただ僕は君と一緒になって、帰ってきたとき君が家にいればいいと思っている。家族になれる。そう思うよ。」
「……。」
無理だ。
「閉じこもって、絵を描けっていうの?」
「小夜子。」
「あなたが連れだしてくれたのよ。覚えてる?祭りに行って、山車を見て、息づかい、暑さ、鼓動、すべてを絵にしたいと思って描いたの。」
皮肉にも、その絵はもう無い。そしてその絵が一人の男の命を奪った。それでもその絵を完成させたとき、彼女は初めて絵で満足したのだ。
「私は閉じこもりたくない。」
「閉じこもれなんていってないよ。ただ……。」
「悪いけれど、そんな女にはなれない。」
彼女は立ち上がると、自分の部屋に戻っていった。そして再び出てきたとき、彼にその小瓶を手渡した。
「……出て行くなら一人で出て行って。」
そして再び彼女は自分の部屋に戻る。その瞬間、彼女は涙を流した。
冷たい一言だった。それでも本音だった。閉じこもるようなまねはしたくない。狭い範囲で描ける絵は、狭い世界の絵しか描けないから。
「小夜子。」
ドアの向こう側で一巳の声が聞こえる。そしてドアノブが回され、そこに一巳が入ってきた。
「自己完結しないでよ。僕は……君が好きだ。」
「えぇ。そうね。私も好きよ。でも……あなたは……。」
「君だって僕のことを考えないじゃないか。」
「……。」
「やり直せるよ。」
やっと手に入れた小夜子。それを手放したくはなかった。しかし彼女は首を横に振る。
「一巳。私もあなたのことを責められないわ。だから、これ以上あなたを裏切りたくないの。」
それが本音だった。本当に許せないのは自分自身。感情がないと思っている斉藤に、体を許している自分の体が一番許せない。
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