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第四幕 よみがえりのノクターン

42.サヨナラを言えないまま

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「花音……」

 5年前とほとんど変わっていなかった。
 ちょっとだけ髪の色が明るくなったのと、薄い化粧をしていたけど、あの頃とまったく同じ笑顔が眩しいくらいに輝いていた。

「やっぱり君の音はいつ聞いても綺麗だよ」
 
「ありがとう。でもどうして花音がここに?」

 当然浮かぶ疑問。
 花音はわずかに戸惑いを見せたが、大きな目を細くして答えた。

「君のお母さんにね。頼まれたんだよ」

『母』という言葉を耳にしたとたんに、ドクンと心臓が脈打つ。
 僕は震える声でたずねた。

「どういうこと?」

「凛之助が一人で前に進めるようになるまででいいから、あなたに支えてほしいって」

「そうか……。そういうことだったのか……」

 ――もうあなたの人生にかかわることはないでしょう。

 あれもウソだったというわけだ。
 つまり母ははじめから僕が真剣にピアノの稽古に励むように、あえて彼女を僕から遠ざけたということだ。
 僕はまんまと母の作戦にはまり、ピアノに没頭した。
 そして自分の命の火が消えかかっていると知るや、再び花音を僕のそばに送り込んだ――。
 どんな反応をしてよいか、分からなかった。
 自然と顔が伏せていく。

「凛之助くん。大丈夫?」

「大丈夫なわけないだろ……。二人して僕をだまして……」

 口をついて出てくる毒々しい声。
 でも花音は顔色を変えず、ゆっくりと窓の方へ近づいてきた。

「私ね。断ったんだよ。君のお母さんの頼み」

 意外な言葉にはっとなって花音を見た。
 彼女は少しだけ頬を赤らめながら続けた。

「君のお母さんは素直に私の言葉を受け入れてくれた。そしてこう言ったの。『あなたがどうしたいか、その答えに従ってくれればいいわ』とね」

 花音はついに窓のすぐそばまでやってくると、サッシに手をかけた。
 僕は椅子から立ち上がる。

「花音はどんな答えを出したんだ?」

「今ここに立っている――それが答え、じゃダメかな?」

 一歩また一歩と窓の方へ寄っていき、ついに花音の目の前に立った。
 しかし死んだはずの母にずっと見張られているようで、まだ迷っていた。
 そんな僕に彼女はさらりと問いかけたのだった。


「凛之助くん。君はどうしたい?」


 その一言は、あらゆる悩みを吹き飛ばし、僕の荒れた心を救い出してくれた。だから僕はとても純粋な気持ちを吐露したのだ。


「僕は花音にピアノを聞いてほしい。これから先もずっと」

 
 そう言い終えた直後。
 僕は自分の唇と花音の唇を重ねた。
 彼女の頬に一筋の涙が伝っているのが目に入り、僕はゆっくりと彼女から離れてその涙を親指で拭った。

 それから1年後。
 母の喪があけたのを見計らって、僕らは家族になった。
 母の敷いたレールに乗ったままでいたくなかった僕は、パリの学校を辞め、花音とともに東京の賃貸マンションに越した。さらにお世話になっていた音楽事務所とのマネジメント契約も破棄した。
 これからは自分で敷いたレールの上を走っていこう。花音とともに。
 そう決意したんだよ。

 そうしてオーストリアの公演という、初めて大きな仕事が舞い込んできた。
 花音もすごく喜んでくれてね。
 僕自身浮かれていた。
 取り立ての免許を財布に入れて、空港まで車で行くことにした。
 とても霧が濃い朝だったのを覚えている。
 国道の交差点。信号は青だった。
 何の疑いもなく直進したところで、左手から大きなトラックが突っ込んできた――。

 それ以降のことは、あまり覚えていないよ。
 ただね。
 僕は大切な家族に、またサヨナラを言えないままお別れしたことだけは、心に深い傷となって刻まれたんだ――。
 
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