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第四幕 よみがえりのノクターン

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◇◇

 花音が去った日の夜。
 仕事から帰ってきた母は、花音が家に入ったことをすぐに覚《さと》ったよ。
 濡れたタオル。動かされた椅子。そして何よりも泣きはらした僕の顔。
 激怒されるかと思ったけど、違っていた。彼女は苦々しい顔つきで、吐き捨てるようにつぶやいたのだ。

「あの子……。約束を破ったのね……」

 大きく目を見開いた僕に母さんはぶっきらぼうに続けた。

「時々、あなたが一人で練習しているのを見に行ってほしいと頼んだのよ。あなたがサボっていないかチェックするためにね。その際に二つ約束させたの。『部屋に入ってはならない。凛之助とは余計な話をしない』とね」

「うそだ……。そんな……」

 震えて動けないでいる僕に母は花音とのいきさつを話し始めた。

「花音は児童養護施設の出身なの。元々酷い虐待を受けていたそうよ。新たな里親に預けられたのは小学生になってから。ふさぎ込んでいた彼女に少しでも生きがいを見つけてもらおうと、里親のすすめで始めたのがピアノだったの」

 それは僕の知らない花音だった。
 母との言いつけを健気に守っていたから、話してくれなかったのか。
 それとも僕には話したくなかったのか。
 理由は分からない。それでも彼女のことを思うと、涙が止まらなかった。
 でも母は淡々とした口調で続けたんだ。

「ピアノの才能なんてまったくなかった。けどすごく熱心な子だったの。誰かに認められたくて必死なんだと、私はすぐに見抜いたわ。だからあなたのことを頼んだ。私の思った通りに、彼女は嫌な顔をするどころか、すごく喜んでくれたわ」

「母さんは……母さんは彼女の弱みを利用したのか……」

「利用した? ふふ。人聞きの悪いこと言わないでちょうだい。彼女が望んでしたことよ。でも最後の最後で裏切るなんてね。まあ、東京で働くことになったらしいし、もうあなたの人生にかかわることはないでしょう。だから許してあげる。あなたも彼女のことを忘れなさい。いいわね」

「ふざけんな!!」

 僕が母に対して、怒りをむき出しにしたのは、この時が初めてだった。
 あの時、母の瞳が凍えるようだったのを今でもはっきり覚えている。

「別にふざけてないけど? あなた、まさかあの子に惚れたの? ふふ。やめておきなさい。半人前のくせして色恋なんて……恥を知りなさい」

「母さんには関係ないだろ!!」

「関係ない? 凛之助! ふざけているのはあなたの方でしょ!! たかだか小娘ひとり失ったからって、我を忘れて親に反抗するなんて。そんな弱っちいメンタルで、日本一のピアニストになれると思っているの?」

 その瞬間、僕の中で何かが音を立ててキレた。
 大股で母の横を通り過ぎ、傘も持たずに玄関を出ようとする。
 しかし僕がドアを開けようとした瞬間に、母の冷ややかな声が聞こえてきた。

「まさかあの子に会いにいこう、なんて考えているわけじゃないわよね?」

「……」

「連絡先は知っているの?」

「……知らない」

「ピアノ教室に行って、住所を調べようとでも思った? 残念だけど、とっくの前に教室を辞めてるから、彼女に関する情報はすべて破棄したわ。学校に問い合わせても無駄よ。明確な理由もなく教えてくれるわけないもの」

 すべては母の思い通りというわけか……。
 僕は絶望の深淵に突き落とされた。
 目の前が真っ暗になり、耳鳴りが激しくなる。立っているのも怪しいくらいに、ぐわんぐわんと脳を揺らされている気分だった。
 ところがその時――。

 ――君は誰のものでもない。君自身のものだよ。さあ、勇気を出して。

 花音の声が脳裏に響き渡り、個々の中に一筋の光が射しこんできたのだ。
 自然とわき上がる熱い思いが口をついて出てきた。

「……なってやる……」

「はあ? なに? 全然聞こえないんだけど?」

「日本一のピアニストになってやる!! そしたらこの家を出て、僕は……僕は花音に会いにいく!!」

 この時から僕は一心不乱にピアノと向き合った。
 寝る間も惜しんで、という言葉通りに、睡眠時間なんて日に2時間もあればいい方だったよ。
 母に言いつけられるまでもなく自分で課題を見つけ、次のコンクールに勝つことだけに集中した。

 それでも花音のことを忘れた時は、ひと時もなかった。
 写真のひとつもないから、僕は彼女の笑顔を頭に焼き付けた。いつだって彼女を感じながら、彼女のためにメロディーを奏でた。

 高校を出た後は、母の言う通りにパリにある音楽大学に通い始めた。
 大学は全寮制で、「一人前になるまではこっちへ帰ってくるな!」という母の言いつけを守り、年末年始すら日本へ帰らず音楽に没頭した。
 大学卒業後はプロになることが決まっていて、大手の音楽事務所とマネジメント契約が結ばれていた。CDやDVDもいくつか発売され、収入を少なからず得るようになったのもこの頃からだ。
 すべて母の手はずによるもの。
 でも僕は名声もお金もいらなかった。
 ただ欲しいのは花音。彼女だけだったんだ。

 19歳の秋。
 僕はついに大きなコンクールを総なめにした。これで『日本一のピアニスト』と胸を張れる。だから花音に会いに行こう――そう決心した。
 しかしその表彰式の真っ最中だった。
 驚くべき悲報を耳にしたのは。

 母が、死んだ――。
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