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クリスマス
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祥吾が二人に近づいてきて、二人の間に一気に緊張が走る。しかし祥吾は何も気にしないように穏やかな表情だった。
「予定を空けて欲しいと言われていたが、忙しかったのだろう。外出してみたよ。」
「すいません。お手数かけてしまって。」
春川が頭を下げると、伸びた髪が頬にかかる。ずっと延ばしたままの髪は、もうショートボブとはいい難かった。
「春。それから……桂さん。」
「はい。」
「食事をしないだろうか。夜は更けているが、馴染みの店がある。わがままを聞いてくれる店だ。クリスマスには不似合いかもしれないがね。」
恐ろしいほどいつも通りだ。何か企んでいるのだろうか。桂は少し警戒するように、バッグに入っていた携帯電話をジーパンのポケットに入れた。
着いたのは出版社が入っているビルのほど近く。だが通りからは少しは入り込んだ和食の店だった。おそらく一見さんはお断りといった料亭。
祥吾は慣れた足取りでそこに入る。しばらくすると、白髪交じりの和服の女性が現れた。
「先生。いらっしゃいませ。お久しぶりですね。」
「久しぶりだね。女将。大将は元気かな。」
「えぇ。先生が来ると聞きまして、挨拶にお伺いしたいと申しておりました。」
「そんなことをしなくても良いよ。それに今日は大事な話がある。遅くなったが部屋は空いているだろうか。」
「はい。空けております。どうぞ。」
スリッパを用意してくれて、祥吾はそこにあがる。それに習うように二人もそこに上がった。
広い店でカウンター席もあるが、基本的に個室らしい。この部屋を取るだけでどれくらいかかるのだろう。桂はそう思いながら、祥吾の後ろ姿を見ていた。
自分たちはこの店には不釣り合いだと思う。おそらく今日、絹恵に呼び出されていったホテルですれ違った男や女のような人が来る店だ。革ジャンやジーパンの二人はカジュアルすぎるのだ。
それに比べて祥吾は和服だ。和服というのは便利に思える。カジュアルにもフォーマルにもなるからだ。それに素材によっては家で洗濯も出来るが、おそらく一つ一つ手洗いをしないといけない。その役目はきっと彼女がしていたのだろう。
やがて案内されたのは、一番奥の部屋だった。ふすまで仕切られているような部屋ではなく、独立した部屋のようだ。おそらく高級だと思うこの料亭の中でも、一番高い部屋なのかもしれない。
「お茶を入れますね。外は寒かったでしょう。」
「ありがたい。食事を始めたいときは呼ぶから。」
「はい。」
上座に祥吾が座り、下手に春川、そしてその隣に桂が座った。慣れた手つきでお茶を入れてくれた女将は、彼らの前にそれを置くと黙って下がっていく。
蓋をされたお茶をあけると、ほうじ茶の香りがする。独特なその香りが春川は好きだった。
「祥吾さん。」
口火を切ったのは桂の方からだった。だが祥吾の表情は変わらない。
「どうしたのかな。」
「春さんを俺に貰えませんか。」
ストレートだ。お茶に手をつけないまま、彼は本題に切り込んだのだ。まどろっこしいことは嫌いだという彼らしい。
「……春が何なのか、君は全て知っていての言葉かな。」
「はい。」
「まぁ、私も全てを知っているわけではないがね。だが一つ言えるのは、春は私の妻だ。君はそれを知っていて春が欲しいと言っているのか。」
「あなたの妻だというのは初めて会ったときから知ってました。」
最初はセックスがしてみたいという欲だけ。だがそれから徐々に彼女に惹かれていった。くるくる変わる表情。子供のように興味のあることばかりを追いかける姿勢。その全てが好きだった。
「わかっていて惹かれるか。小説のネタとしては少々使い古されているようだね。」
その言葉に桂はむっとしたように言った。
「祥吾さん。これは小説ではありません。事実です。」
彼の必死の言葉も全て小説のネタだと思っているように聞こえた。それが不快感だったのだ。
「春。君は桂さんについて行きたいと言っていたね。」
ずっと黙っていた春川は祥吾を見据える。そして口を開いた。
「はい。」
「……春。一つ聞きたいことがある。」
「何でしょうか。」
「どうして髪を切らないのかな。」
「は?」
突拍子もない言葉に、彼女は驚いてお茶を落としそうになった。だが祥吾の表情は変わらない。
「そしていつまで取材と称して、女性なんかとくだらないおしゃべりをしているのか。いつだったか化粧をしていた。それも私が苦手な匂いだ。」
「あの……先生。何の話をしているのか……。」
「春。君はね、他の女と違うと思っていたのだよ。取材を繰り返し、綿密に構想を練り、文章で表現するのが君にとって一番良いと思っていたのだけどね。」
「……。」
「それについて、私は何も言わない。その文章の形が気にはなるが、それはそれでかまわないと思う。その程度なのだろうから。」
その程度という言葉にかちんときたが、黙って話を聞いた。
「だが桂さんはそれに耐えれないと思う。実際、一緒にいるのだろう?」
「はい。」
「君が合わせているだろう。そして君も徐々に歪みが出ているのではないのか。」
「歪み?」
桂は驚いて春川をみる。すると彼女はぎゅっと拳を握っていた。
「春。」
「……そうかもしれません。」
絞り出すように春川は言う。それは彼女の初めての言葉だった。
「私にとって一番は物語を紡ぎ出すこと。そのためにいろんなところへ行き、いろんな人に話を聞き、それがリアルに繋がる文章に繋がると思ってました。」
「春、何を……。」
「だけど啓治といると、全てがどうでもよくなる。ただ一緒にいたい。体を重ねたい。その欲望で体が支配される。それが怖い。」
書かない自分に世の中が何を求めているだろう。価値のない人間にされたように思えた。
「それだけ心を惹かれているのかもしれないね。そこまで男にのめり込まないように、私も気をつけていたのだが。桂さん。」
唖然としている桂に、祥吾は再び声をかける。
「こんな女性だよ。自分の欲望に正直な人だ。」
「……。」
「文章よりも君を取るらしい。だがそれは彼女の生きる糧を奪うことだ。君はそこまで考えて、彼女を貰いたいと?」
その言葉に桂は彼女を再び見る。彼女はまだ葛藤しているように思えた。自分か、小説か。
悩め。苦しめ。祥吾は表情を変えないまま、二人の滑稽なやりとりを見ていた。
「予定を空けて欲しいと言われていたが、忙しかったのだろう。外出してみたよ。」
「すいません。お手数かけてしまって。」
春川が頭を下げると、伸びた髪が頬にかかる。ずっと延ばしたままの髪は、もうショートボブとはいい難かった。
「春。それから……桂さん。」
「はい。」
「食事をしないだろうか。夜は更けているが、馴染みの店がある。わがままを聞いてくれる店だ。クリスマスには不似合いかもしれないがね。」
恐ろしいほどいつも通りだ。何か企んでいるのだろうか。桂は少し警戒するように、バッグに入っていた携帯電話をジーパンのポケットに入れた。
着いたのは出版社が入っているビルのほど近く。だが通りからは少しは入り込んだ和食の店だった。おそらく一見さんはお断りといった料亭。
祥吾は慣れた足取りでそこに入る。しばらくすると、白髪交じりの和服の女性が現れた。
「先生。いらっしゃいませ。お久しぶりですね。」
「久しぶりだね。女将。大将は元気かな。」
「えぇ。先生が来ると聞きまして、挨拶にお伺いしたいと申しておりました。」
「そんなことをしなくても良いよ。それに今日は大事な話がある。遅くなったが部屋は空いているだろうか。」
「はい。空けております。どうぞ。」
スリッパを用意してくれて、祥吾はそこにあがる。それに習うように二人もそこに上がった。
広い店でカウンター席もあるが、基本的に個室らしい。この部屋を取るだけでどれくらいかかるのだろう。桂はそう思いながら、祥吾の後ろ姿を見ていた。
自分たちはこの店には不釣り合いだと思う。おそらく今日、絹恵に呼び出されていったホテルですれ違った男や女のような人が来る店だ。革ジャンやジーパンの二人はカジュアルすぎるのだ。
それに比べて祥吾は和服だ。和服というのは便利に思える。カジュアルにもフォーマルにもなるからだ。それに素材によっては家で洗濯も出来るが、おそらく一つ一つ手洗いをしないといけない。その役目はきっと彼女がしていたのだろう。
やがて案内されたのは、一番奥の部屋だった。ふすまで仕切られているような部屋ではなく、独立した部屋のようだ。おそらく高級だと思うこの料亭の中でも、一番高い部屋なのかもしれない。
「お茶を入れますね。外は寒かったでしょう。」
「ありがたい。食事を始めたいときは呼ぶから。」
「はい。」
上座に祥吾が座り、下手に春川、そしてその隣に桂が座った。慣れた手つきでお茶を入れてくれた女将は、彼らの前にそれを置くと黙って下がっていく。
蓋をされたお茶をあけると、ほうじ茶の香りがする。独特なその香りが春川は好きだった。
「祥吾さん。」
口火を切ったのは桂の方からだった。だが祥吾の表情は変わらない。
「どうしたのかな。」
「春さんを俺に貰えませんか。」
ストレートだ。お茶に手をつけないまま、彼は本題に切り込んだのだ。まどろっこしいことは嫌いだという彼らしい。
「……春が何なのか、君は全て知っていての言葉かな。」
「はい。」
「まぁ、私も全てを知っているわけではないがね。だが一つ言えるのは、春は私の妻だ。君はそれを知っていて春が欲しいと言っているのか。」
「あなたの妻だというのは初めて会ったときから知ってました。」
最初はセックスがしてみたいという欲だけ。だがそれから徐々に彼女に惹かれていった。くるくる変わる表情。子供のように興味のあることばかりを追いかける姿勢。その全てが好きだった。
「わかっていて惹かれるか。小説のネタとしては少々使い古されているようだね。」
その言葉に桂はむっとしたように言った。
「祥吾さん。これは小説ではありません。事実です。」
彼の必死の言葉も全て小説のネタだと思っているように聞こえた。それが不快感だったのだ。
「春。君は桂さんについて行きたいと言っていたね。」
ずっと黙っていた春川は祥吾を見据える。そして口を開いた。
「はい。」
「……春。一つ聞きたいことがある。」
「何でしょうか。」
「どうして髪を切らないのかな。」
「は?」
突拍子もない言葉に、彼女は驚いてお茶を落としそうになった。だが祥吾の表情は変わらない。
「そしていつまで取材と称して、女性なんかとくだらないおしゃべりをしているのか。いつだったか化粧をしていた。それも私が苦手な匂いだ。」
「あの……先生。何の話をしているのか……。」
「春。君はね、他の女と違うと思っていたのだよ。取材を繰り返し、綿密に構想を練り、文章で表現するのが君にとって一番良いと思っていたのだけどね。」
「……。」
「それについて、私は何も言わない。その文章の形が気にはなるが、それはそれでかまわないと思う。その程度なのだろうから。」
その程度という言葉にかちんときたが、黙って話を聞いた。
「だが桂さんはそれに耐えれないと思う。実際、一緒にいるのだろう?」
「はい。」
「君が合わせているだろう。そして君も徐々に歪みが出ているのではないのか。」
「歪み?」
桂は驚いて春川をみる。すると彼女はぎゅっと拳を握っていた。
「春。」
「……そうかもしれません。」
絞り出すように春川は言う。それは彼女の初めての言葉だった。
「私にとって一番は物語を紡ぎ出すこと。そのためにいろんなところへ行き、いろんな人に話を聞き、それがリアルに繋がる文章に繋がると思ってました。」
「春、何を……。」
「だけど啓治といると、全てがどうでもよくなる。ただ一緒にいたい。体を重ねたい。その欲望で体が支配される。それが怖い。」
書かない自分に世の中が何を求めているだろう。価値のない人間にされたように思えた。
「それだけ心を惹かれているのかもしれないね。そこまで男にのめり込まないように、私も気をつけていたのだが。桂さん。」
唖然としている桂に、祥吾は再び声をかける。
「こんな女性だよ。自分の欲望に正直な人だ。」
「……。」
「文章よりも君を取るらしい。だがそれは彼女の生きる糧を奪うことだ。君はそこまで考えて、彼女を貰いたいと?」
その言葉に桂は彼女を再び見る。彼女はまだ葛藤しているように思えた。自分か、小説か。
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