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春の海
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春になろうとしている海は、穏やかで空の青を映し出している。それを桂は見ながら、思いを馳せていた。
若さはどうしても変えられない。見た目は若く見えても染めている髪の根本は白くなっているのだ。
「桂さん。」
声をかけられて、彼は振り返る。それは若い番組のADだった。
「まだ倫子さんが来れなくて。」
「知ってる。大変だな。外国へ行くのも。」
ドラマの撮影でこの土地に来た。今日が最終日だというのに、ゲストで呼ばれている女優が、撮影前に別撮影で行った外国でトラブルに巻き込まれたらしい。おそらく今日当たりに来れると言っていたが、おそらく来れても夕方になるかもしれない。と言うことは撮影自体も明日まで延びるかもしれないのだ。
AVの現場とは違うのはもう慣れてしまった。あっちの現場は時間勝負で、きっちり決められた時間にこなさないとその文よけいな費用がかかるのだ。
彼は砂浜に腰掛けると、その海をまた見ていた。
そのとき向こうから一人の女性が桂の方へ歩いてきた。やせ細った女性で、髪が長かった。
「啓治さん。」
その女性の姿に、桂は驚いて立ち上がる。
「いつ出所を?」
「この間。」
彼女の名前は浅海夏。桂の妻である春川の姉だった。
彼女はある作家と懇意にしていたが、それが作家の妻にばれてヤクザに売られてしまったのだ。その後、AV女優になり、覚醒剤に溺れた。そして桂と春が出会ったとき彼女はまた覚醒剤に溺れ、実刑判決を受けた。
「お世話になってるのよね。」
彼女は笑いながら、彼の隣に座る。
「えぇ。妻として良くやってくれてます。子供も一人出来ました。」
「知らないうちに叔母さんってわけか。でも相変わらずなんでしょう?」
「あれは一生直らないんでしょうね。今は子供を連れてどこに行ってるのか。」
春川の行方は、桂でもわからない。連絡を取ってもつながらないことも多いのだ。だが彼が家に帰ると、彼女も子供もいつもいる。綺麗な家と、温かい食事があるのだ。
「それだけで、俺は贅沢だと思いますよ。」
「欲のない人。春に聞かせてやりたい。」
夏はそう言って笑った。
「あたし、一つ春に謝らないといけないことがあるの。」
「何ですか?」
「もう春にあたしが会うことはないと思うから、あなたに言うのよ。」
彼女はそう言ってポケットから煙草を取り出した。そして一本それをくわえると火をつけた。
「あたし、父親に抱かれていたのは望んでだったのよ。」
「え?」
「性暴力じゃない。あたしが抱かれたかったから。あたしは……母親が邪魔だったのよ。」
「……。」
「そう。母親を殺したのは、あたし。でも父親はそれを見て、気が動転して凶器を手にしてあの高い橋から飛び降りた。」
「……春は?」
「知ってたわ。でもずっとそれを隠してた。記憶の奥底に鍵をかけて決して言わなかった。でもあの作家先生と縁を切りたいって、あたしにそのことを言ってもいいかって聞いてきたの。好きにすればいい。解決した事件を、今更掘り起こすほど警察も暇じゃないわ。」
「……夏さん。」
「……その話本当だと思う?」
そう言って彼女は笑顔を浮かべた。煙草の煙の向こうで、春によく似た笑顔が見える。
「ジャンキーの戯言。あなたももうあたしに会うことはないんでしょうから。」
「夏さん。一つ聞いていいですか。」
「何?」
彼女は立ち上がり、彼を見下ろした。
「春はあなたを捜していたのを知ってましたか。」
「えぇ。でも私は無視していたの。そうではないと、彼女のセックスの価値が変わるでしょう?官能小説家として活躍していた人の価値観が変わったら、作家としてお終いじゃない。」
「夏さん。春は今ジャンルにこだわっていない。あなたが愛した作家のように、自分の足で、見て、感じたことを書いている。」
その声に夏は煙草を消して、笑顔になった。
「応援してる。でもあたしが愛した作家には追いつけないでしょ?死んだ人に追いつくことなんて絶対出来ないんだから。冬山祥吾のようにね。」
そう言って夏は行ってしまった。そのあとの彼女はどこに行ったのか誰もわからない。
ただ、桂は彼女の腕を見て気がついた。彼女はまだ抜け切れていないのだと。
夜中十二時。桂はマンションに帰ってきた。するとソファの下に腰掛けて、パソコンに向かっている春川の姿がある。彼が帰ってきたことにも気がついていないようだった。
彼は向かいのソファに座ると、その姿を見ていた。その姿が一番好きで、そして彼女も彼の吐息がとても落ち着く。
やがて眠気がおそってきて、彼はそのソファに横になる。
ふっと目が覚めると、春川がパソコンを閉じてこちらを見ていた。
「お帰り。」
「仕事は?」
「とっくに終わった。」
時計を見ると一時を指している。
「お風呂はいれば?ご飯食べてきてるんでしょう?」
「なぁ。風呂入ったら、あんたを食べていい?」
「冬樹が起きるよ。」
「寝かせておけよ。それか、仕事場でさ。」
少し笑うと、彼女は立ち上がり彼の足の間に座る。そして唇を重ねた。
「やばい。今食べたい。」
「起きるから。」
「あんたが声を抑えればいいだろ?」
そう言ってまた彼らは深くキスをした。
「母ちゃん。何してんの?」
ベッドルームから、幼い子供がやってきた。男の子だ。眠そうに目をこすっている。
「冬樹。」
そう言って桂は彼女から離れると、その子供を抱き上げた。
「おしっこか?」
「違う。音がしたから。」
「臆病な奴だな。冬樹は。誰に似たんだ。」
「違うわよ。音がしたからきたのよ。大胆な子ね。」
そう言って彼女は笑っていた。
「どっちにしてももうお前は寝ろ。夜遅いから。」
「うん。」
「父ちゃんと母ちゃんはこれから頑張って、あんたの弟か妹を作るから。」
「啓治。」
きょとんとして、冬樹は桂を見ていた。
冬樹をベッドルームへ寝かせると、桂は春川の手を引く。しかし彼女はソファから立ち上がろうとしない。
「何怒ってんだよ。」
「冬樹に言うことじゃないでしょ?」
「大事なことだろ?子供の時の価値観がセックスの価値を決める。誰も後ろ暗いことはしてない。堂々としてていいんだから。」
「……。」
「さ、行こう。それともここでする?」
「選択権がないわね。」
「当たり前だろ?久しぶりなんだから。」
それでも彼女は嬉しそうに、彼に手を引かれてドアの向こうへ入っていく。
ドアを閉めたとたん、二人は抱き合い彼女は壁に背を向けて彼とキスをする。初めてキスをしたときのように。
若さはどうしても変えられない。見た目は若く見えても染めている髪の根本は白くなっているのだ。
「桂さん。」
声をかけられて、彼は振り返る。それは若い番組のADだった。
「まだ倫子さんが来れなくて。」
「知ってる。大変だな。外国へ行くのも。」
ドラマの撮影でこの土地に来た。今日が最終日だというのに、ゲストで呼ばれている女優が、撮影前に別撮影で行った外国でトラブルに巻き込まれたらしい。おそらく今日当たりに来れると言っていたが、おそらく来れても夕方になるかもしれない。と言うことは撮影自体も明日まで延びるかもしれないのだ。
AVの現場とは違うのはもう慣れてしまった。あっちの現場は時間勝負で、きっちり決められた時間にこなさないとその文よけいな費用がかかるのだ。
彼は砂浜に腰掛けると、その海をまた見ていた。
そのとき向こうから一人の女性が桂の方へ歩いてきた。やせ細った女性で、髪が長かった。
「啓治さん。」
その女性の姿に、桂は驚いて立ち上がる。
「いつ出所を?」
「この間。」
彼女の名前は浅海夏。桂の妻である春川の姉だった。
彼女はある作家と懇意にしていたが、それが作家の妻にばれてヤクザに売られてしまったのだ。その後、AV女優になり、覚醒剤に溺れた。そして桂と春が出会ったとき彼女はまた覚醒剤に溺れ、実刑判決を受けた。
「お世話になってるのよね。」
彼女は笑いながら、彼の隣に座る。
「えぇ。妻として良くやってくれてます。子供も一人出来ました。」
「知らないうちに叔母さんってわけか。でも相変わらずなんでしょう?」
「あれは一生直らないんでしょうね。今は子供を連れてどこに行ってるのか。」
春川の行方は、桂でもわからない。連絡を取ってもつながらないことも多いのだ。だが彼が家に帰ると、彼女も子供もいつもいる。綺麗な家と、温かい食事があるのだ。
「それだけで、俺は贅沢だと思いますよ。」
「欲のない人。春に聞かせてやりたい。」
夏はそう言って笑った。
「あたし、一つ春に謝らないといけないことがあるの。」
「何ですか?」
「もう春にあたしが会うことはないと思うから、あなたに言うのよ。」
彼女はそう言ってポケットから煙草を取り出した。そして一本それをくわえると火をつけた。
「あたし、父親に抱かれていたのは望んでだったのよ。」
「え?」
「性暴力じゃない。あたしが抱かれたかったから。あたしは……母親が邪魔だったのよ。」
「……。」
「そう。母親を殺したのは、あたし。でも父親はそれを見て、気が動転して凶器を手にしてあの高い橋から飛び降りた。」
「……春は?」
「知ってたわ。でもずっとそれを隠してた。記憶の奥底に鍵をかけて決して言わなかった。でもあの作家先生と縁を切りたいって、あたしにそのことを言ってもいいかって聞いてきたの。好きにすればいい。解決した事件を、今更掘り起こすほど警察も暇じゃないわ。」
「……夏さん。」
「……その話本当だと思う?」
そう言って彼女は笑顔を浮かべた。煙草の煙の向こうで、春によく似た笑顔が見える。
「ジャンキーの戯言。あなたももうあたしに会うことはないんでしょうから。」
「夏さん。一つ聞いていいですか。」
「何?」
彼女は立ち上がり、彼を見下ろした。
「春はあなたを捜していたのを知ってましたか。」
「えぇ。でも私は無視していたの。そうではないと、彼女のセックスの価値が変わるでしょう?官能小説家として活躍していた人の価値観が変わったら、作家としてお終いじゃない。」
「夏さん。春は今ジャンルにこだわっていない。あなたが愛した作家のように、自分の足で、見て、感じたことを書いている。」
その声に夏は煙草を消して、笑顔になった。
「応援してる。でもあたしが愛した作家には追いつけないでしょ?死んだ人に追いつくことなんて絶対出来ないんだから。冬山祥吾のようにね。」
そう言って夏は行ってしまった。そのあとの彼女はどこに行ったのか誰もわからない。
ただ、桂は彼女の腕を見て気がついた。彼女はまだ抜け切れていないのだと。
夜中十二時。桂はマンションに帰ってきた。するとソファの下に腰掛けて、パソコンに向かっている春川の姿がある。彼が帰ってきたことにも気がついていないようだった。
彼は向かいのソファに座ると、その姿を見ていた。その姿が一番好きで、そして彼女も彼の吐息がとても落ち着く。
やがて眠気がおそってきて、彼はそのソファに横になる。
ふっと目が覚めると、春川がパソコンを閉じてこちらを見ていた。
「お帰り。」
「仕事は?」
「とっくに終わった。」
時計を見ると一時を指している。
「お風呂はいれば?ご飯食べてきてるんでしょう?」
「なぁ。風呂入ったら、あんたを食べていい?」
「冬樹が起きるよ。」
「寝かせておけよ。それか、仕事場でさ。」
少し笑うと、彼女は立ち上がり彼の足の間に座る。そして唇を重ねた。
「やばい。今食べたい。」
「起きるから。」
「あんたが声を抑えればいいだろ?」
そう言ってまた彼らは深くキスをした。
「母ちゃん。何してんの?」
ベッドルームから、幼い子供がやってきた。男の子だ。眠そうに目をこすっている。
「冬樹。」
そう言って桂は彼女から離れると、その子供を抱き上げた。
「おしっこか?」
「違う。音がしたから。」
「臆病な奴だな。冬樹は。誰に似たんだ。」
「違うわよ。音がしたからきたのよ。大胆な子ね。」
そう言って彼女は笑っていた。
「どっちにしてももうお前は寝ろ。夜遅いから。」
「うん。」
「父ちゃんと母ちゃんはこれから頑張って、あんたの弟か妹を作るから。」
「啓治。」
きょとんとして、冬樹は桂を見ていた。
冬樹をベッドルームへ寝かせると、桂は春川の手を引く。しかし彼女はソファから立ち上がろうとしない。
「何怒ってんだよ。」
「冬樹に言うことじゃないでしょ?」
「大事なことだろ?子供の時の価値観がセックスの価値を決める。誰も後ろ暗いことはしてない。堂々としてていいんだから。」
「……。」
「さ、行こう。それともここでする?」
「選択権がないわね。」
「当たり前だろ?久しぶりなんだから。」
それでも彼女は嬉しそうに、彼に手を引かれてドアの向こうへ入っていく。
ドアを閉めたとたん、二人は抱き合い彼女は壁に背を向けて彼とキスをする。初めてキスをしたときのように。
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コメントありがとうございます。
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