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初めての味
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絹恵は容姿から、おそらく家庭的なことはいっさい出来ないのだろうと思っていたが、コーヒーを注ぐ姿を見ていると割と家庭のこともしているのだろうと思えるくらい手際がいい。
「お砂糖とミルクは?」
「ブラックで。」
「そう。じゃあ、これね。」
近所のカフェで作ったコーヒーをポットに入れてもらったものだ。インスタントではないので、香りがいい。これは牧原監督の好みのようだ。
「こうしていると昔を思い出すわ。」
「昔ですか?」
「えぇ。昔、大学で演劇サークルに入っていたの。手作りの舞台。懐かしいわ。」
桂が大学の時は何をしていただろう。大学へ行きながら、バイトでホストをしながら、役者になりたいと演劇の養成所に通っていた。当然寝不足状態のまま大学へ行き、授業になれば眠っていて留年もしないで卒業できたのは奇跡だったかもしれない。
だがそのおかげで、大学を卒業したらある芸能事務所から声がかかったのだ。
「桂さん。あなた本は読む?」
「それなりに。」
「だったらこの間の冬山祥吾の話は、黙っていられるわね?お口が固いようだし。」
「……そのことですか。」
コーヒーに口を付けて、ため息をつく。
「言いませんよ。そんなことを言っても俺には何のメリットもない。」
「メリットはあるでしょう?」
「え?」
「プライベートでキスをする女性がいるのだから。」
「……どこで……。」
ふと思い出した。あの非常階段で、春川を抱き寄せてキスをした。あれを見ていたというのだろうか。しまった。見られてないと思っていたのに。
「助手だと言ってたわね。でもきっと祥吾さんのお手つきになっている女の子よ。」
「そのとおりです。」
妻だとは言わなかった。それも世間には公表していないことだから。
「……祥吾さんは昔からよく知っている人。プライドが高くて、自分のものは絶対離さないわ。彼女が祥吾さんの遊びだとしてもね。」
遊びで結婚するだろうか。イヤ、それ以前に彼は彼女につい最近まで手を出していなかった。
「遊びだと思いますか?」
「えぇ。彼が本気になることはない。私と恋人だったときも、ただ体の関係を続けたかったから恋人になっていたとしか思えなかったから。そういった意味では彼女に同情するわ。」
「……。」
「桂さん。」
「はい。」
「遊びなら続けてもかまわない。だけど、本気になってはいけないわ。祥吾さんは怖い人よ。」
「……牧原さん。」
「何?」
「もう俺は四十五です。遊びでセックスなんてする歳じゃないですよ。」
「……遊びじゃないってこと?」
「えぇ。」
「潰されるわよ。あなた。それだけじゃない。あの子だって……。」
「そうかもしれない。だけどもう止められないんです。あいつだって……。」
その表情に、絹恵は少し微笑んだ。
「似てるわね。」
「え?」
「遠藤守。私の元夫。」
「もしかして……遠藤さんも?」
「自殺よ。でも私はずっと思ってる。そこまで追い込んだのは祥吾さんだって。」
絹恵はじっとコーヒーを見つめ、そしてため息をついた。
「そういう話もあるってこと。そしてあまり人のものに手を出さない方がいいわ。お利口さんでしょ?あなた。」
「……俺は……。」
「……無理ね。AV男優が手を出すくらいだもの。本気に決まってるわ。」
意外だった。彼女がそういうことを言うと思ってなかったから。
「一つ、聞いていいですか?」
「何かしら。」
「彼女をどうして浅海と呼ぶのですか?」
「……あの子の姉を知っているからよ。よく似ているわ。でもあの子の方がもう少しお利口さんみたい。」
「姉……。」
春川は姉の話をしたがらない。それは祥吾の話以上にしたがらないからだ。無理に聞く必要はない。だが気にならないわけじゃない。
祥吾は知っているのだろうか。
「桂さん。そろそろ衣装変えましょう。」
スタッフから声をかけられて、彼はコーヒーを飲み干した。
「ありがとうございます。」
「いいえ。あぁ。それから、私も口は堅い方なの。気になさらないで。あなた方はあなた方で楽しめばいいわ。」
「……でしょうね。この世界にいれば、イヤでも口が堅くなるでしょうから。」
風呂から上がり、春川は髪を乾かすと鏡を見る。確かに髪が伸びた。もう結べそうなくらいだ。前髪くらいは自分で切っているが、後ろや横はそうはいかない。祥吾の言ったとおりこのまま伸ばしてもかまわないが、それはそれでうっとうしいだろう。
美容室にもなかなか行けないのだ。
春川は美容室が苦手だった。いろいろ話しかけてくる美容師も、薬剤の匂いも、整髪料の匂いも、すべてが苦手だ。だがそうも言ってられない。
引き出しからゴムを取り出すと、その髪を結んだ。そのとき、風呂場に祥吾がやってきた。
「髪を結んだのかな?」
「えぇ。やっぱり少し長くなりすぎたみたいで。」
「それもいいね。うなじに跡を付けたくなるよ。」
「イヤですよ。そんな目立つところに付けたら。」
やんわりと断る。そして彼は棚からタオルを取り出した。
「何かこぼしたりしました?」
「いいや。首に巻くんだ。今日は寒いからね。」
「あら。ファンヒーターの灯油が切れてました?あとで入れておきましょう。」
「いいや。まだあるよ。部分的に温かくしたいというだけだ。」
首がつくところを温かくすると、体が温かくなる。彼はいつもそういっていた。
「春。」
彼は不意に彼女を後ろから肩を掴む。
「え?」
そしてその白い首元に唇を寄せた。ちゅっという音とともに、ちくっとした痛みがおそう。
「や……。祥吾さん。」
唇を離すと、そこには赤い跡がついた。
「ついたね。」
「もう……やめて下さいよ。こんな目立つところに……。」
鏡を見るとシャツではごまかせない位置に跡がある。タートルネックでも着ないと無理だ。
「薄いものだ。二、三日で消えるよ。」
「そうは言っても……。」
「彼は付けてくれないかな?」
「え?」
その言葉に彼女の手が止まり、彼をみる。薄く笑っているように見えた。
「彼はそういった跡は付けないか。私にばれては困るだろうしね。」
「誰のことですか?」
「桂さんだ。」
まだ疑っている。彼女は少しため息をつくと彼に向き直った。
「彼とは何もありません。」
「そうだと言っていたね。でも疑いたくはなる。君が外で何をしているか、私には見当がつかないからね。」
「危ないときは守って欲しい。いつか祥吾さんが言ったことですよ。彼はその言葉のとおり、私をよく見てくれます。」
「それだけか?」
「えぇ。それだけです。」
すると彼はその肩を掴み、彼女を引き寄せる。薄い胸板だ。桂とは違う。その胸に抱かれても、もうときめきも何も感じない。だが妻なのだ。
彼女はそれを言い聞かせると、その体に手を伸ばす。
「ここだと君が寒いか。部屋へ来なさい。」
「祥吾さん。すいません。私仕事を……。」
「そのあとでもかまわないだろう?それともここでされたいかな?君は前の時も台所でした。そういう変わったところでするのが好きなのか?」
ずいぶん下品な言い回しだ。だがそれを言ってはいけない。
「わかりました。祥吾さんの……。」
好きなようにすればいい。それが妻の役目なのだから。そう言おうとした。だがその続きは言わせなかった。彼がその唇にキスをしたから。
「お砂糖とミルクは?」
「ブラックで。」
「そう。じゃあ、これね。」
近所のカフェで作ったコーヒーをポットに入れてもらったものだ。インスタントではないので、香りがいい。これは牧原監督の好みのようだ。
「こうしていると昔を思い出すわ。」
「昔ですか?」
「えぇ。昔、大学で演劇サークルに入っていたの。手作りの舞台。懐かしいわ。」
桂が大学の時は何をしていただろう。大学へ行きながら、バイトでホストをしながら、役者になりたいと演劇の養成所に通っていた。当然寝不足状態のまま大学へ行き、授業になれば眠っていて留年もしないで卒業できたのは奇跡だったかもしれない。
だがそのおかげで、大学を卒業したらある芸能事務所から声がかかったのだ。
「桂さん。あなた本は読む?」
「それなりに。」
「だったらこの間の冬山祥吾の話は、黙っていられるわね?お口が固いようだし。」
「……そのことですか。」
コーヒーに口を付けて、ため息をつく。
「言いませんよ。そんなことを言っても俺には何のメリットもない。」
「メリットはあるでしょう?」
「え?」
「プライベートでキスをする女性がいるのだから。」
「……どこで……。」
ふと思い出した。あの非常階段で、春川を抱き寄せてキスをした。あれを見ていたというのだろうか。しまった。見られてないと思っていたのに。
「助手だと言ってたわね。でもきっと祥吾さんのお手つきになっている女の子よ。」
「そのとおりです。」
妻だとは言わなかった。それも世間には公表していないことだから。
「……祥吾さんは昔からよく知っている人。プライドが高くて、自分のものは絶対離さないわ。彼女が祥吾さんの遊びだとしてもね。」
遊びで結婚するだろうか。イヤ、それ以前に彼は彼女につい最近まで手を出していなかった。
「遊びだと思いますか?」
「えぇ。彼が本気になることはない。私と恋人だったときも、ただ体の関係を続けたかったから恋人になっていたとしか思えなかったから。そういった意味では彼女に同情するわ。」
「……。」
「桂さん。」
「はい。」
「遊びなら続けてもかまわない。だけど、本気になってはいけないわ。祥吾さんは怖い人よ。」
「……牧原さん。」
「何?」
「もう俺は四十五です。遊びでセックスなんてする歳じゃないですよ。」
「……遊びじゃないってこと?」
「えぇ。」
「潰されるわよ。あなた。それだけじゃない。あの子だって……。」
「そうかもしれない。だけどもう止められないんです。あいつだって……。」
その表情に、絹恵は少し微笑んだ。
「似てるわね。」
「え?」
「遠藤守。私の元夫。」
「もしかして……遠藤さんも?」
「自殺よ。でも私はずっと思ってる。そこまで追い込んだのは祥吾さんだって。」
絹恵はじっとコーヒーを見つめ、そしてため息をついた。
「そういう話もあるってこと。そしてあまり人のものに手を出さない方がいいわ。お利口さんでしょ?あなた。」
「……俺は……。」
「……無理ね。AV男優が手を出すくらいだもの。本気に決まってるわ。」
意外だった。彼女がそういうことを言うと思ってなかったから。
「一つ、聞いていいですか?」
「何かしら。」
「彼女をどうして浅海と呼ぶのですか?」
「……あの子の姉を知っているからよ。よく似ているわ。でもあの子の方がもう少しお利口さんみたい。」
「姉……。」
春川は姉の話をしたがらない。それは祥吾の話以上にしたがらないからだ。無理に聞く必要はない。だが気にならないわけじゃない。
祥吾は知っているのだろうか。
「桂さん。そろそろ衣装変えましょう。」
スタッフから声をかけられて、彼はコーヒーを飲み干した。
「ありがとうございます。」
「いいえ。あぁ。それから、私も口は堅い方なの。気になさらないで。あなた方はあなた方で楽しめばいいわ。」
「……でしょうね。この世界にいれば、イヤでも口が堅くなるでしょうから。」
風呂から上がり、春川は髪を乾かすと鏡を見る。確かに髪が伸びた。もう結べそうなくらいだ。前髪くらいは自分で切っているが、後ろや横はそうはいかない。祥吾の言ったとおりこのまま伸ばしてもかまわないが、それはそれでうっとうしいだろう。
美容室にもなかなか行けないのだ。
春川は美容室が苦手だった。いろいろ話しかけてくる美容師も、薬剤の匂いも、整髪料の匂いも、すべてが苦手だ。だがそうも言ってられない。
引き出しからゴムを取り出すと、その髪を結んだ。そのとき、風呂場に祥吾がやってきた。
「髪を結んだのかな?」
「えぇ。やっぱり少し長くなりすぎたみたいで。」
「それもいいね。うなじに跡を付けたくなるよ。」
「イヤですよ。そんな目立つところに付けたら。」
やんわりと断る。そして彼は棚からタオルを取り出した。
「何かこぼしたりしました?」
「いいや。首に巻くんだ。今日は寒いからね。」
「あら。ファンヒーターの灯油が切れてました?あとで入れておきましょう。」
「いいや。まだあるよ。部分的に温かくしたいというだけだ。」
首がつくところを温かくすると、体が温かくなる。彼はいつもそういっていた。
「春。」
彼は不意に彼女を後ろから肩を掴む。
「え?」
そしてその白い首元に唇を寄せた。ちゅっという音とともに、ちくっとした痛みがおそう。
「や……。祥吾さん。」
唇を離すと、そこには赤い跡がついた。
「ついたね。」
「もう……やめて下さいよ。こんな目立つところに……。」
鏡を見るとシャツではごまかせない位置に跡がある。タートルネックでも着ないと無理だ。
「薄いものだ。二、三日で消えるよ。」
「そうは言っても……。」
「彼は付けてくれないかな?」
「え?」
その言葉に彼女の手が止まり、彼をみる。薄く笑っているように見えた。
「彼はそういった跡は付けないか。私にばれては困るだろうしね。」
「誰のことですか?」
「桂さんだ。」
まだ疑っている。彼女は少しため息をつくと彼に向き直った。
「彼とは何もありません。」
「そうだと言っていたね。でも疑いたくはなる。君が外で何をしているか、私には見当がつかないからね。」
「危ないときは守って欲しい。いつか祥吾さんが言ったことですよ。彼はその言葉のとおり、私をよく見てくれます。」
「それだけか?」
「えぇ。それだけです。」
すると彼はその肩を掴み、彼女を引き寄せる。薄い胸板だ。桂とは違う。その胸に抱かれても、もうときめきも何も感じない。だが妻なのだ。
彼女はそれを言い聞かせると、その体に手を伸ばす。
「ここだと君が寒いか。部屋へ来なさい。」
「祥吾さん。すいません。私仕事を……。」
「そのあとでもかまわないだろう?それともここでされたいかな?君は前の時も台所でした。そういう変わったところでするのが好きなのか?」
ずいぶん下品な言い回しだ。だがそれを言ってはいけない。
「わかりました。祥吾さんの……。」
好きなようにすればいい。それが妻の役目なのだから。そう言おうとした。だがその続きは言わせなかった。彼がその唇にキスをしたから。
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