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第一部・第一章 臥龍飛翔
正道へと導く才
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弘治3年(1557年)7月10日――
真夏の太陽が燦々と輝く夏の川中島。
麦が終われば米の時期と、この地方の農家に休む暇などない。
多くの男手を失いながらも、残されたわずかな人々たちが力を合わせて耕した田んぼには、青々とした稲が力強く伸びていた。
田を縫うようにして敷かれている畦道。
そこを一人の少年が微笑みを携えながら、ゆっくりと歩いていた。
辰丸であった。
彼は青空に映える入道雲を見つめながら、どこか嬉しそうに目を細める。
――おうい! 辰丸じゃねえか! 暑い中外ばっかり歩いてると、陽にやられちまうから気をつけなされ!
「はい、ありがとうございます! 」
――辰丸~! 今日はざっと雨降るかね?
「いえ、今日は大丈夫ですよ! 」
村の人々は口ぐちに彼を呼び止めた。
それに彼も丁寧に答えていく。
そんなやり取りを彼は心から楽しんでいた。
先の戦以降『川中島の守り神様』と慕われ始めた辰丸。
今まではどこか彼のことを敬遠してきた村人たちであったが、今ではすっかり彼に心を許している。
そして彼もまた少しずつではあるが村人たちとの距離を縮めようと必死に努力をしていたのであった。
夏の陽射しは強く辰丸を照らす。
彼は眩しい太陽を見上げると、幸せそうな笑みを口元に浮かべた。
今日も良い一日になりそうだ。
辰丸は青空のもと、心を弾ませていたのだった――
………
……
夕刻になり、林の中にある寺の方へと戻っていく辰丸。
橙色(だいだいいろ)の空には、黒いカラスが群れをなして鳴いている。
いつもの光景……
しかし、ふと足元をみると後方から一つの影が伸びてきているのが見えた。
それを目にした瞬間から胸がざわめき始めた辰丸は、無意識のうちに近くの草むらに身を潜めた。
――ドッ…… ドッ…… ドッ……
重量感のある足音が徐々に近づいてくる。
それは馬の太い脚が地面を蹴る音のようだ。
そして草むらは上手に彼の姿を隠したが、同時に彼の視界を塞いだため、一体誰が近づいてきているのか分からない。
それでも村人のうちの誰かではないことは、背中から感じた異様なほどの圧迫感から明らかであった。
さらに言えば、辰丸はかつて同じような圧迫感を受けたことを思い起こしていたのだ。
まるで全身が押しつぶされそうな強烈な圧力……
辰丸はそれを可能と出来る人物を唯一人しか知らない。
そして……
『運命』は再び動き始めた。
それはまたしても一陣の風――
草木が倒れると同時に、辰丸に声がかけられた。
「久しいな」
その響きに懐かしさすら感じるのは、辰丸にとってあの時に経験した全てが遥か昔に見た夢のようなものだったからであろう。
もう二度と体験することのない夢。
もう二度と味わうことのない興奮と喜びを得た夢……
「お久しぶりでございます。景虎様」
馬上のままでじっと辰丸を見下ろしている長尾景虎。
初めて出会った時と同じように、精悍な顔立ちに力強い瞳。
しかしどこか儚さや繊細さをまとっている所も全く変わらなかった。
辰丸もまた景虎を見つめる。
風が奏でる心地よい調べ。
夕焼けが作る色鮮やかな景色。
二人は自然が生み出す芸術の中の一つとなって、身じろぎ一つせずに視線を交わし続けていた。
空が紫色を含み始めた時、景虎が口を開いた。
「この村を襲った狼藉者たちの中に名のある者があった。それを討ったのは辰丸、お主だ」
「さようでございましたか……」
「ついては褒美を取らせねば示しがつかん」
「さようでございますか……しかし、私は見ての通り下賤の身。褒美なら定勝殿と弥太郎殿へ……」
そう言いかけた辰丸を景虎は遮った。
「来い、辰丸」
わずか一言。
だが秘められた万感の想いが込められていることは、辰丸にも十分に伝わっていた。
ところが彼は簡単に首を縦に振る事は出来なかった。
村人たちが自分に向けてくれる笑顔。
村人たちと過ごす平穏の日々。
他人は「小さい」と卑下するだろうが、辰丸にとってはこの上ない喜びなのだ。
そして再び避けては通れぬ戦乱に、彼は村人たちを守る決意を固めている。
それこそが彼が本来たどるはずの道なのだ……
しかし運命のいたずらによって繋がれた鎖は、たとえ一度離れたとしても、再び二人を一つの道へと導こうとしていたのだった。
景虎は続けた。
「明日ありと 思う心の仇桜(あだざくら)……」
辰丸は口元をかすかに緩めながら返した。
「夜半に嵐の 吹かぬものかは……」
それは親鸞が詠(うた)った和歌。
「明日はどうなるとも分からぬのが人の常だ」という無常感が込められている。
なぜこの句を今景虎が詠ったのか……
辰丸はその理由を正しく理解していた。
そして景虎は続けた。
「辰丸、お主は嚢中(のうちゅう)の錐(きり)が如し男よ。その才、われに預けよ」
「私ごとき愚才、一体何にお役に立てましょう」
あくまで謙(へりくだ)る辰丸。
しかしこの時彼は心に決めていた。
もし景虎に利己の心あれば、追い返そうと。
すると景虎は変わらぬ口調で答えたのだった。
「大道廃れし乱世にあって、世に仁義を説く力となれ」
「道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し」
景虎の言葉に辰丸は即座に返す。
すなわち正道が世にある限り、人の口によって説かれなくとも、自然に人はその道を通るものだ、ということ。
それは『仁義を説く』という行為を否定する言葉。
すなわち景虎への挑戦とも言えた。
景虎は心に燃えるものを必死に抑えながら続けた。
「乱世は人を惑わし、正道を晦(くら)ます。道外れし人を導くは国家の忠臣の務めなり」
「すなわち私に国家の忠臣になれ……と? 」
辰丸の問いかけに景虎は小さくうなずきながら続けた。
「みなが正道を歩めば、すなわち仁義不要の世となろう。しかし、道暗くしていかに道を見極めようか? 辰丸……お主の才、国家を正道へと導く星となれ」
「では景虎様は国家が正道を歩むその日まで戦い続ける……そのおつもりか? 」
「それもまた国家の忠臣の務めだ」
辰丸は口角を上げた。
そしてどこか諦めたように肩の力を抜いたのである。
辰丸の様子を見て、景虎もまた笑みを浮かべる。
そして……
景虎は手を差し伸べたーー
「一つだけ条件がございます……」
「城で聞こう」
「はい……」
辰丸の白くて細い手が、景虎の大きな手に重なる。
ーーガッ!
辰丸は強い浮遊感を覚えた次の瞬間には、馬上の人になっていた。
「はっ! 」
景虎が短く気合いをつけると、馬は力強く大地を蹴った。
一番星が煌々と輝いている。
空が一日の中で一番美しい時……
新たな主従は風になって東へと吹き抜けていったのだったーー
長尾家に新たな加わった将星は、
一番星のように景虎を導く輝きを放つことになるのだろうか…
そんな期待で胸がはち切れそうになるのを抑えながら、景虎は馬を飛ばしたのだったーー
第一章 臥龍飛翔 ~完~
イラスト:管澤稔さん
真夏の太陽が燦々と輝く夏の川中島。
麦が終われば米の時期と、この地方の農家に休む暇などない。
多くの男手を失いながらも、残されたわずかな人々たちが力を合わせて耕した田んぼには、青々とした稲が力強く伸びていた。
田を縫うようにして敷かれている畦道。
そこを一人の少年が微笑みを携えながら、ゆっくりと歩いていた。
辰丸であった。
彼は青空に映える入道雲を見つめながら、どこか嬉しそうに目を細める。
――おうい! 辰丸じゃねえか! 暑い中外ばっかり歩いてると、陽にやられちまうから気をつけなされ!
「はい、ありがとうございます! 」
――辰丸~! 今日はざっと雨降るかね?
「いえ、今日は大丈夫ですよ! 」
村の人々は口ぐちに彼を呼び止めた。
それに彼も丁寧に答えていく。
そんなやり取りを彼は心から楽しんでいた。
先の戦以降『川中島の守り神様』と慕われ始めた辰丸。
今まではどこか彼のことを敬遠してきた村人たちであったが、今ではすっかり彼に心を許している。
そして彼もまた少しずつではあるが村人たちとの距離を縮めようと必死に努力をしていたのであった。
夏の陽射しは強く辰丸を照らす。
彼は眩しい太陽を見上げると、幸せそうな笑みを口元に浮かべた。
今日も良い一日になりそうだ。
辰丸は青空のもと、心を弾ませていたのだった――
………
……
夕刻になり、林の中にある寺の方へと戻っていく辰丸。
橙色(だいだいいろ)の空には、黒いカラスが群れをなして鳴いている。
いつもの光景……
しかし、ふと足元をみると後方から一つの影が伸びてきているのが見えた。
それを目にした瞬間から胸がざわめき始めた辰丸は、無意識のうちに近くの草むらに身を潜めた。
――ドッ…… ドッ…… ドッ……
重量感のある足音が徐々に近づいてくる。
それは馬の太い脚が地面を蹴る音のようだ。
そして草むらは上手に彼の姿を隠したが、同時に彼の視界を塞いだため、一体誰が近づいてきているのか分からない。
それでも村人のうちの誰かではないことは、背中から感じた異様なほどの圧迫感から明らかであった。
さらに言えば、辰丸はかつて同じような圧迫感を受けたことを思い起こしていたのだ。
まるで全身が押しつぶされそうな強烈な圧力……
辰丸はそれを可能と出来る人物を唯一人しか知らない。
そして……
『運命』は再び動き始めた。
それはまたしても一陣の風――
草木が倒れると同時に、辰丸に声がかけられた。
「久しいな」
その響きに懐かしさすら感じるのは、辰丸にとってあの時に経験した全てが遥か昔に見た夢のようなものだったからであろう。
もう二度と体験することのない夢。
もう二度と味わうことのない興奮と喜びを得た夢……
「お久しぶりでございます。景虎様」
馬上のままでじっと辰丸を見下ろしている長尾景虎。
初めて出会った時と同じように、精悍な顔立ちに力強い瞳。
しかしどこか儚さや繊細さをまとっている所も全く変わらなかった。
辰丸もまた景虎を見つめる。
風が奏でる心地よい調べ。
夕焼けが作る色鮮やかな景色。
二人は自然が生み出す芸術の中の一つとなって、身じろぎ一つせずに視線を交わし続けていた。
空が紫色を含み始めた時、景虎が口を開いた。
「この村を襲った狼藉者たちの中に名のある者があった。それを討ったのは辰丸、お主だ」
「さようでございましたか……」
「ついては褒美を取らせねば示しがつかん」
「さようでございますか……しかし、私は見ての通り下賤の身。褒美なら定勝殿と弥太郎殿へ……」
そう言いかけた辰丸を景虎は遮った。
「来い、辰丸」
わずか一言。
だが秘められた万感の想いが込められていることは、辰丸にも十分に伝わっていた。
ところが彼は簡単に首を縦に振る事は出来なかった。
村人たちが自分に向けてくれる笑顔。
村人たちと過ごす平穏の日々。
他人は「小さい」と卑下するだろうが、辰丸にとってはこの上ない喜びなのだ。
そして再び避けては通れぬ戦乱に、彼は村人たちを守る決意を固めている。
それこそが彼が本来たどるはずの道なのだ……
しかし運命のいたずらによって繋がれた鎖は、たとえ一度離れたとしても、再び二人を一つの道へと導こうとしていたのだった。
景虎は続けた。
「明日ありと 思う心の仇桜(あだざくら)……」
辰丸は口元をかすかに緩めながら返した。
「夜半に嵐の 吹かぬものかは……」
それは親鸞が詠(うた)った和歌。
「明日はどうなるとも分からぬのが人の常だ」という無常感が込められている。
なぜこの句を今景虎が詠ったのか……
辰丸はその理由を正しく理解していた。
そして景虎は続けた。
「辰丸、お主は嚢中(のうちゅう)の錐(きり)が如し男よ。その才、われに預けよ」
「私ごとき愚才、一体何にお役に立てましょう」
あくまで謙(へりくだ)る辰丸。
しかしこの時彼は心に決めていた。
もし景虎に利己の心あれば、追い返そうと。
すると景虎は変わらぬ口調で答えたのだった。
「大道廃れし乱世にあって、世に仁義を説く力となれ」
「道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し」
景虎の言葉に辰丸は即座に返す。
すなわち正道が世にある限り、人の口によって説かれなくとも、自然に人はその道を通るものだ、ということ。
それは『仁義を説く』という行為を否定する言葉。
すなわち景虎への挑戦とも言えた。
景虎は心に燃えるものを必死に抑えながら続けた。
「乱世は人を惑わし、正道を晦(くら)ます。道外れし人を導くは国家の忠臣の務めなり」
「すなわち私に国家の忠臣になれ……と? 」
辰丸の問いかけに景虎は小さくうなずきながら続けた。
「みなが正道を歩めば、すなわち仁義不要の世となろう。しかし、道暗くしていかに道を見極めようか? 辰丸……お主の才、国家を正道へと導く星となれ」
「では景虎様は国家が正道を歩むその日まで戦い続ける……そのおつもりか? 」
「それもまた国家の忠臣の務めだ」
辰丸は口角を上げた。
そしてどこか諦めたように肩の力を抜いたのである。
辰丸の様子を見て、景虎もまた笑みを浮かべる。
そして……
景虎は手を差し伸べたーー
「一つだけ条件がございます……」
「城で聞こう」
「はい……」
辰丸の白くて細い手が、景虎の大きな手に重なる。
ーーガッ!
辰丸は強い浮遊感を覚えた次の瞬間には、馬上の人になっていた。
「はっ! 」
景虎が短く気合いをつけると、馬は力強く大地を蹴った。
一番星が煌々と輝いている。
空が一日の中で一番美しい時……
新たな主従は風になって東へと吹き抜けていったのだったーー
長尾家に新たな加わった将星は、
一番星のように景虎を導く輝きを放つことになるのだろうか…
そんな期待で胸がはち切れそうになるのを抑えながら、景虎は馬を飛ばしたのだったーー
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