セックスの価値

神崎

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正直な気持ち

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 風呂から出て、洗面台にあるドライヤーで髪を乾かしていた春川は、違和感を覚えた。そこに長い髪が落ちていたのだ。明らかに彼女のモノではない。
 ぞっとした。
 彼女が居ない間に、彼はここを担当編集者に使わせていたのだ。ここを使うというのは、風呂を使うということだ。
 風呂を使うような行為。それをしているのだろう。
 だがふっと力が抜ける。わかっていたことじゃないか。彼はそうして精を抜いていたのだから。彼女には手を触れないが、他の女には手が早いのだ。それが彼なのだから。
 何を期待していたのだろう。
 彼女はその髪の毛をチリ箱に入れて、また髪を乾かし始めた。
 ドライヤーを止めると、部屋に戻ろうとしたそのときだった。祥吾の部屋から彼が出てくる。
「どうしました?」
「お茶でも飲もうかと思ってね。」
「淹れますから、どうぞ、待っててください。」
 あくまで自然に彼女はそう言うと、居間を通り過ぎて台所の方へ向かった。
 ポットにお湯はない。ヤカンに水を入れて、火をかける。
 急須に茶殻はない。夜も遅い時間だ。緑茶というわけにはいかないだろう。彼女は戸棚から、ほうじ茶を取り出してそれを急須の中に入れる。
 やがてお湯が沸き、彼の専用の湯飲みを用意した。
 ほうじ茶は緑茶ほど香りが高い訳じゃない。だがその変わった味が彼女は好きだと思う。ついでだから自分のも入れておこうと、彼女は湯飲みを用意して、自分の分のお茶も入れた。
 二つの湯飲みを用意して、彼女は祥吾の部屋へ向かった。
「お茶を用意しました。」
「どうぞ。」
 さっき来たときと同じ体勢だった。彼はこちらを見ずに、原稿用紙に向かっている。
「置いておきますね。」
 ローテーブルにそれを置くと、彼女はその場から離れようとした。そのときだった。
 彼は急に立ち上がると、彼女に近づいてきた。そして手に持っているお茶をテーブルに置くと、彼女を見下ろす。
「……どうしました?」
 すると彼は急に彼女の顎をあげると、唇を重ねてきた。激しく力強いキスだった。ザラッとした髭の感触が伝わってくる。
「ん……んんんん!」
 持っていたお盆が足下で転がる。思わず手を離してしまったのだ。
 唇を割り、舌を絡めてくる。彼女はそれに答えなければいけない。そうではないと全てが壊れる。だけどこのままでも心が壊れそうだ。
「祥吾さん。何?」
 やっと唇を離されて、開口一番彼女はそれを聞いた。しかし彼は何も言わずに彼女の手を引くと、ベッドに彼女を押し倒す。
 怖い。
 何もかもが怖いと思う。だけどこの人は自分の旦那だ。彼が求めるならそれに従わないといけない。それが妻のつとめだ。
「春。誰といた?」
「え?」
「食事でもした?そのあとセックスでもした?」
「どうしてですか?」
「他人の家の食事の味がした。君が作るものでも、幸さんが作るものでもない。」
 彼女は少し黙り、彼の目を見て言う。
「食事はしました。しかしセックスはしてません。」
「食事だけの関係か。」
「秘書の方と。」
「しかも女性?」
「えぇ。」
「和食屋さんか何かか?」
「はい。普段どんなモノを食べているのかと、一緒に食事を。」
 すると彼はすっとそこから体を避けた。
「……どうしました?」
 彼女は体を起こすと、ベッドに腰掛けている彼に声をかける。すると彼は少し笑っていた。
「疑心暗鬼になっていたようだ。」
「え?」
「君に男の影があると思っていた。君は若い。セックスもなしに、夫婦でいれるわけがないと思いこんでいたよ。」
「……祥吾さん。」
「お互い忙しすぎたね。話し合うことも、食事すら一緒にとることはない。」
 背中を向けたまま、彼は反省の言葉を口にする。その様子に彼女は彼の背中から彼を抱きしめた。
「祥吾さん。私は感謝しているんです。」
「私に?」
「えぇ。私は身寄りがありません。そんな私をここに置いていただいているだけで……感謝してますよ。」
「身寄りか……。」
 ぽつりと口に出し彼は少し黙り、そして再び口を開く。
「君は本当に子供が欲しいとは思っていないのか。」
 その言葉に彼女は彼から離れる。そして彼は彼女の方を見据えた。
「……えぇ。正直……居れば何か変わると思いますが……。」
 セックスを拒否していたのは、理由がある。彼が他の女としているだけではない。
 自分自身にも理由がある。
「父を思い出します。」
「父親を?」
「えぇ。」
 彼女はそれ以上何も言わなかった。
 セックスが怖いと思っていた。泣き叫ぶ姉の声が耳をつくから。でも今は違う。
 祥吾ではなく、桂に抱かれる自分がとても幸せだ。セックスの価値観が変わった夜のことを忘れることはない。
「君が……それをする度に震えていたのは、父親のこともあるのか。」
「はい。」
「なるほど……。」
 詳しくは語らない。だが祥吾はそれを感じたようだった。
「春。」
「はい?」
「優しく、抱いていいだろうか。」
 その言葉に彼女は少し黙って頷いた。それを合図に、彼は彼女の肩に手を触れようとした。
「あなたが望むのなら……そうなさってください。」
 手が止まる。
 今更抱かれたくない。他の女を抱いたその手で抱かれたくない。だから拒否のつもりで、彼女はそう言う。だがそれが裏目にでた。
 その手が彼女の肩を掴み、彼女を引き寄せると煙草の匂いがした。
「春。」
 ぐっと顎を捕まれた。震えているのは、怖いからじゃない。桂ではないからだ。
「誰にも渡したくはない。あの男にも誰にも。」
 あの男というのはきっと桂のことだ。桂との仲をやはり疑っている。それがわかって彼女はさっと視線をそらせた。
「あの男?」
「言わせるのか?それとも言いたいのか?」
 そう言って彼は彼女の唇に唇を重ねる。後ろ頭を捕まれて、先ほどとは全く違う、優しいキスをする。
 それでも彼女の頭から、桂を忘れることはない。こうされていても、彼を少しでも感じようと目を閉じた。
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