セックスの価値

神崎

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 春と呼ばれたあの声を、春川はよく覚えている。
 そしてあの目も、あの手も、彼女はよく知っている。あの明奈という女性は……自分の姉である浅海夏だった。
 五つ上の姉。彼女は十九歳の頃から彼女を知らなかった。もうすでにそのころよりも歳を取ってしまった。そして彼女も歳を取ったのだ。
 写真やテレビ越しでしか明奈の姿を見たことはなかった。似てるとは思ったが、あのとき父に組み敷かれたあの叫び声のようなあえぎ声とはまるで違う気がする。
 本当に明奈が夏だったのだろうか。そう思うと彼女の手が動いては止まり、また動いては止まる。集中できないために、彼女は家から仕事場に移動したのに、集中できないのはどの状況でも一緒だ。
 そのとき玄関のチャイムが鳴った。桂が来たのだろうか。彼女はソファから降りると、玄関へ向かう。そしてのぞき穴から向こうを見た。
 そこには和服の男性がいる。驚きのあまり彼女は声がでなかった。
「驚きました。」
 ドアを開けて彼女は開口一番そういった。
「春。君の仕事場に私が来てはいけないかな。」
 それは祥吾だった。彼は手にケーキの箱を握っている。最近できた深夜でもしているフランス菓子の専門店のケーキだった。
「いいえ。担当者は明日来ると言っていたので、今日来るのかと思って驚いたんです。それに……祥吾さんは外出が苦手だと仰っていましたから。」
 上着を受け取り、ハンガーに掛ける。すると彼はその部屋を見渡した。
「いい部屋だ。一人暮らしのようだが、食器は二セット。」
「一応秋野の名前も、春川の名前も既婚者です。二人で住んでいるようにしないとおかしいと思いました。」
「そうだね。君はそういうところも用意周到だ。」
 内心は焦っていた。桂にメッセージを送ったばかりだ。やっぱり来ないで何て言えるだろうか。随分会っていない。会いたい。会って抱かれたいと思っていたのに、今は祥吾が目の前にいる。
「お茶を入れましょう。美味しそうなケーキですね。」
「あぁ。評判が良いよ。都会にある職人を引き抜いたらしいね。」
 キッチンにたち、やかんに火をかける。その隙を見て、彼女は携帯にメッセージを入れようとした。相手は桂だ。しかしその後ろに気配を感じて、画面を消した。
「何?」
「誰にメッセージを?」
「担当です。今日は来ないでいただきたいと……。」
「だったらどうして私の前でメッセージを打たない?なぜこそこそするようなことをする?」
「別に隠してなど……。」
 すると祥吾は少しため息をはく。そして手を差し出した。
「なんですか?」
「携帯を出しなさい。」
「え?」
「こんな真似はしたくないんだよ。だが、君は少し前からどうも態度がおかしい。」
「……。」
「男でもできたのか?」
「いいえ。そんなものはおりません。」
「だったら携帯を出しなさい。」
 彼女はぐっと唇を噛むと、彼に携帯を差し出した。それはプライベートの携帯電話だった。
「パスワードは?」
「……誕生日ですよ。」
「だったね。」
 すらすらと迷うことなくそのパスワードを入れる。
 そして通話歴、メッセージをチェックした。特におかしなところはない。だがメッセージの中に、「桂」の名前があった。桂とはあのAV男優のことだろうか。彼と連絡を取ることがあるのか。
「桂さんとは連絡を取ることが?」
「ありますね。どうしても映画のことや、その世界のことを知りたいときに連絡を取ります。」
「それだけ?」
「それから……今度出張ホストの話を書くので、彼の後輩の中にはそういう仕事をしている人もいるので、お世話をしていただきました。」
「それだけ?」
「それだけです。」
「だったらどうしてプライベートの方の携帯を知っているのかな。」
「……それは……。」
 うまくごまかせたと思った。だが彼はその上をいっている。
「たまたまです。」
 背中を向けてお湯の沸いたやかんをポットに移す。
「手に取ったのがそれだったから。」
「だがこの携帯はあまり知られたくないといっていたじゃないか。」
「番号を変えるのが面倒なだけです。それに……この間は役に立ちましたから。」
「役に?」
「どうしても仕事用の携帯電話ではメッセージに上限があるので。」
 お茶を入れて、トレーに乗せる。
「お茶にしましょう。」
「春。」
 彼をよけて、ダイニングテーブルにお茶を置き、ケーキを皿に盛りつけた。彼女が好きなものをよく知っているケーキだ。オペラというチョコレートのケーキ、タルトには桃が使われている。
「どちらを食べますか?」
「春。話の途中だ。」
「……何を話しますか?」
 ダイニングテーブルを背に、彼女は彼の方を向く。すると彼は彼女の目を見る。まっすぐに見ている目。それは昔と変わらない。だがその視線の先は、きっと彼を見ていないのだ。
「どうして桂さんにその番号を教えているんだ。」
 彼女は少しため息を付くと、携帯を手にして彼に差し出す。
「消しますか?」
「消さなくてもいい。君と連絡を取っていて、いきなり連絡が取れなくなれば彼も不信に思うだろう。あくまで君は、私の助手という立場で紹介されているからね。」
「……。」
 すると彼女はその携帯電話のロックをとく。そして画像を映し出した。それは愛美が演技のレッスンスタジオで波子の役をしていた映像で、春川はそれを隠し撮りしていたものだった。
「それは?」
「「薔薇」の撮影を何度か見に行きました。それを見て長峰英子はおそらく波子の役を降ろされるだろうと予想していました。だったら代役は早い方がいい。そして愛美さんは野心のある方です。おそらく波子の役を練習しているだろうと思いました。」
「……それでこれを?」
「携帯の動画はどうしてもショートメールだけでは送れませんから。それでこの画像を桂さんに送りました。だから、結果的には彼にこの番号やアドレスを知られていて良かった。そう思ったんです。」
「全て……計算で?」
「そうなるだろうと思いましたよ。少なくとも、あの記者会見を見たときから。」
 それだけ彼女は計算していたのだろうか。それで桂に番号を教えていたのだろうか。彼をキャスティングしたときから。いいや。違う。
 彼女は初めて会ったと言っていたあの対談の時から、彼を信用していたように思える。だからこの番号を教えた。
「嫉妬しそうになるな。」
「すでに嫉妬してますよ。大丈夫です。私に彼が何かするとは思えません。」
「どうして?」
「前にも言いましたが、桂さんはとても人気のある方です。私には若さしかありません。そんな私に手を出すとはどうしても思えませんよ。」
 すると彼の頬が少しゆるんだ。さっきまで怒っていたようなそんな表情が少しゆるんだ気がする。
「君のその魅力を知っているのは私だけか?」
「私にもわかりませんよ。ずっと結婚されていなかった祥吾さんが、どうして私を選んだのか。」
「そんなことは君もわかっていると思ったんだがね。」
「どうしてですか?」
 彼の手が彼女の頬にふれた。そしてキスをするのではないかという暗い近くで、彼は彼女の耳元でささやいた。
「君を愛しているから。」
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