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第二部 起死回生
三軍暴骨……関東進出戦⑪
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◇◇
「定龍殿か!? どうしてかようなところに? 御屋形様のそばにいたのではないのか!?」
と、目を丸くして宇佐美定龍と顔を合わせたのは、上杉軍でも後方を任された加地春綱であった。
全軍突撃の号令が謙信から下されたとはいえ、攻め手は限られており、加地春綱や鮎川清長といった軍勢は、謙信の背後や荷駄隊の河田長親を守る役目を担っている。
つまり激しい戦闘には巻き込まれておらず、こうして定龍と落ち着いて顔を合わせられるという訳である。
定龍は加地春綱の問いかけに答えることなく、きゅっと表情を引き締めて、彼がさらに驚くべきことを告げたのだった。
「この戦は必ずや負け戦となります。ついては加地殿に御屋形様の退路を確保するお役目を担っていただきたいのです!」
「なんだと!? 定龍殿! 軽々しくそのようなことを口にするでない!」
加地春綱は、まだ若い定龍を軽く諌めたつもりであった。
しかし、口を真一文字に結んだ定龍は、強い眼光のままじっと彼を見つめ続けていたのである。
その表情を見て、彼もようやく定龍が冗談を言いに来たのではないと、判断したのだった。
「まさか……何を根拠にかような大事を言うか?」
「……よいですか。ではよく聞いてくだされ」
そう切り出した定龍は一息に、この後起こるであろう戦の顛末を話した。
すなわち小田原より北条の大軍が北上し、上杉軍の背後をとるやいなや、河越城からも軍勢がうって出てくるだろうということ。
つまり孤立した上杉軍は圧倒的な兵力の北条軍に前後を囲まれてしまい、三軍暴骨の憂き目にあってしまうのだという推測であった。
しかし推測にしては、まるでその目で見てきたかのような生々しい語り口に、加地春綱は顔を青くしてしまったのだった。
「加地殿。もう時間がありません」
「定龍殿……」
「ご協力をたまわりたく馳せ参じた次第でございます! この通りです! 御屋形様のため……上杉家の未来のためにも、お力を貸してくだされ!!」
いつになく率直な言葉で説得を試みる定龍。
それは定勝の言葉を思い返して、包み隠さずに自分の考えを述べることにしたからだった。
いまや上杉家の屋台骨と言ってもいい定龍が腰を低くして頭を下げる様子に、加地春綱は慌てて手を振った。
「定龍殿! おやめくだされ! 加地春綱、微力ながら謹んでお力添えいたしましょう」
加地春綱の言葉にぱっと顔を紅くした定龍は、今度は小さく礼をした。
「かたじけない。では早速お願いしたい儀がございます!」
………
……
加地春綱の説得に成功した定龍は引き続き、後方にいる鮎川清長、そして荷駄隊の河田長親の元へと駆けつけると、彼らもまた定龍の不退転の覚悟に満ちた顔を見て、首を縦に振ったのだった。
三人の説得の後、一度自分の陣に引き上げてきた定龍。
「ああ、まだ天は御屋形様をお見捨てになられていなかったようだ」
わずかに生じた暇をついて、高い青空を見上げて感謝を捧げた。
ふと、口角を上げた定勝の顔が瞼の裏に映ると、ひとりでに笑みが浮かんだ。
「ふふ、私もやればできるもんでしょう?」
そうつぶやいた時、「やいっ、辰丸! 加地殿たちがやってきたぜ!」と、弥太郎の声が聞こえてきた。
定龍は視線を元に戻すと、口を固く結んで表情を引き締める。
「さあ、ここからは時間との戦いです」
と、つぶやくと馬でやってきた三人を迎えたのだった――
………
……
定龍は、加地春綱、鮎川清長、河田長親の三人が揃うやいなや早口で指示した。
「長親殿には松山城へ。そして鮎川殿は、長親殿の補佐をして松山城まで行き、城の前を固めてくだされ! 加地殿は松山城までの道の途中で兵を伏せてください」
三人は突然出てきた「松山城」という城名に目を丸くすると、代表して河田長親が問いかけた。
「つまり定龍殿は松山城に籠城するおつもりでしょうか?」
定龍はコクリとうなずくと続けた。
「ここから越後まで撤退するには距離がありすぎるため、逃げ切るのはもはや不可能。そして羽生城や厩橋城では防御が心もとない。ここは一度松山城で北条軍を迎撃するしかございません」
「なんと……。そこまで事態が逼迫していたとは‥…」
「ええ。しかし勝って勢いのある中で正確に状況を把握するのは不可能というもの。今さら嘆いても仕方ございません」
三人がゴクリと唾を飲み込む一方で、平静さを崩さない定龍。
しかし内心では、彼もまた焦りと恐怖で狂い出しそうになるのを必死に抑えていたのである。
一度だけ大きく息を吸って吐き出すと、ぐっと腹に力を込めた。
「そして松山城で援軍を待ちます!」
「援軍だと……。馬鹿な……。既に援軍に駆けつけた諸将はみな国に帰ってしまったではないか!?」
驚愕のあまりに大きくなってしまった加地春綱の声が定龍に向けられる。
だが、定龍は厳しい表情のまま続けた。
「いえ、まだ望みはございます!」
「望みだと……!? いったいそれは何なのだ!?」
三人の鋭い視線が定龍の目に集まると、心臓が飛び出しそうになるくらいに高鳴る。
しかし躊躇している間などない。
定龍はさながら仁王のような鬼気迫る顔つきで、目を血走らせながら言い放った。
「光徹様を動かします! 私が絶対に動かしてみせます!」
光徹……すなわち浮世を離れ、頑なに戦に加わるのを拒絶し続けている元関東管領、上杉憲政。
さながら巨岩のごとき一歩も動かぬ彼を、定龍は鉄の意志をもって動かそうと考えていたのである。
こうして宇佐美定龍による、対北条戦の無二無三の策が始まったのだった――
「定龍殿か!? どうしてかようなところに? 御屋形様のそばにいたのではないのか!?」
と、目を丸くして宇佐美定龍と顔を合わせたのは、上杉軍でも後方を任された加地春綱であった。
全軍突撃の号令が謙信から下されたとはいえ、攻め手は限られており、加地春綱や鮎川清長といった軍勢は、謙信の背後や荷駄隊の河田長親を守る役目を担っている。
つまり激しい戦闘には巻き込まれておらず、こうして定龍と落ち着いて顔を合わせられるという訳である。
定龍は加地春綱の問いかけに答えることなく、きゅっと表情を引き締めて、彼がさらに驚くべきことを告げたのだった。
「この戦は必ずや負け戦となります。ついては加地殿に御屋形様の退路を確保するお役目を担っていただきたいのです!」
「なんだと!? 定龍殿! 軽々しくそのようなことを口にするでない!」
加地春綱は、まだ若い定龍を軽く諌めたつもりであった。
しかし、口を真一文字に結んだ定龍は、強い眼光のままじっと彼を見つめ続けていたのである。
その表情を見て、彼もようやく定龍が冗談を言いに来たのではないと、判断したのだった。
「まさか……何を根拠にかような大事を言うか?」
「……よいですか。ではよく聞いてくだされ」
そう切り出した定龍は一息に、この後起こるであろう戦の顛末を話した。
すなわち小田原より北条の大軍が北上し、上杉軍の背後をとるやいなや、河越城からも軍勢がうって出てくるだろうということ。
つまり孤立した上杉軍は圧倒的な兵力の北条軍に前後を囲まれてしまい、三軍暴骨の憂き目にあってしまうのだという推測であった。
しかし推測にしては、まるでその目で見てきたかのような生々しい語り口に、加地春綱は顔を青くしてしまったのだった。
「加地殿。もう時間がありません」
「定龍殿……」
「ご協力をたまわりたく馳せ参じた次第でございます! この通りです! 御屋形様のため……上杉家の未来のためにも、お力を貸してくだされ!!」
いつになく率直な言葉で説得を試みる定龍。
それは定勝の言葉を思い返して、包み隠さずに自分の考えを述べることにしたからだった。
いまや上杉家の屋台骨と言ってもいい定龍が腰を低くして頭を下げる様子に、加地春綱は慌てて手を振った。
「定龍殿! おやめくだされ! 加地春綱、微力ながら謹んでお力添えいたしましょう」
加地春綱の言葉にぱっと顔を紅くした定龍は、今度は小さく礼をした。
「かたじけない。では早速お願いしたい儀がございます!」
………
……
加地春綱の説得に成功した定龍は引き続き、後方にいる鮎川清長、そして荷駄隊の河田長親の元へと駆けつけると、彼らもまた定龍の不退転の覚悟に満ちた顔を見て、首を縦に振ったのだった。
三人の説得の後、一度自分の陣に引き上げてきた定龍。
「ああ、まだ天は御屋形様をお見捨てになられていなかったようだ」
わずかに生じた暇をついて、高い青空を見上げて感謝を捧げた。
ふと、口角を上げた定勝の顔が瞼の裏に映ると、ひとりでに笑みが浮かんだ。
「ふふ、私もやればできるもんでしょう?」
そうつぶやいた時、「やいっ、辰丸! 加地殿たちがやってきたぜ!」と、弥太郎の声が聞こえてきた。
定龍は視線を元に戻すと、口を固く結んで表情を引き締める。
「さあ、ここからは時間との戦いです」
と、つぶやくと馬でやってきた三人を迎えたのだった――
………
……
定龍は、加地春綱、鮎川清長、河田長親の三人が揃うやいなや早口で指示した。
「長親殿には松山城へ。そして鮎川殿は、長親殿の補佐をして松山城まで行き、城の前を固めてくだされ! 加地殿は松山城までの道の途中で兵を伏せてください」
三人は突然出てきた「松山城」という城名に目を丸くすると、代表して河田長親が問いかけた。
「つまり定龍殿は松山城に籠城するおつもりでしょうか?」
定龍はコクリとうなずくと続けた。
「ここから越後まで撤退するには距離がありすぎるため、逃げ切るのはもはや不可能。そして羽生城や厩橋城では防御が心もとない。ここは一度松山城で北条軍を迎撃するしかございません」
「なんと……。そこまで事態が逼迫していたとは‥…」
「ええ。しかし勝って勢いのある中で正確に状況を把握するのは不可能というもの。今さら嘆いても仕方ございません」
三人がゴクリと唾を飲み込む一方で、平静さを崩さない定龍。
しかし内心では、彼もまた焦りと恐怖で狂い出しそうになるのを必死に抑えていたのである。
一度だけ大きく息を吸って吐き出すと、ぐっと腹に力を込めた。
「そして松山城で援軍を待ちます!」
「援軍だと……。馬鹿な……。既に援軍に駆けつけた諸将はみな国に帰ってしまったではないか!?」
驚愕のあまりに大きくなってしまった加地春綱の声が定龍に向けられる。
だが、定龍は厳しい表情のまま続けた。
「いえ、まだ望みはございます!」
「望みだと……!? いったいそれは何なのだ!?」
三人の鋭い視線が定龍の目に集まると、心臓が飛び出しそうになるくらいに高鳴る。
しかし躊躇している間などない。
定龍はさながら仁王のような鬼気迫る顔つきで、目を血走らせながら言い放った。
「光徹様を動かします! 私が絶対に動かしてみせます!」
光徹……すなわち浮世を離れ、頑なに戦に加わるのを拒絶し続けている元関東管領、上杉憲政。
さながら巨岩のごとき一歩も動かぬ彼を、定龍は鉄の意志をもって動かそうと考えていたのである。
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