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嫉妬
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いつものスーツにダウンのコートを羽織った。真空パックしていたダウンのコートは、スーツよりもやや薄い紺色だった。ダウンは真空パックすればぺちゃんこになって保管に便利だが、継ぎ目からはやや羽が出てきている。五年もたてばそんなものだろう。清子はそう思いながら家を出た。
アパートは変えていなかった。変えることも出来るのだが、史がそれを止めた。自分しか知らない場所だという事実に、優越感を持っているのかどうかはわからない。ただ史がここに来ることはあまりなかった。あれからいろんなことがあったからだ。
冬山祥吾の名前を意識して、ウェブ上での検索をかけてみる。七年前ほどから、祥吾はメディアに出ることがあまりなくなった。七年前といえば、清子が十八。そのころは失敗しながらも、勉強し、何とか派遣先に食らいついていた頃だった。そのころは「この人は使えないから、別の人をよこしてくれ」と言われたこともある。悔しくて、講習会や勉強会に足繁く通い、稼いだお金はほとんどそれにつぎ込まれたり、パソコンを買う費用になったので手元にはほとんど残らなかった。
スーパーで半額の野菜や、三割引の肉を使って餓えをしのいでいた時期だったと思う。そのころから昼食を抜くようになった。今では食べない方が自然だ。
電車に乗り込むと、メッセージが一件届いた。それをチェックすると、派遣会社からだった。今の「三島出版」との契約は来年の三月いっぱいまで。それから先の次の派遣先のリンク先が乗っている。開いてみると、やはり前から言われていたこの街ではなく、この街の先にある街で自動車の部品を造る工場だった。そこの事務職で、ウェブの管理とデジタルの移行を依頼された。あまりデジタル思考ではないらしい。
そう言うところは案外面倒だ。今までの手書きの方が早いからと、意固地になっている事務員が多い。それを説得するのも清子の仕事なのだ。
やがて駅に着くと、昨日まで無かった巨大なクリスマスツリーが駅の前にある。それを見上げていると、どうやら浮かれた気分になるらしい。周りを見れば、確かにカップルが多い気がする。クリスマスなんてこんな日ではないはずなのにと思いながら、清子は会社の方へ向かっていった。
会社の前につくと、思ったよりも早く着いてしまったらしい。ふと見ると、いつも昼頃になればビジネスマンを相手に並んでいる弁当を売っている屋台が、もう開いていた。どうやらこの時期だけ朝から開いているらしい。朝食は取ってきたが、たまには外のコーヒーを飲みたいと清子は公園へ足を向ける。
公園にはいると、ふわんとコーヒーのいい匂いがした。どこの屋台だろう。足を進めると、一台のキッチンカーがあった。その側にはパンやお菓子も並べられ、朝食を取ってこなかった人にはちょうど良いかもしれない。
だが単価が安い。パンは小ぶりとはいえ、一つ百円はないだろうと思っていた。コーヒーは三百円。豆から挽いていることを考えれば、安いものだ。
「いらっしゃい。」
人の良さそうなガタいのいい中年男性が出てきた。珈琲屋というよりはどこかのスポーツ選手のように見える。
「コーヒーをください。」
「はい。コーヒーは三百円ですよ。」
お金を先に支払うと、男はコーヒー豆をガラス瓶からすくってミルの中に入れた。そのとき清子は後ろから声をかけられた。
「徳成。」
馴染みのある声だった。振り向くとそこには我孫子の姿があった。
「我孫子さん。おはようございます。」
「おう。おはよう。こんなところでコーヒー買ってんのか。」
「えぇ。少し時間があったので。」
「東二。俺にもコーヒーくれよ。それからパンな。」
そう言って我孫子は無造作に、前に置いてあったパンを手にする。
「兄貴は四百円ね。」
「せこいな。今日の行き先で宣伝してやるから、パン代くらいまけろよ。」
「あんたの方がせこいから。」
親しい仲らしい。好きなことをいって笑っていた。
「我孫子さん。あの……知り合いですか?」
「ん?こいつは俺の弟。」
弟と聞いて清子は二人を見比べた。だがひょろひょろな我孫子と、がっちりした弟とはあまり似ていない。
「あまり似ていないって顔をしているな。」
「えぇ。」
「それでも三つしか離れてねぇんだ。仕事辞めて珈琲屋したいっていったときは、とち狂ってんのかと思ったけどまぁ、お前は形だけは一人だし別に良いけどな。」
独身なのか。別にどうでもいい。清子はそう思いながら二人を見ていた。
「お嬢さんは、兄貴の恋人かな。」
東二と言われた弟は、弾き終わったコーヒー豆をフィルターにセットして意地悪そうに聞いた。
「違います。」
激しく首を横に振って清子が否定するのを見て、我孫子は苦笑いをしながらいう。
「お前、そんなに否定すんな。本当に何かあったのかって思われるぞ。」
「奥さんが居るような人を恋人にはしませんから。」
その言葉に東二は少し笑いながら、コーヒーを入れていく。コーヒーの香りがふわんと広がるようだった。
「いい香り。」
「それにしても……徳成はなんかあれだな。春頃に比べるとすげぇ女っぽくなったというか。胸も尻もでかくなったな。」
「は?セクハラですか?」
「そんなんじゃねぇよ。」
その言葉に東二は、少し笑いながら言う。
「十分セクハラっぽい発言だな。兄貴。」
「そうでもねぇよ。最近はそういうことに厳し過ぎなんだよ。お前の前の職場でも言ってただろう?」
「俺の前の職場では、日常だったけどな。」
入れ終わったコーヒーを紙コップに移してプラスチックの蓋をすると、先に清子に手渡す。そしてその後に我孫子にも手渡した。
「女の子は、本数を重ねるとどんどんすれてくるからな。」
「は?」
すると東二は恥ずかしそうにしたまま黙っていた。すると我孫子が口を挟む。
「お前のところの職場なら知ってんじゃねぇかな。AV男優の夕って言えば。」
「あぁ……編集長から聞いたことがあります。」
「それが、うちの弟。」
「は?」
改めて顔を見る。するとやはり見覚えがあると思ったのは気のせいではなかった。三十年間現役でAV男優のトップに君臨していた夕がまさか我孫子の弟だと思ってなかったからだ。
「その話題大丈夫?」
東二は心配そうに聞くと、清子は首を振って言う。
「あ、今そういう職場なので気にしません。」
「なるほどね。だから表情一つ変えなかったわけだ。」
柔らかそうな雰囲気も、長い指の短い爪も、鍛えられた体も、おそらくそのためなのだ。
「出版社なの?」
「はい。「pink倶楽部」という雑誌で、ホームページを作ってます。」
「あぁ。昌樹君のところか。なかなかいい雑誌だね。特に昌樹君のコラムは面白い。」
「ありがとうございます。ホームページにも編集長の別件のコラム載せてますから、是非。」
「あぁ。今度拝見するよ。」
清子はそう言ってそのキッチンカーを離れた。そして東二は、我孫子に聞く。
「兄貴はどうしてここにいるんだ。大学は?」
「依頼が来たのよ。やっぱくい止められなかったウィルス感染した企業が、助けを求めにきた。」
「ウィルス対策にかけた金の方が、かかったウィルスを対処するよりも金がかかるだろうに。」
「あぁ。「三島出版」も徳成が居なきゃ、そうなってたな。」
だが先ほどちらっとみた「三島出版」は相変わらず騒がしい。芸能人なんかのゴシップを追っているのだろう。それとも政治家の汚職か。
あんな中に清子がいるのは、お門違いだ。それでも仕事だと割り切っているのだろう。
男でもいれば違うのだろうが、一年後には違う職場にいる。そんな一時の恋をする女ではない。きっと言い寄る人を相変わらず袖にしているのだ。罪づくりな女だと思う。
アパートは変えていなかった。変えることも出来るのだが、史がそれを止めた。自分しか知らない場所だという事実に、優越感を持っているのかどうかはわからない。ただ史がここに来ることはあまりなかった。あれからいろんなことがあったからだ。
冬山祥吾の名前を意識して、ウェブ上での検索をかけてみる。七年前ほどから、祥吾はメディアに出ることがあまりなくなった。七年前といえば、清子が十八。そのころは失敗しながらも、勉強し、何とか派遣先に食らいついていた頃だった。そのころは「この人は使えないから、別の人をよこしてくれ」と言われたこともある。悔しくて、講習会や勉強会に足繁く通い、稼いだお金はほとんどそれにつぎ込まれたり、パソコンを買う費用になったので手元にはほとんど残らなかった。
スーパーで半額の野菜や、三割引の肉を使って餓えをしのいでいた時期だったと思う。そのころから昼食を抜くようになった。今では食べない方が自然だ。
電車に乗り込むと、メッセージが一件届いた。それをチェックすると、派遣会社からだった。今の「三島出版」との契約は来年の三月いっぱいまで。それから先の次の派遣先のリンク先が乗っている。開いてみると、やはり前から言われていたこの街ではなく、この街の先にある街で自動車の部品を造る工場だった。そこの事務職で、ウェブの管理とデジタルの移行を依頼された。あまりデジタル思考ではないらしい。
そう言うところは案外面倒だ。今までの手書きの方が早いからと、意固地になっている事務員が多い。それを説得するのも清子の仕事なのだ。
やがて駅に着くと、昨日まで無かった巨大なクリスマスツリーが駅の前にある。それを見上げていると、どうやら浮かれた気分になるらしい。周りを見れば、確かにカップルが多い気がする。クリスマスなんてこんな日ではないはずなのにと思いながら、清子は会社の方へ向かっていった。
会社の前につくと、思ったよりも早く着いてしまったらしい。ふと見ると、いつも昼頃になればビジネスマンを相手に並んでいる弁当を売っている屋台が、もう開いていた。どうやらこの時期だけ朝から開いているらしい。朝食は取ってきたが、たまには外のコーヒーを飲みたいと清子は公園へ足を向ける。
公園にはいると、ふわんとコーヒーのいい匂いがした。どこの屋台だろう。足を進めると、一台のキッチンカーがあった。その側にはパンやお菓子も並べられ、朝食を取ってこなかった人にはちょうど良いかもしれない。
だが単価が安い。パンは小ぶりとはいえ、一つ百円はないだろうと思っていた。コーヒーは三百円。豆から挽いていることを考えれば、安いものだ。
「いらっしゃい。」
人の良さそうなガタいのいい中年男性が出てきた。珈琲屋というよりはどこかのスポーツ選手のように見える。
「コーヒーをください。」
「はい。コーヒーは三百円ですよ。」
お金を先に支払うと、男はコーヒー豆をガラス瓶からすくってミルの中に入れた。そのとき清子は後ろから声をかけられた。
「徳成。」
馴染みのある声だった。振り向くとそこには我孫子の姿があった。
「我孫子さん。おはようございます。」
「おう。おはよう。こんなところでコーヒー買ってんのか。」
「えぇ。少し時間があったので。」
「東二。俺にもコーヒーくれよ。それからパンな。」
そう言って我孫子は無造作に、前に置いてあったパンを手にする。
「兄貴は四百円ね。」
「せこいな。今日の行き先で宣伝してやるから、パン代くらいまけろよ。」
「あんたの方がせこいから。」
親しい仲らしい。好きなことをいって笑っていた。
「我孫子さん。あの……知り合いですか?」
「ん?こいつは俺の弟。」
弟と聞いて清子は二人を見比べた。だがひょろひょろな我孫子と、がっちりした弟とはあまり似ていない。
「あまり似ていないって顔をしているな。」
「えぇ。」
「それでも三つしか離れてねぇんだ。仕事辞めて珈琲屋したいっていったときは、とち狂ってんのかと思ったけどまぁ、お前は形だけは一人だし別に良いけどな。」
独身なのか。別にどうでもいい。清子はそう思いながら二人を見ていた。
「お嬢さんは、兄貴の恋人かな。」
東二と言われた弟は、弾き終わったコーヒー豆をフィルターにセットして意地悪そうに聞いた。
「違います。」
激しく首を横に振って清子が否定するのを見て、我孫子は苦笑いをしながらいう。
「お前、そんなに否定すんな。本当に何かあったのかって思われるぞ。」
「奥さんが居るような人を恋人にはしませんから。」
その言葉に東二は少し笑いながら、コーヒーを入れていく。コーヒーの香りがふわんと広がるようだった。
「いい香り。」
「それにしても……徳成はなんかあれだな。春頃に比べるとすげぇ女っぽくなったというか。胸も尻もでかくなったな。」
「は?セクハラですか?」
「そんなんじゃねぇよ。」
その言葉に東二は、少し笑いながら言う。
「十分セクハラっぽい発言だな。兄貴。」
「そうでもねぇよ。最近はそういうことに厳し過ぎなんだよ。お前の前の職場でも言ってただろう?」
「俺の前の職場では、日常だったけどな。」
入れ終わったコーヒーを紙コップに移してプラスチックの蓋をすると、先に清子に手渡す。そしてその後に我孫子にも手渡した。
「女の子は、本数を重ねるとどんどんすれてくるからな。」
「は?」
すると東二は恥ずかしそうにしたまま黙っていた。すると我孫子が口を挟む。
「お前のところの職場なら知ってんじゃねぇかな。AV男優の夕って言えば。」
「あぁ……編集長から聞いたことがあります。」
「それが、うちの弟。」
「は?」
改めて顔を見る。するとやはり見覚えがあると思ったのは気のせいではなかった。三十年間現役でAV男優のトップに君臨していた夕がまさか我孫子の弟だと思ってなかったからだ。
「その話題大丈夫?」
東二は心配そうに聞くと、清子は首を振って言う。
「あ、今そういう職場なので気にしません。」
「なるほどね。だから表情一つ変えなかったわけだ。」
柔らかそうな雰囲気も、長い指の短い爪も、鍛えられた体も、おそらくそのためなのだ。
「出版社なの?」
「はい。「pink倶楽部」という雑誌で、ホームページを作ってます。」
「あぁ。昌樹君のところか。なかなかいい雑誌だね。特に昌樹君のコラムは面白い。」
「ありがとうございます。ホームページにも編集長の別件のコラム載せてますから、是非。」
「あぁ。今度拝見するよ。」
清子はそう言ってそのキッチンカーを離れた。そして東二は、我孫子に聞く。
「兄貴はどうしてここにいるんだ。大学は?」
「依頼が来たのよ。やっぱくい止められなかったウィルス感染した企業が、助けを求めにきた。」
「ウィルス対策にかけた金の方が、かかったウィルスを対処するよりも金がかかるだろうに。」
「あぁ。「三島出版」も徳成が居なきゃ、そうなってたな。」
だが先ほどちらっとみた「三島出版」は相変わらず騒がしい。芸能人なんかのゴシップを追っているのだろう。それとも政治家の汚職か。
あんな中に清子がいるのは、お門違いだ。それでも仕事だと割り切っているのだろう。
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