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姉
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映画のスタジオは殺伐としていた。もともと牧原絹恵は演じることに対して厳しい態度をとっていた。それは相手が誰であろうと変わらない。
役を降りてしまった英子はその被害者とも言える。
だが今回、彼女の目に留まったのは玲二だった。
「あなた。役者歴は何年になるの?」
「こんなところでトチらないで頂戴。」
そのいらつきは、桂にも及んだ。元々桂は絹恵のお気に入りでもあったが、珍しくその日は桂にも被害が及んだ。
「あなた、何度言ったらわかるの?そのわざとらしい演技をやめて頂戴。ラッシュを見なさい。あなただけ浮いてるわよ。」
口調は厳しいが、AVの現場に比べればそうでもない。桂はそれをぐっとこらえながら、どうしたらいいか模索をしていた。しかし玲二はそれに耐えられないようだ。
「いい加減にしてくださいよ!」
昼休憩を終えて、玲二と絹恵、そして愛美のシーンを撮っていたとき、ついに玲二が爆発してしまった。
「あんただけの映画じゃないんだ。トチることだってあるだろう?それをふまえて、次は良くしよう、良くしようとみんな頑張っているんだ。あんたがよけいな一言を言うから、みんなのやる気が失せてんのわかんねぇのかよ!」
その場にいた、役者、スタッフが凍り付いた。大女優と言われている絹恵にたてつけるのは、彼くらいだったからだ。
「……あんた。誰に向かって……。」
その時、スタジオに桂が入ってきた。桂はその空気に面食らったようにその隅にいる。関わらない方がいいのかもしれないと、その場をあとにしようと思った。
ところが、そのスタジオに全く空気を読まない人が入ってきた。それは春川だった。いつものように笑顔で、彼女はそのスタジオに入ってくる。
「お疲れさまです。」
その声に、彼らは春川の方に視線を集めた。誰だ、この女性は。そんな視線だった。
「秋野さん。」
桂は彼女を促すように、スタジオを二人で出て行った。
「何?」
「ちょっと出演者同士でやり合ったみたいです。」
すると彼女はため息を付いて言う。
「そうでしたか。すいません。何も考えてなくて。」
「無理もありませんよ。いつも通りにここに来たんでしょうから。」
スタッフたちが行き交う廊下。
いっそその場をあとにして、二人でどこかへ行きたい。桂はすぐ側にいる彼女の手に手を伸ばそうとしてそれをためらった。
「桂さん。」
急に呼ばれて、彼はふと我を取り戻した。
「はい?」
「……直接渡した方がいいのかもしれませんが、冬山祥吾から言付けを預かっています。私、これから出版社の方へ行かなければいけなくて、あまり時間がとれないんです。」
「渡しておけばいいのですか?誰に言付けですか?」
「牧原絹恵さんに。」
「……。」
参ったな。おそらく絹恵が発端でごたごたがあったのだろうに、これを渡すことなど出来るだろうか。
「……無理でしたら、直接渡しますが。まだリハですよね?」
「あ、イヤ。」
空気をあまり読まない彼女のことだ。ぴりぴりしているその空気の中に、無神経に入るのを躊躇わないだろう。だが現場の雰囲気は今最悪だ。
いい意味で彼女が影響してくれればいいのかもしれないが、おそらくその期待はしない方がいいだろう。
どうしたらいいのかわからなかったとき、そのスタジオのドアが開いた。そこには絹恵の姿がある。
「全く……俳優をなんだと思っているんだか。」
絹恵は独り言のようにそう呟いてそこをあとにしようとした。そのあとを、春川はついて行く。
「牧原さん。」
明らかに不機嫌な絹恵に、春川はためらい無く彼女を呼び止める。すると彼女は彼女の方を振り向いた。
「あぁ。あなた……浅海さんでしたかね。」
「いいえ。秋野と言います。ライターです。ですが、今日は先生の助手として、あなたに言付けを預かってきました。」
「言付け?先生?誰?先生って?」
「冬山祥吾です。」
その名前に彼女の表情が明らかに変わった。そして彼女はバッグの中から、手紙を取り出す。そして彼女に手渡した。
「こちらです。」
「ふふっ。変わってないわ。この鑞で封をされた手紙。開けた痕跡が残らないようにってしてたんでしょ?」
先ほどまでの不機嫌が嘘のようだ。機嫌良くその手紙を手にする。
「お元気かしら。祥吾さんは。」
「えぇ。」
「相変わらず痩せているのでしょうね。」
「先生とは、お知り合いですか?」
「えぇ。大学の時の……同級生だったの。私は演劇部。彼は文芸部。昔の恋人。」
やはりそんな関係だと思った。だが思ったよりショックは受けてない。
「懐かしいわ。でも今更何の言付けかしら。あなた、内容は聞いてないの?」
「何も。では、私は失礼します。このあと用事があるんで。」
ぞろぞろと出てきたスタッフたちに、春川は押されるように出口へ向かっていく。
「桂さん。先に譲二と竜之介のシーンを撮るそうです。」
スタッフの一人が彼に声をかけた。
「わかりました。でも、少し待って貰えますか?」
「えぇ。玲二さんも少し時間が欲しいと言ってきてるので。」
桂は外に出て行った春川を早足で追いかけた。そして彼女の背中が見える。もう車に乗り込もうとしていた。それを見て、彼は彼女の二の腕をつかんだ。
「啓治……。」
「会えたのに……黙って帰るのか?」
「いつでも会えるじゃない。」
彼は首を横に振る。
「いつでも会えないから、会えたときくらいキスがしたい。」
すると彼女は少し困った表情をした。しかし周りを見渡すと、非常階段を見つける。
彼女はそこへ足を進めて、ドアを開ける。そこへ桂も入っていった。上からは丸見えだが、横からは何も見えない。壁が視界を遮っているのだ。
ドアを閉めた瞬間、彼は彼女を抱きしめた。そして壁に彼女を押し当てると、息を切らせてキスをする。舌をのばし、それを舐めるように絡ませた。
水の音がして、そして唇が離れる。彼女は彼を抱きしめて、違和感を感じた。
「元気になってるわ。」
「若いから。」
「どうするの?」
「円周率でも数えるか。」
「バカね。」
彼も彼女の体に手を伸ばし、そして離れた。
「頑張ってね。」
「あぁ。」
軽くキスをすると、彼が先にその扉を開けて出て行った。
彼女は壁にもたれて、ため息を付く。普段はつけない整髪料の匂いがした。
やはり彼と自分は違うんだ。そう思えた。
役を降りてしまった英子はその被害者とも言える。
だが今回、彼女の目に留まったのは玲二だった。
「あなた。役者歴は何年になるの?」
「こんなところでトチらないで頂戴。」
そのいらつきは、桂にも及んだ。元々桂は絹恵のお気に入りでもあったが、珍しくその日は桂にも被害が及んだ。
「あなた、何度言ったらわかるの?そのわざとらしい演技をやめて頂戴。ラッシュを見なさい。あなただけ浮いてるわよ。」
口調は厳しいが、AVの現場に比べればそうでもない。桂はそれをぐっとこらえながら、どうしたらいいか模索をしていた。しかし玲二はそれに耐えられないようだ。
「いい加減にしてくださいよ!」
昼休憩を終えて、玲二と絹恵、そして愛美のシーンを撮っていたとき、ついに玲二が爆発してしまった。
「あんただけの映画じゃないんだ。トチることだってあるだろう?それをふまえて、次は良くしよう、良くしようとみんな頑張っているんだ。あんたがよけいな一言を言うから、みんなのやる気が失せてんのわかんねぇのかよ!」
その場にいた、役者、スタッフが凍り付いた。大女優と言われている絹恵にたてつけるのは、彼くらいだったからだ。
「……あんた。誰に向かって……。」
その時、スタジオに桂が入ってきた。桂はその空気に面食らったようにその隅にいる。関わらない方がいいのかもしれないと、その場をあとにしようと思った。
ところが、そのスタジオに全く空気を読まない人が入ってきた。それは春川だった。いつものように笑顔で、彼女はそのスタジオに入ってくる。
「お疲れさまです。」
その声に、彼らは春川の方に視線を集めた。誰だ、この女性は。そんな視線だった。
「秋野さん。」
桂は彼女を促すように、スタジオを二人で出て行った。
「何?」
「ちょっと出演者同士でやり合ったみたいです。」
すると彼女はため息を付いて言う。
「そうでしたか。すいません。何も考えてなくて。」
「無理もありませんよ。いつも通りにここに来たんでしょうから。」
スタッフたちが行き交う廊下。
いっそその場をあとにして、二人でどこかへ行きたい。桂はすぐ側にいる彼女の手に手を伸ばそうとしてそれをためらった。
「桂さん。」
急に呼ばれて、彼はふと我を取り戻した。
「はい?」
「……直接渡した方がいいのかもしれませんが、冬山祥吾から言付けを預かっています。私、これから出版社の方へ行かなければいけなくて、あまり時間がとれないんです。」
「渡しておけばいいのですか?誰に言付けですか?」
「牧原絹恵さんに。」
「……。」
参ったな。おそらく絹恵が発端でごたごたがあったのだろうに、これを渡すことなど出来るだろうか。
「……無理でしたら、直接渡しますが。まだリハですよね?」
「あ、イヤ。」
空気をあまり読まない彼女のことだ。ぴりぴりしているその空気の中に、無神経に入るのを躊躇わないだろう。だが現場の雰囲気は今最悪だ。
いい意味で彼女が影響してくれればいいのかもしれないが、おそらくその期待はしない方がいいだろう。
どうしたらいいのかわからなかったとき、そのスタジオのドアが開いた。そこには絹恵の姿がある。
「全く……俳優をなんだと思っているんだか。」
絹恵は独り言のようにそう呟いてそこをあとにしようとした。そのあとを、春川はついて行く。
「牧原さん。」
明らかに不機嫌な絹恵に、春川はためらい無く彼女を呼び止める。すると彼女は彼女の方を振り向いた。
「あぁ。あなた……浅海さんでしたかね。」
「いいえ。秋野と言います。ライターです。ですが、今日は先生の助手として、あなたに言付けを預かってきました。」
「言付け?先生?誰?先生って?」
「冬山祥吾です。」
その名前に彼女の表情が明らかに変わった。そして彼女はバッグの中から、手紙を取り出す。そして彼女に手渡した。
「こちらです。」
「ふふっ。変わってないわ。この鑞で封をされた手紙。開けた痕跡が残らないようにってしてたんでしょ?」
先ほどまでの不機嫌が嘘のようだ。機嫌良くその手紙を手にする。
「お元気かしら。祥吾さんは。」
「えぇ。」
「相変わらず痩せているのでしょうね。」
「先生とは、お知り合いですか?」
「えぇ。大学の時の……同級生だったの。私は演劇部。彼は文芸部。昔の恋人。」
やはりそんな関係だと思った。だが思ったよりショックは受けてない。
「懐かしいわ。でも今更何の言付けかしら。あなた、内容は聞いてないの?」
「何も。では、私は失礼します。このあと用事があるんで。」
ぞろぞろと出てきたスタッフたちに、春川は押されるように出口へ向かっていく。
「桂さん。先に譲二と竜之介のシーンを撮るそうです。」
スタッフの一人が彼に声をかけた。
「わかりました。でも、少し待って貰えますか?」
「えぇ。玲二さんも少し時間が欲しいと言ってきてるので。」
桂は外に出て行った春川を早足で追いかけた。そして彼女の背中が見える。もう車に乗り込もうとしていた。それを見て、彼は彼女の二の腕をつかんだ。
「啓治……。」
「会えたのに……黙って帰るのか?」
「いつでも会えるじゃない。」
彼は首を横に振る。
「いつでも会えないから、会えたときくらいキスがしたい。」
すると彼女は少し困った表情をした。しかし周りを見渡すと、非常階段を見つける。
彼女はそこへ足を進めて、ドアを開ける。そこへ桂も入っていった。上からは丸見えだが、横からは何も見えない。壁が視界を遮っているのだ。
ドアを閉めた瞬間、彼は彼女を抱きしめた。そして壁に彼女を押し当てると、息を切らせてキスをする。舌をのばし、それを舐めるように絡ませた。
水の音がして、そして唇が離れる。彼女は彼を抱きしめて、違和感を感じた。
「元気になってるわ。」
「若いから。」
「どうするの?」
「円周率でも数えるか。」
「バカね。」
彼も彼女の体に手を伸ばし、そして離れた。
「頑張ってね。」
「あぁ。」
軽くキスをすると、彼が先にその扉を開けて出て行った。
彼女は壁にもたれて、ため息を付く。普段はつけない整髪料の匂いがした。
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