上 下
113 / 114
第二部 起死回生

坂東決戦……血洗島の戦い⑦

しおりを挟む
◇◇

 北条氏康らが夜襲に動き出した頃。
 雄大な利根川に浮かんでいた何艘もの舟がゆっくりと動き始めていた。
 川の流れに任せ、ゆらりゆらりと東へ進んでいる。
 そのうちの一艘に宇佐美定龍の姿があった。
 見れば彼の横には小島弥太郎と、上杉憲政もいる。
 

「どうやら上手くいったようだな」


 弥太郎が声をかけると、定龍は小さく微笑んだ。
 そう……。
 夜襲を察知していた彼らは敵に気づかれぬように、あらかじめ用意させておいた舟で軍勢を動かしたのである。
 このまま下流へと進み、小山川との合流する手前で下りた後、謙信のいる上杉軍の方へと陸路で進むことにしたのだった。
 
 定龍は空を見上げた。
 遮るものは何もない。
 満天の星空だ。
 その一つ一つに、彼はこの戦で死んでいった者たちの顔を重ねていた。
 
 その中でもひときわ強い輝きを放つ星に、本庄実乃を重ねると、彼の大きなだみ声が脳裏をよぎった。
 
――ではこの戦が終わった後、その新たな命をこの腕で有り難く抱くとしようかのう! そして死んでいった者たちの目にも入るように、高々と掲げてやるのだ! お主らが作った命であるぞ、と! がははっ!!


 定龍の心にぽっと火がともる。
 
 
「実乃殿……。そのお役目。不肖ながら、この宇佐美定龍めにお任せくだされ」


 今、彼がここにあるのは、決して彼の力だけのものではない。
 彼を生かそうと、そして上杉を助けようと、戦場に散っていった多くの人々の命によるものなのだ。
 そうして越後で生まれた新たな命を、今度は残された者たちで命を懸けて守っていこう。
 定龍の中で芽生えた使命感は、勝利への渇望へと変わっていった。
 
 
「絶対に負けませぬ。天から見ててくだされ」


 定龍の瞳が今宵の星のように輝きを宿した。
 そうして舟を下りた彼は、二千の兵と上杉憲政を残し、弥太郎とともに謙信のいる最前線へと急いだのだった。
 
 
………
……

 北条軍の先鋒隊が利根川の河原にたどりついた後、まず目に飛び込んできたのは、脱ぎ捨てられた甲冑だった。
 それを見て北条兵たちは、みな自然と口角を上げた。
 なぜなら上杉兵たちは完全に油断し、甲冑を脱いで寝静まっていると思ったからだ。

 暗闇の中なので、先まで見通せない。そのため、どこで上杉兵たちが眠りについているのかは分からないが、きっと石が転がっている河原から少し離れた、柔らかな土のある場所で寝ているのだろう。
 その辺りは草の背丈もあるため、近くまで寄らないと分からない。
 しかし、北条軍の狙いは、中州にある上杉憲政の本陣だけだ。だからわざわざ危険をおかしてまでして、上杉兵の居所をつかもうとはしなかった。
 さらに言えば、憲政の本陣も灯りが消され、ひっそりとしている上に、見回りの兵も見当たらない。
 
 
「策は成ったな」


 誰からともなくつぶやく声が聞こえたが、目の前に広がる光景を見れば、誰の口から出てきてもおかしくない。
 しばらくたった後、最後尾にいた北条氏康が陣頭に姿を現した。
 彼は先鋒隊の大将、上田朝直と伊勢貞運の二人の肩に手をあてて耳打ちした。
 

「では、行くぞ」


 すでに川の浅い場所は風魔の忍に調べさせてある。
 川べりに松田憲秀の軍団を残し、先導役の忍の後を北条本隊、上田隊と伊勢隊が続いた。
 そして、いよいよ本陣を兵で囲い終えると、氏康が雷鳴のごとき大声で号令を飛ばしたのだった。
 
 
「憲政殿!! 既にお主は囲まれた!! 大人しく降参するがよい!!」


 しかし……。
 幕の内からは何の反応もない。
 氏康は眉を潜めた。
 なんとも言いようのない、もやっとしたものが胸の内を覆い始めてきたのを、彼は感じていた。
 
 
――河越夜戦のように上手くいくかのう……?

 
 幻庵のしゃがれた声がやまびこのように脳裏に何度も響く。
 それを振り払うかのように、もう一度大声を上げた。
 
 
「早く出てこい!! でなければこちらから乗り込む!!」


 だが物音一つ聞こえてこないではないか。
 ますます募る不安。
 そうして完全に心が闇で覆われたその瞬間……。
 
 
「まさか……」


 その闇から浮かび上がってきたのは……。
 
 たった一度だけ目にした宇佐美定龍だった――。
 
――バッ!

 勢い良く幕を開けて、刀を構えながら憲政の陣に入っていく。
 しかし、そこはすでにもぬけの殻であった。
 この時、彼はようやく気付いたのだ……。
 
 
「我が策……。やぶれる……」


 と――。
 
 
………
……

――夜襲に備え、いつでも兵を動かせるようにしておいてくだされ。


 血洗島に本陣を構えた後、宇佐美定龍の忍から告げられた伝言を、上杉謙信はしっかりと守っていた。
 兵たちは傷つき、疲労も限界を超えているはずだ。
 しかし、彼らの士気はまったく衰えていなかったし、休めぬ状況でも嘆いたり不満を漏らす者は誰一人としていなかった。
 なぜなら彼らは知っていたからだ。
 
 その策は『越後の星』宇佐美定龍によるものだと。
 つまり彼らは謙信と定龍の二人こそ、上杉を勝利に導くと信じ切っていたのであった。
 
 こうして夜は更けていった――。
 
 本陣の中で、鬼のような形相で腕を組み、時を待つ謙信。
 ……と、そこに幕の外から小さな声が聞こえてきた。
 
 
「宇佐美定龍様が着陣いたしました」


 謙信の目が薄く開けられる。
 酒も入っていないのに、頬がかすかに赤みを帯びてきた。
 そして一度だけ大きく息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
 
 
「ここに呼べ」

「はっ」


 人の気配が消える。
 それも束の間、再び声が聞こえてきた。
 
 
「宇佐美定龍にございます」

「入れ」

「はっ」


 流れるような会話の後、すっと幕が上がった。
 そして中に入ってきたのは、泥だらけの甲冑を着た定龍だった。
 謙信の瞳から一筋の涙が流れてきたのを、彼自身も気付いていないに違いない。
 それを見た定龍の瞳からも大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
 
 たかが半月ぶりの再会。
 されど半月ぶりの再会。
 
 二人の涙が空白の時間をすべて物語っていたと言えよう。
 互いに声も出さず、ただ感情がしずまるのを待った。
 
 しばらくした後、先に口を開いたのは定龍だった。
 彼はごくりと唾を飲み込むと、震えそうになる声をおさえて告げた。
 
 
「出陣の時でございます」


 謙信は静かに目を閉じた。
 そして一度、二度と深呼吸をした後、低い声で答えたのだった。
 
 
「旗を持て」

「はっ!」


 定龍は短く返事をすると幕の外にでた。
 既にその時を予感してか、柿崎景家以下、上杉家の諸将が顔を揃えている。
 定龍は彼らに向かって、力強い声で号令をかけた。
 
 
「時はきました! 今こそ戦場に散っていった仲間たちの無念を晴らす! 皆の者! 出陣!!」

「おおっ!!」


 夜襲をかけてきた相手に夜襲をかける……。
 
 前代未聞の策がついに始まろうとしていたのだった――
 
 
 
 


しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

近江の轍

藤瀬 慶久
歴史・時代
全ては楽市楽座から始まった――― 『経済は一流、政治は三流』と言われる日本 世界有数の経済大国の礎を築いた商人達 その戦いの歴史を描いた一大叙事詩 『皆の暮らしを豊かにしたい』 信長・秀吉・家康の天下取りの傍らで、理想を抱いて歩き出した男がいた その名は西川甚左衛門 彼が残した足跡は、現在(いま)の日本に一体何をもたらしたのか ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載しています

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

トノサマニンジャ 外伝 『剣客 原口源左衛門』

原口源太郎
歴史・時代
御前試合で相手の腕を折った山本道場の師範代原口源左衛門は、浪人の身となり仕官の道を探して美濃の地へ流れてきた。資金は尽き、その地で仕官できなければ刀を捨てる覚悟であった。そこで源左衛門は不思議な感覚に出会う。影風流の使い手である源左衛門は人の気配に敏感であったが、近くに誰かがいて見られているはずなのに、それが何者なのか全くつかめないのである。そのような感覚は初めてであった。

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

鬼嫁物語

楠乃小玉
歴史・時代
織田信長家臣筆頭である佐久間信盛の弟、佐久間左京亮(さきょうのすけ)。 自由奔放な兄に加え、きっつい嫁に振り回され、 フラフラになりながらも必死に生き延びようとする彼にはたして 未来はあるのか?

満州国馬賊討伐飛行隊

ゆみすけ
歴史・時代
 満州国は、日本が作った対ソ連の干渉となる国であった。 未開の不毛の地であった。 無法の馬賊どもが闊歩する草原が広がる地だ。 そこに、農業開発開墾団が入植してくる。 とうぜん、馬賊と激しい勢力争いとなる。 馬賊は機動性を武器に、なかなか殲滅できなかった。 それで、入植者保護のため満州政府が宗主国である日本国へ馬賊討伐を要請したのである。 それに答えたのが馬賊専門の討伐飛行隊である。 

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

処理中です...