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外伝(むしろメイン)
番外四 彼のはなし
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メイン:デコ ジャンル:シンプル
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一定の間隔で聞こえる軽快な音に、白濁した意識がだんだんと眠りの淵からひっぱりあげられる。
心が落ち着く優しいリズムで、包丁がまな板を叩く音。目覚ましの代わりにその音で目覚める日が、定期的に訪れる。
寝室もキッチンもリビングも、全部一緒になった狭いワンルーム。ベッドに横たわったままでも、首を回すだけで部屋中を見渡せる。
そんな質素な部屋にお似合いの簡素な寝具から上体を起こし、デコは、音の主に声をかけた。
「来てたのか」
「おはよう。起こしちゃった?」
デコの起床に気づいた彼女は音を止めることなく首だけで振り返る。
「いや。どうせ起きる時間だった」
「そう。良かった」
彼女が笑うと、黒くツヤのあるクセっ毛が跳ねた。後ろでひとつに縛られているしっかりとした硬めの髪を動物の尻尾のように揺らし、彼女はできたての朝食を小さな木製のテーブルへ運んでいく。そのあいだに、デコは冷たい水で顔を洗う。今しがたまで炊事場として使われていた場所は、今は洗面台。タオルで顔を拭って振り返ると、テーブルの準備を済ませた彼女が座って待っている。
これが、思春期過ぎから変わらず続いている、彼女が居る朝の光景だった。
彼女、とは。
そのまんまの意味で、"彼女"である。
代名詞としての彼女ではなく、お付き合いをしている女性としての、彼女。
デコには、彼女がいる。
「おいしい?」
「ああ」
会話はそれっきり。デコももともと多くを語るほうではないし、彼女もまた、必要以上に賑やかな場が得意では無かった。ただお互いがそこに居ればそれで良い。静かに空気と時間だけが流れる食卓。スープの最後の一口を飲み終えてデコが食器を置いたとき、彼女がふと、窓際に目をやった。
「あら。お花、枯れちゃってるじゃない」
花瓶の代わりに置かれている酒瓶が、逆光を背負って輪郭をぼやけさせている。差し込まれている一輪の小さな花は、かつての鮮やかさを失い、元気なさそうに頭を垂れていた。
「デコー! 仕事行こうー!」
ちょうどそのとき、外から、静かな空間を遠慮なく叩き割るような大声。
「ふふ。ボコ君は今日も元気いっぱいね」
たおやかに言葉を紡ぐ彼女の声は、近所の子どもか、はたまた弟を慈しむよう。
「いってらっしゃい」
「今日ははやく帰るから、このまま居るといい」
「ええ。そうさせてもらうわ。ありがとう」
玄関口でサングラスを装着し、デコはドアをくぐる。一歩外には、いつも眩しい太陽が待っている。
「今日は久しぶりにボスに会うから、気合いれてこー!」
拳を天に突き上げてスキップする同僚は、たしか自分より年下で、仕事のうえでも後輩だったはず。にも関わらず、初対面のときからずっと変わらない親しげな態度。騒がしい彼の温度が、デコにはなぜだか心地よかった。
「ぷっ、ぷぷぷぷ! ぷはー!!! ボスが……! い、いちごー!」
その日の大きな仕事を終えたあと、正確には"元"となったボスのところへ行くと、いちごの苗を買うように頼まれた。
スラムの王と謳われて恐れられていたボスが。悪名高き狼と呼ばれ狂犬さながらに尖っていたボスが。趣味として家庭菜園をはじめると言う。
スラムにいるあいだ、彼がずっとその状況から抜け出したがっていたのを、デコは知っていた。
いつだったかの夕暮れ、「お前はこのままでいいのか」と、一度たずねられたことがある。そのときは、自分はここで暮らすのが身の丈にあっている、と答えたはずだ。今もその気持ちはかわらない。スラムに、大切なものがある。
遠くを眺めて「そうか」と一言だけ口にしたボスは、大きかった。彼が望んだ景色は、おそらく自分には見えないところ。あの薄汚く猥雑な街は、少々彼には狭い世界だったのだろう。小さなものを守ってまとまってしまう器ではなく、何も持たないからこそ雄大を望むのだ。それに見合うだけの度胸と知能が、たしかに彼にはあった。
望みどおり抜け出したボスは、新しい場所でそれなりに楽しくやっている様子。同時に、かつての鋭さを失っていないようにも。表面上は少しやわらかくなったが、きっと彼は、スラムに戻ればまたすぐに野生を剥き出しにして適応するだろう。そんなことにはならなければ良いと願う。人にはそれぞれ根づくのに適した場所があるのだから。
買い物を頼まれて花屋へ向かう道すがら、ボコはずっと腹を抱えて笑っていたが、デコはすんなり納得ができた。
家庭菜園というのは響きこそ可愛いが、利己的で損得でしか動かなかったボスらしい趣味。金貸しから突然大きなお屋敷のお抱えに転身して状況は大きく変わったが、ボスの根本は変わらないようだ、と。
「いちごの苗くださいッスー! あとついでに育てかたとかも教えてほしーッス!」
第一声で、ボコはすぐに花屋の店主と打ち解けた。
こういう仕事は相棒のほうが得意だというのを重々心得ているデコは、邪魔をしないよう少し距離を取り店内を見てまわる。花にはまるきり詳しくないが、見るぶんには綺麗だと思うし嫌いじゃない。
展示されている商品にはそれぞれネームプレートがついていて、簡単な説明と花言葉が掘られている。
蛍光色をした眩しくかがやくものや、周囲に同調してひっそりと笑んでいるようなもの。所狭しと並べられている色とりどりの花々。それらをなんとなく眺めているうちに、ひとつの花に不思議と引き寄せられた。野にあればじゅうぶんに目をひく大きさや色だが、もっと大きく自己主張の激しい花が溢れる店内ではそんなに目立つような花でもない。なのになぜだか、とても気にかかる。
レースのような薄い花びらが幾重ににも重なる優しい花。
プレートに記された花言葉は「慎ましさ」。
ああ、なるほど。よく見ると、この花は少し、彼女を思い起こさせる。
「デコー! 買い物終わったー!」
相棒に呼ばれて戻ると、彼の足元には、両手で抱えきれないほどの荷物。人懐っこい笑顔と明るい性格のおかげか店主に気に入られ、サービスでいろいろとわけてもらったらしい。
それを持ってまたボスのところへ戻り、頼まれたものを渡し、育て方を伝える。ボコのわかりにくい説明でも要領よく理解するボスのことを、デコは今でも尊敬している。やはりとても頭の良い人間だ、と思う。
「っしゃ、仕事終了ー! デコこれからどうすんの? オレは遊び行くけど」
「俺は帰るよ」
「オッス! じゃあまた明日! いつもの時間に迎えに行くから!」
頷いて別れを告げ、デコは歩き出した。
家には朝のまま、おとなしく彼女が待っているだろう。部屋の中央に座り、小さなテーブルに肘をついて、窓の外でも眺めているだろうか。それとも、狭い部屋のなかを手慣れた様子で掃除でもしてくれているだろうか。
想像して、デコは少し歩幅を広くした。
見慣れた自宅のドアをくぐると、振り返った彼女が「おかえり」と紡ぐ。予想はどちらも外れ、夕食の仕込みをしているところらしかった。
「ただいま」
「思ったよりはやかったのね」
「ああ」
「少し待って。もうすぐ手が空くから。あら? それは?」
それは、とたずねられ、デコは手にしていたものを差し出した。
筒状にニュースペーパーで包まれた一輪の花。華々しい花々に囲まれた空間から取り出してやると、一気に鮮やかさが増したように映える。
「まぁ、綺麗なお花。さっそく新しいの買ってきてくれたの? ありがとう」
薄桃色の花冠を広げた花を差し込めば、ありふれた安物の酒瓶がドレスを纏う。
慎ましく場に馴染むように、それでいてしっかりと芯を持ち主張をするこの花の名は。
「ピオニーという花らしい」
「素敵。私と同じ名前」
殺風景な部屋に彩りを添えるふたつのピオニー。
この街で守りたいものが、またひとつ増えたような気がした。
番外四END
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一定の間隔で聞こえる軽快な音に、白濁した意識がだんだんと眠りの淵からひっぱりあげられる。
心が落ち着く優しいリズムで、包丁がまな板を叩く音。目覚ましの代わりにその音で目覚める日が、定期的に訪れる。
寝室もキッチンもリビングも、全部一緒になった狭いワンルーム。ベッドに横たわったままでも、首を回すだけで部屋中を見渡せる。
そんな質素な部屋にお似合いの簡素な寝具から上体を起こし、デコは、音の主に声をかけた。
「来てたのか」
「おはよう。起こしちゃった?」
デコの起床に気づいた彼女は音を止めることなく首だけで振り返る。
「いや。どうせ起きる時間だった」
「そう。良かった」
彼女が笑うと、黒くツヤのあるクセっ毛が跳ねた。後ろでひとつに縛られているしっかりとした硬めの髪を動物の尻尾のように揺らし、彼女はできたての朝食を小さな木製のテーブルへ運んでいく。そのあいだに、デコは冷たい水で顔を洗う。今しがたまで炊事場として使われていた場所は、今は洗面台。タオルで顔を拭って振り返ると、テーブルの準備を済ませた彼女が座って待っている。
これが、思春期過ぎから変わらず続いている、彼女が居る朝の光景だった。
彼女、とは。
そのまんまの意味で、"彼女"である。
代名詞としての彼女ではなく、お付き合いをしている女性としての、彼女。
デコには、彼女がいる。
「おいしい?」
「ああ」
会話はそれっきり。デコももともと多くを語るほうではないし、彼女もまた、必要以上に賑やかな場が得意では無かった。ただお互いがそこに居ればそれで良い。静かに空気と時間だけが流れる食卓。スープの最後の一口を飲み終えてデコが食器を置いたとき、彼女がふと、窓際に目をやった。
「あら。お花、枯れちゃってるじゃない」
花瓶の代わりに置かれている酒瓶が、逆光を背負って輪郭をぼやけさせている。差し込まれている一輪の小さな花は、かつての鮮やかさを失い、元気なさそうに頭を垂れていた。
「デコー! 仕事行こうー!」
ちょうどそのとき、外から、静かな空間を遠慮なく叩き割るような大声。
「ふふ。ボコ君は今日も元気いっぱいね」
たおやかに言葉を紡ぐ彼女の声は、近所の子どもか、はたまた弟を慈しむよう。
「いってらっしゃい」
「今日ははやく帰るから、このまま居るといい」
「ええ。そうさせてもらうわ。ありがとう」
玄関口でサングラスを装着し、デコはドアをくぐる。一歩外には、いつも眩しい太陽が待っている。
「今日は久しぶりにボスに会うから、気合いれてこー!」
拳を天に突き上げてスキップする同僚は、たしか自分より年下で、仕事のうえでも後輩だったはず。にも関わらず、初対面のときからずっと変わらない親しげな態度。騒がしい彼の温度が、デコにはなぜだか心地よかった。
「ぷっ、ぷぷぷぷ! ぷはー!!! ボスが……! い、いちごー!」
その日の大きな仕事を終えたあと、正確には"元"となったボスのところへ行くと、いちごの苗を買うように頼まれた。
スラムの王と謳われて恐れられていたボスが。悪名高き狼と呼ばれ狂犬さながらに尖っていたボスが。趣味として家庭菜園をはじめると言う。
スラムにいるあいだ、彼がずっとその状況から抜け出したがっていたのを、デコは知っていた。
いつだったかの夕暮れ、「お前はこのままでいいのか」と、一度たずねられたことがある。そのときは、自分はここで暮らすのが身の丈にあっている、と答えたはずだ。今もその気持ちはかわらない。スラムに、大切なものがある。
遠くを眺めて「そうか」と一言だけ口にしたボスは、大きかった。彼が望んだ景色は、おそらく自分には見えないところ。あの薄汚く猥雑な街は、少々彼には狭い世界だったのだろう。小さなものを守ってまとまってしまう器ではなく、何も持たないからこそ雄大を望むのだ。それに見合うだけの度胸と知能が、たしかに彼にはあった。
望みどおり抜け出したボスは、新しい場所でそれなりに楽しくやっている様子。同時に、かつての鋭さを失っていないようにも。表面上は少しやわらかくなったが、きっと彼は、スラムに戻ればまたすぐに野生を剥き出しにして適応するだろう。そんなことにはならなければ良いと願う。人にはそれぞれ根づくのに適した場所があるのだから。
買い物を頼まれて花屋へ向かう道すがら、ボコはずっと腹を抱えて笑っていたが、デコはすんなり納得ができた。
家庭菜園というのは響きこそ可愛いが、利己的で損得でしか動かなかったボスらしい趣味。金貸しから突然大きなお屋敷のお抱えに転身して状況は大きく変わったが、ボスの根本は変わらないようだ、と。
「いちごの苗くださいッスー! あとついでに育てかたとかも教えてほしーッス!」
第一声で、ボコはすぐに花屋の店主と打ち解けた。
こういう仕事は相棒のほうが得意だというのを重々心得ているデコは、邪魔をしないよう少し距離を取り店内を見てまわる。花にはまるきり詳しくないが、見るぶんには綺麗だと思うし嫌いじゃない。
展示されている商品にはそれぞれネームプレートがついていて、簡単な説明と花言葉が掘られている。
蛍光色をした眩しくかがやくものや、周囲に同調してひっそりと笑んでいるようなもの。所狭しと並べられている色とりどりの花々。それらをなんとなく眺めているうちに、ひとつの花に不思議と引き寄せられた。野にあればじゅうぶんに目をひく大きさや色だが、もっと大きく自己主張の激しい花が溢れる店内ではそんなに目立つような花でもない。なのになぜだか、とても気にかかる。
レースのような薄い花びらが幾重ににも重なる優しい花。
プレートに記された花言葉は「慎ましさ」。
ああ、なるほど。よく見ると、この花は少し、彼女を思い起こさせる。
「デコー! 買い物終わったー!」
相棒に呼ばれて戻ると、彼の足元には、両手で抱えきれないほどの荷物。人懐っこい笑顔と明るい性格のおかげか店主に気に入られ、サービスでいろいろとわけてもらったらしい。
それを持ってまたボスのところへ戻り、頼まれたものを渡し、育て方を伝える。ボコのわかりにくい説明でも要領よく理解するボスのことを、デコは今でも尊敬している。やはりとても頭の良い人間だ、と思う。
「っしゃ、仕事終了ー! デコこれからどうすんの? オレは遊び行くけど」
「俺は帰るよ」
「オッス! じゃあまた明日! いつもの時間に迎えに行くから!」
頷いて別れを告げ、デコは歩き出した。
家には朝のまま、おとなしく彼女が待っているだろう。部屋の中央に座り、小さなテーブルに肘をついて、窓の外でも眺めているだろうか。それとも、狭い部屋のなかを手慣れた様子で掃除でもしてくれているだろうか。
想像して、デコは少し歩幅を広くした。
見慣れた自宅のドアをくぐると、振り返った彼女が「おかえり」と紡ぐ。予想はどちらも外れ、夕食の仕込みをしているところらしかった。
「ただいま」
「思ったよりはやかったのね」
「ああ」
「少し待って。もうすぐ手が空くから。あら? それは?」
それは、とたずねられ、デコは手にしていたものを差し出した。
筒状にニュースペーパーで包まれた一輪の花。華々しい花々に囲まれた空間から取り出してやると、一気に鮮やかさが増したように映える。
「まぁ、綺麗なお花。さっそく新しいの買ってきてくれたの? ありがとう」
薄桃色の花冠を広げた花を差し込めば、ありふれた安物の酒瓶がドレスを纏う。
慎ましく場に馴染むように、それでいてしっかりと芯を持ち主張をするこの花の名は。
「ピオニーという花らしい」
「素敵。私と同じ名前」
殺風景な部屋に彩りを添えるふたつのピオニー。
この街で守りたいものが、またひとつ増えたような気がした。
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