セックスの価値

神崎

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 抱きしめるとキスをしたくなる。キスをすればその先もしたくなる。シャワーを浴びながら、桂はさっきまで腕の中にいた温もりを思い出していた。
 自分の体に包み込まれていた春川の温もりは、いくら抱いても抱き足りない。帰って行く春川を抱き寄せて、行かせたくなかった。
 しかしいずれ自分のものにする。
 帰るのは祥吾の元ではなく、自分の元に返ってきて欲しいと思う。
 自分を求める声、手の温もり、切ない表情を思い出すと、自分のものが起きあがってきた。
「……十代じゃあるまいし。」
 そう呟いたものの、もう固くなっているそれに手を伸ばす。しばらく現場の仕事もなかったし定期的に抜いているが、溜まっていたのかもしれない。
「春……。」
 切なく名前を呼ぶ。その声が彼女に届けばいいと思いながら。

 家に帰ってくると、もう新聞配達員が外を行き来していた。春川はそれを横目で見ながら、外の新聞受けには行っている新聞を取り出す。そして家の中に入っていった。
 まだ家の中は夜中のように暗い。自分の部屋にやってくると、電気をつけて荷物を置く。そして携帯電話を手にすると、祥吾の部屋へ向かった。
「祥吾さん。」
 部屋のドアからは光が漏れている。ずっと起きていたのだろうか。
「入りなさい。」
 ドアを開けると、彼は机のライトをつけて本を読んでいた。それは彼女が書いた「薔薇」というタイトルを付けた本。全面的に赤いバラの花を散りばめられた、女性向けのポルノ小説。
「携帯電話をお持ちしましたよ。」
「うん。」
 彼は眼鏡を外し、いすを回すと彼女の手からそれを受け取る。そしてその携帯の画面を見ると、少しため息を付いた。
「どうかしましたか。」
「昔なじみから連絡があると言っていたのだが、連絡がないようだ。忘れているのかもしれないな。フフ。もう私も歳だ。同じくらいの歳の人なら、昔のことなど忘れてしまうのかもしれないな。」
 そう言って彼は携帯電話を机に置く。
「忘れたいことがあるけれど、忘れられないこともあります。忘れられることは幸せなときもありますね。」
 思い出すことがある。それは昔のこと。しばらく忘れていたのに彼女にあったから思い出してしまったのだろうか。
「私が今、君の中から消してしまいたいことがあるのだが、それはわかるだろうか。」
「……さぁ、何でしょうか。」
 彼にも全ては話していない。話す理由もないのだ。
「桂さんのことだ。」
「桂さん?」
 どきりとした。彼の口から桂の名前が出ると思っていなかったから。
「彼はきっと君のことが好きなのだろうね。」
「……大それたことです。私は……。」
「あまり自分を卑下するものではない。自分の価値を下げてしまうよ。」
 いつか北川にも言われたことだ。自分を卑下することは、時に嫌みになると。
「……。」
「君は自分が思うよりも魅力的だ。きっと誰もが振り向く。その魅力に桂さんは射抜かれたのだよ。」
「……。」
 以前ならそんなことはありませんと否定しただろう。だがそれは嘘だ。何度も愛の言葉をささやかれ、何度も抱かれ、そのたびにとろけそうになる体を必死に保っていた。
 だけど幸せだった。
「春。」
「……はい。」
「どうしたんだ。ぼんやりして。」
「祥吾さん……私……。」
「君も彼の魅力に当てられたのかな。」
 首を横に振ろうとした。だが動かない。視線をそらせて、戸惑うのが精一杯だった。
「私は……。」
 その様子に祥吾はため息を付いて立ち上がる。そして彼女の側にやってきて、彼女の頬に手を触れた。
「春。君は私の妻だ。忘れないで欲しい。」
「えぇ。」
「春。こっちを見て。」
 頬に当てられたその手が顎に添えられた。そして上を向かされる。イヤでも彼から視線をはずすことが出来ない。
「……。」
「昔を思い出すよ。君にこうしてキスをした。覚えているかな。」
「はい。」
 あのころも彼は部屋に女性を呼ぶことが多かった。それでも小説家というのはそんなものなのだろうと、彼女は思っていたのだ。まぁ、それは今でも変わらないが。
 彼の視線が近づいてくる。
 心に桂がいる。なのにそれから離れることは出来ないのだ。唇が頬に触れる。柔らかくて、少し髭のざらっとした感触が伝わってきた。
「冷えているね。」
 唇が離れたあと、彼は彼女の手に触れてきた。その指には指輪がない。あの部屋に置いてきたのだという。一度離れたものをまたつけるのは億劫だと言っていた。だが本当にそうなのだろうか。
 春。君は桂と本当に繋がっていないのか。
 祥吾はそれを聞きたいのに、未だに聞けなかった。
「温めてあげよう。」
 彼女の腕を引き、彼は彼女を抱きしめた。そしてその首に巻かれているマフラーをほどく。
「や……寒いです。」
「温めてあげるから。」
 そしてその首筋に唇を這わせた。ぬめっとした感触がして、背中がぞくぞくした。
「んっ!」
 桂とは違う煙草の匂い。そして脱がそうとするジャンパーに掛けられた手。
「祥……吾さん……。」
 まだ妻だから。心は桂に向いていても、まだ妻なのだ。それに答えないといけないのだ。
 ジャンパーを脱がされて、そのセーターに手が伸びた。
「春。愛しているよ。」
 耳元でささやかれる言葉。そしてセーターの中に手が伸びて、その柔らかなところに触れようとしたときだった。
 机の上の携帯電話が鳴った。おそらく彼が待っていた人からの電話だろう。彼はため息を付き、そのセーターから手を引っ込めて、彼女から離れた。
「もしもし。」
 正直ほっとした。だがそこから離れるわけにはいかない。彼は少し厳しい表情で話をしていたが、電話を切ると机の上にまた携帯電話を置いた。
「……春。明日……イヤ、正確には今日か。言付けを頼みたい。」
 彼はそう言って、彼女に引き出しに入っていた手紙を手渡す。
「誰にですか?」
 ジャンパーを着直して、彼女はその手紙を受け取った。
「君が原作の映画を今撮っているだろう。」
「「薔薇」ですか?」
「その現場にいると思うが、牧原絹恵という女優だ。」
 絹恵の名前に、彼女は心の中でため息を付く。やはり。絹恵と祥吾は何か繋がりがあったのだと。
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