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好きなもの
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夏は夜明けが早い。もう明るくなってから啓子はアパートに帰ってきた。明日から斉藤は店に来ない。一ヶ月間、別の店にヘルプで行くからだ。
だからかもしれない。
「今から部屋へ行っていいですか。」
そんなことを直接言われたのは初めてだった。斉藤の運転する車でアパートにやってくる。
「……。」
アパートの部屋を開けると、玄関に男物の靴があった。それはスニーカーで、一巳が履いているようなものではない。サイズ的にはもっと大きな、そう、誠二が履くようなものだった。
「どうしました?」
斉藤が声をかける。ぼんやりとしていた啓子は、やっと我を取り戻した。
「……何でもないわ。」
そして中に入ると、まずリビングに違和感を覚えた。ソファのシーツが変わっている。真っ白なシーツだったのに、今はピンク色になっているし、それもやや乱れている。小夜子はそれを嫌がっていたはずなのに。
すると小夜子の部屋のドアが開いた。彼女はそちらをみる。一巳であってほしい。そう思った。しかし現実は違う。
「……誠二君。」
誠二は学校指定のズボンを履いただけで、上着は着ていない。それはどういう意味なのか、啓子も、そして斉藤もわかっていた。
「……小夜は?」
「まだ寝てる。昨日無茶したから。」
すると斉藤は表情を変えずに誠二に詰め寄る。身長差はあるが、斉藤には変な雰囲気があった。まるで夕べ会っていた父親のようだと思う。
その雰囲気に誠二は息を飲んだ。
「小夜さんに何をしたんですか。」
「あんたに言う必要ある?」
「……私にはないかもしれないが、啓子さんには伝える義務がありますよね。さぁ、言ってください。」
斉藤の肩越しに見ている啓子の表情が曇っていく。
「……小夜と寝た。」
「合意じゃないわね。きっと。」
ため息混じりに啓子は言う。そして煙草をくわえると、震える指で火を付けた。
「こんな子だったなんてねぇ。斉藤。どうしたらいいかしら。」
「一応、私の叔父になりますけどね……。今時の若い衆でもこんな事をしないと思いますが。」
啓子は灰を灰皿に落として、誠二に近寄る。
「あたしも昔はいろんな事をされたわ。よくわからない人と寝たり、一晩に何人も相手することもあった。でも全ては小夜のため。だって、小夜はあたしが愛した人の忘れ形見だもの。」
小夜を守ることは、愛した人を守ることだと思っていた。だから、小夜には幸せになってほしい。心から愛する人と一緒になってほしいと思っていた。
「こんな事になるなんてね。子供だと思ってたのに。」
「啓子さん。俺は子供じゃない。」
「子供よ。だってあなた一人ではまだ生きていられないじゃない。」
「だから高校出たら、実業団に……。」
「あぁ。夢物語。うんざりだわ。」
煙草を消して、彼女はバックから携帯電話を取り出した。そして電話を始める。
「そうですか。ではお願いしますね。若。」
若の声に、斉藤は驚いたように彼女をみた。
「啓子さん。何を……。」
「夏休みの間、小夜と離れていなさいな。」
「夏休みの間?」
一ヶ月と少し、彼は小夜と別れていないといけないのだ。身を引き裂かれるような思いだっただろう。
手首にはベルトで絞められた跡が残った。そして体には一巳の名残と、誠二の噛み跡が残る。
誠二は泣いても懇願してもやめてくれなかった。だが気持ちとは裏腹に体は反応した。湿っぽい自分の体が恨めしい。ふと、そのとき、彼女は味噌汁の匂いがすることに気が付いた。服を着ると、リビングへのドアを開ける。するとそこには斉藤と啓子の姿があった。
「はよー。」
啓子は新聞を見ながら、そして斉藤は朝食を作っていた。
「あれ?何で斉藤さんが?」
「和食が食べたいと思ってね。今日は連れてきたの。」
「和食?」
すると斉藤は味噌汁をお椀についで、テーブルに置いた。
「えぇ。勝手に食材を使いました。」
「かまいませんけど……。」
なぜ急にそんなことを言い出したのだろう。それに夕べ気絶するまで彼女を抱いていた、誠二の姿がなかった。
「……顔洗ってくる。」
そういって小夜はバスルームへ向かった。
「拍子抜けしてるわね。」
「えぇ。仕方ないです。でも啓子さん。」
「何?」
「選ぶのは本人です。」
誠二と一巳。どちらを選ぶのか。その答えは啓子にはわかっていた。
「どっちも選ばないわよ。きっと。あの子は自分が一番好きなのだから。」
そう思っているうちは誰も好きにならない。いくら体で覚えさせても無理なのだ。
「啓子さんも?」
「あたし?あたしが一番好きだった人は、もういないから。」
「好きだった?」
「えぇ。昔の話。今、あたしが好きなのはあなたよ。」
そういって啓子は笑う。その表情がからかっているようで、いらついてきた。
「父にもそういっているのでしょう?」
「若とは、体だけ。そう始めから割り切ってるわ。損得なしに体の関係を持ってるのはあんただけよ。」
バスルームから小夜が出てきて、啓子は新聞を畳む。そしてテレビの電源を入れた。そこには気楽なニュース番組をしている。
「へぇ。一巳君のバンド、今週一位だって。」
前評判が高かった「psycho」のアルバムは、初登場一位を獲得した。テレビ画面越しに見る、一巳は夕べ彼女を抱いた彼とは別人に見えた。
指よりも顔ばかり映る。そのちらりと映る器用な指が、昔から小夜の好きなものの一つだった。あの音を聴きながら、ずっと絵を描いていたのだ。
だからかもしれない。
「今から部屋へ行っていいですか。」
そんなことを直接言われたのは初めてだった。斉藤の運転する車でアパートにやってくる。
「……。」
アパートの部屋を開けると、玄関に男物の靴があった。それはスニーカーで、一巳が履いているようなものではない。サイズ的にはもっと大きな、そう、誠二が履くようなものだった。
「どうしました?」
斉藤が声をかける。ぼんやりとしていた啓子は、やっと我を取り戻した。
「……何でもないわ。」
そして中に入ると、まずリビングに違和感を覚えた。ソファのシーツが変わっている。真っ白なシーツだったのに、今はピンク色になっているし、それもやや乱れている。小夜子はそれを嫌がっていたはずなのに。
すると小夜子の部屋のドアが開いた。彼女はそちらをみる。一巳であってほしい。そう思った。しかし現実は違う。
「……誠二君。」
誠二は学校指定のズボンを履いただけで、上着は着ていない。それはどういう意味なのか、啓子も、そして斉藤もわかっていた。
「……小夜は?」
「まだ寝てる。昨日無茶したから。」
すると斉藤は表情を変えずに誠二に詰め寄る。身長差はあるが、斉藤には変な雰囲気があった。まるで夕べ会っていた父親のようだと思う。
その雰囲気に誠二は息を飲んだ。
「小夜さんに何をしたんですか。」
「あんたに言う必要ある?」
「……私にはないかもしれないが、啓子さんには伝える義務がありますよね。さぁ、言ってください。」
斉藤の肩越しに見ている啓子の表情が曇っていく。
「……小夜と寝た。」
「合意じゃないわね。きっと。」
ため息混じりに啓子は言う。そして煙草をくわえると、震える指で火を付けた。
「こんな子だったなんてねぇ。斉藤。どうしたらいいかしら。」
「一応、私の叔父になりますけどね……。今時の若い衆でもこんな事をしないと思いますが。」
啓子は灰を灰皿に落として、誠二に近寄る。
「あたしも昔はいろんな事をされたわ。よくわからない人と寝たり、一晩に何人も相手することもあった。でも全ては小夜のため。だって、小夜はあたしが愛した人の忘れ形見だもの。」
小夜を守ることは、愛した人を守ることだと思っていた。だから、小夜には幸せになってほしい。心から愛する人と一緒になってほしいと思っていた。
「こんな事になるなんてね。子供だと思ってたのに。」
「啓子さん。俺は子供じゃない。」
「子供よ。だってあなた一人ではまだ生きていられないじゃない。」
「だから高校出たら、実業団に……。」
「あぁ。夢物語。うんざりだわ。」
煙草を消して、彼女はバックから携帯電話を取り出した。そして電話を始める。
「そうですか。ではお願いしますね。若。」
若の声に、斉藤は驚いたように彼女をみた。
「啓子さん。何を……。」
「夏休みの間、小夜と離れていなさいな。」
「夏休みの間?」
一ヶ月と少し、彼は小夜と別れていないといけないのだ。身を引き裂かれるような思いだっただろう。
手首にはベルトで絞められた跡が残った。そして体には一巳の名残と、誠二の噛み跡が残る。
誠二は泣いても懇願してもやめてくれなかった。だが気持ちとは裏腹に体は反応した。湿っぽい自分の体が恨めしい。ふと、そのとき、彼女は味噌汁の匂いがすることに気が付いた。服を着ると、リビングへのドアを開ける。するとそこには斉藤と啓子の姿があった。
「はよー。」
啓子は新聞を見ながら、そして斉藤は朝食を作っていた。
「あれ?何で斉藤さんが?」
「和食が食べたいと思ってね。今日は連れてきたの。」
「和食?」
すると斉藤は味噌汁をお椀についで、テーブルに置いた。
「えぇ。勝手に食材を使いました。」
「かまいませんけど……。」
なぜ急にそんなことを言い出したのだろう。それに夕べ気絶するまで彼女を抱いていた、誠二の姿がなかった。
「……顔洗ってくる。」
そういって小夜はバスルームへ向かった。
「拍子抜けしてるわね。」
「えぇ。仕方ないです。でも啓子さん。」
「何?」
「選ぶのは本人です。」
誠二と一巳。どちらを選ぶのか。その答えは啓子にはわかっていた。
「どっちも選ばないわよ。きっと。あの子は自分が一番好きなのだから。」
そう思っているうちは誰も好きにならない。いくら体で覚えさせても無理なのだ。
「啓子さんも?」
「あたし?あたしが一番好きだった人は、もういないから。」
「好きだった?」
「えぇ。昔の話。今、あたしが好きなのはあなたよ。」
そういって啓子は笑う。その表情がからかっているようで、いらついてきた。
「父にもそういっているのでしょう?」
「若とは、体だけ。そう始めから割り切ってるわ。損得なしに体の関係を持ってるのはあんただけよ。」
バスルームから小夜が出てきて、啓子は新聞を畳む。そしてテレビの電源を入れた。そこには気楽なニュース番組をしている。
「へぇ。一巳君のバンド、今週一位だって。」
前評判が高かった「psycho」のアルバムは、初登場一位を獲得した。テレビ画面越しに見る、一巳は夕べ彼女を抱いた彼とは別人に見えた。
指よりも顔ばかり映る。そのちらりと映る器用な指が、昔から小夜の好きなものの一つだった。あの音を聴きながら、ずっと絵を描いていたのだ。
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