【完結】砂の香り

黄永るり

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交渉

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 サマラは商館の裏手に建てられているタージルの館に通された。
 表の商館は砂漠を行く隊商宿も兼ねていた。それゆえ騒々しいので奥の館に、というタージルの心遣いであるらしい。
 中庭を囲むようにロの字型に建物が配置されているのは砂漠地域独特の建て方だ。
 その建物の右手奥の一階にある客間に通された。
「そちらへお座り下さいませ」
 タージルが優雅に手で指し示した先には、金糸銀糸で蔓草模様が縫い留められた明らかに賓客用とわかる敷物が敷いてあった。
 サマラは驚きながらもゆっくり座った。
 さらにその敷物の下に敷いてある絨毯を見ると、かなり複雑な植物の文様が織り込まれている。宮廷付きの織物職人でもこれほどの腕前のものはなかなかないだろう。かなり精緻な出来栄えだ。王の私室にあっても遜色ないくらいだ。恐ろしいくらいに高価な物だとわかる。
 ぐるりと部屋全体を見まわすと壁掛けの布も絹製だと思われるし、天井から吊るされているランプは黄金製で装飾から文様まで細かく彫られている。調度品にも惜しげもなく黄金とその細工に合った宝石が施されている。
 眩暈がしそうだった。
(ここってもしかして王や異母姉上様のような最高級の賓客、国賓のような方たちをお迎えしてもてなす部屋ではないのかしら?)
「王女様、かなり緊張されていらっしゃるようですが大丈夫ですか?」
 タージルは奥のサマラから離れて正面に座った。
 窓が少し開けられているので心地よい風が入ってきている。
「は、はい。大丈夫です」
 そう言いながらも全身に入った緊張感はなかなか簡単には緩められなさそうもない。
 タージルに命じられた家人がお茶と様々な種類の茶菓子を運んでくる。
 サマラ一人のために、だ。
「これは薔薇茶ですか?」
 状況も忘れて思わずサマラはそう口走ってしまった。
 しまったと思ったが仕方がない。
 日頃の香料職人としての匂いを嗅ぎ取る癖だ。
「まだ茶葉も出してはおりませんのに、さすが陛下に専属で香料職人としてお仕えされておられる方だ。恐ろしく嗅覚が鋭敏でいらっしゃる」
「すみません。職業柄どうしても香りには敏感なもので」
 特に薔薇だけは。
 香料職人として嗅覚は大事なのだが、元々サマラもアッタールも並みの香料職人以上の鋭い嗅覚の持ち主だった。わずかな原料や量の違いだけで出来上がりの香りの強弱もすぐにわかってしまうのだ。
 だから、湯も注がないうちから何の茶葉かを香りだけであてることなど造作もないことだった。
「そんなことで謝っていただかずとも結構ですよ。それよりも第二王女様に対しまして『香料職人』などと申しまして、私こそ失礼を申し上げました」
 タージルは軽く頭を下げた。
「お気になさらないでください。実際、私は祖父アッタール同様に陛下の専属香料職人ですから。普段は自分が『王女』の称号を得ていることも忘れています。むしろこのような大層な客間にお通しいただいて、そちらのほうが恐縮しております」
 サマラにとって物心ついた頃より、ジャミールはあくまで『仕えるべき主』であって『父』ではないのだ。
「惜しいな」
 ぽつりとタージルが呟いた。
「え?」
「ああ、何でもありません。さてお茶もお菓子もご用意させて頂きました。どうぞ」
「ありがとうございます」
 サマラは茶杯から香る香気を自分の身体に通しながら、すっと一口飲んでみた。
 香りも味もジャミールが飲んでいる薔薇茶に匹敵するくらいの最高級品だ。
 干したデーツや果物もそれぞれが絶妙な甘さだ。
 そしてあえて甘くしていない焼菓子も絶品だった。
「さて王女様、本日わざわざ私を訪ねていらっしゃったのには、一体どのような御用があってのことでございましょうか?」
 菓子や茶を味わいながら程よくサマラの緊張が解けた絶妙な間合いでタージルは尋ねてきた。
 いつの間にか人払いも済まされている。
 穏やかに尋ねながらもタージルの視線は、そのままサマラにしっかりと固定されている。
 サマラにとってカーズィバよりも、目の前のタージルのほうが近寄りがたい存在だった。カーズィバのようにジャミールにおもねるのでもなく、しかし、なぜか常にカーズィバよりもジャミールの心を掴む商品を必ず納めてくる。とても不思議な存在だった。
 香料の原料はカーズィバが主に仕入れてくるのだが、実は、タージルの仕入れてくるもののほうが少数精鋭の良品が多いのだとアッタールが話していた。
 サマラは薔薇茶の横に置いてあった水差しから予備の杯に水を注ぎ、一気に飲み干す。冷たい水がすっと喉を通って行った。
 このように熱い砂漠地方で冷たい水が飲めるのは、井戸と暑さを遮る石造りの堅牢な館の持ち主にしか行えない。
 サマラに軽く緊張感が戻り、頭が冴えてきた。
「実はタージル殿にお願いしたいことがあって参りました」
「恐れながら、それは陛下がカーズィバ殿に陣頭指揮を任されておられることでしょうか?」
「はい」
 さすが大商人。すでに、大方の情報は得ているようだった。
 ならばサマラの突然の訪問理由も最初から大体想像はついていたのだろう。
 在館していたのが偶然かどうかまではわからないが。
「そこまでわかっておられるのでしたら前置きは不要のようですので、単刀直入に申し上げます。タージル殿に私の支援をして頂きたいのです」
 勢いよく目の前のタージルに向かって頭を下げた。
「なぜでしょうか?」
 即答で返ってくる。
「え?」
「なぜ私が王女様をお助けしなければならないのでしょうか?」
 すんなり了承を得られるとは思っていなかったが、あまりの直接的な問いかけにどう答えたものか、とサマラの視線が宙をさまよう。
 適当な言い方ではとてもではないが大商人の説得などできないだろう。
 王女の地位など関係ない。
「カーズィバ殿に匹敵する私の援助を受けられれば、簡単に乳香も没薬も見つけられるとお思いなのですか? それともカーズィバ殿のご子息に嫁がれるのがそれほどお嫌なのですか?」
 タージルの物腰は非常に柔らかなものなのだが、容赦なく鋭いところをついてくる。
 十六歳のサマラ相手でも遠慮がない。
「確かに乳香も没薬もそう簡単には見つけられないとは思います。すぐに見つけられるものでしたら、先王陛下なり、現陛下なりが見つけていらっしゃるでしょう」
「容易ではないことだとわかっておられるのに、それでもお探しになりたいとはどういうことなのですかな?」
「タージル殿、私は香料職人なのです」
「さようですな」
「ですからこのまま『ティジャーラの宝』が本当に失われてしまうことがもったいないと思うのです」
 サマラはずっと考えていた。
 もし、このまま原木が見つからなければ、後の世では『乳香』と『没薬』はただの伝説になってしまう。それは、香料職人のサマラからすれば本当にもったいないことだと思えてしまうのだ。
「伝説の香木にしたくはないのです。医術にも香油にも使える用途の多い香料はそうありません。私は、あの乳香と没薬を使って、陛下だけでなく多くの人々に役立つ香料商品を祖父と共に作りたいのです!」
「純粋に香料職人として、『ティジャーラの宝』が伝説の波に埋もれてしまうのがもったいないと?」
「はい」
「では、ご自身の縁談話は関係ないのですかな?」
 さすがタージル。押さえるところはちゃんと押さえている。
「それも関係してはおります。カーズィバ殿のご子息のことをどうこう申し上げる前に、私自身、今まで自分のことを何一つ自分で決めたことがなかったものですから」
 生まれる前から王の職人になることを定められ、祖父の元で職人見習いとして育てられた。
 仕事や祖父、ジャミールに対して不満に思ったこともなかったし、疑問も特になかった。
「だからこそ、せめて自分の人生の重大事でもある結婚相手は自分で決めたいと思ったのです」
 異母姉シャリーファに自分の結婚相手がカーズィバの息子だと伝えられた時、『それだけは絶対に嫌だ』という反発する気持ちが生まれたのは事実だ。これまでただの一度もジャミールに対して『否』と言ったことはなかったし、思いもしなかった。その自分に生まれた初めての感情。その感情にサマラは素直に従ってみたくなった。
 だから、父親が子供の縁談を決めるという慣習をあえて破りたいと思ったのだ。
 なぜだか、それだけはどうしても譲れない、今でもそう自然と思えてくる。
「わかりました」
「え?」
「王女様のお考えは良くわかりました」
「あの、どういうことでしょうか?」
 まさかこんな大それた依頼を簡単に了承されてしまったのだろうか。
「王女様は乳香と没薬を探すための情報と、自分の探索の旅を私に支援してほしいということなのでございましょう?」
「そうです」
「では、この話を契約までまとめましょうか、ということです」
「良いのですか?」
 あっさりとそう申し出を受け入れられてサマラは面食らってしまった。
 もし了承してもらえなければ最悪は、異母姉の名前(本人の許可は取っている)を使おうかとも思っていただけに。
「王女様、私は商人でございますよ。商機を逃すようなことはいたしませんよ」
 確かに上手くいけば乳香や没薬の独占販売権を得られたり、さらにはそれらから生まれる商品も一手に引き受けて売れば大変な利益を生み出すだろう。
 それもこれも原木が見つかればの話だし、見つかってもまともに樹液が採取できるようになるまでは育てなければならない。
「カーズィバ殿が陛下に見返りを求めたように、タージル殿もそうされるということでしょうか?」
「さようにございます。商人ですからな。夢や世迷言で商売はできません」
 確かにそうだ。
 王族や貴族なら簡単に夢や世迷言で動いてしまいそうだが、商人はそういう基準で生きてはいない。
 その選択が自分たちの利になるかどうか、だ。
「ご理解いただけて恐縮ですが、王女様は私に何を下さいますかな?」
「一つは陛下にも許可を頂きましたが、乳香と没薬の独占販売権です」
「そうですな。それは大変魅力的な申し出ですな。ですがそれだけでは私はカーズィバ殿のようには動きませんよ」
 そうだろう。ここで動いてしまうようならカーズィバと同じだ。
「もう一つは私自身でございます」
「王女様の御身を私に差し出すと仰るのですか?」
「はい。正しくは『私の使える権限』を委ねさせていただきます」
「失礼ながら、ただの香料職人で『第二王女』とは名ばかりだと先ほどご自身で仰っておられたあなた様に何の権利があるのでございましょうか?」
 本当に真っすぐ手厳しいところをついてくる。
「そうですね。私には王女としての価値などないに等しいのかもしれません」
 世継ぎの第一王女が健在の今、正室所生でもない第二王女の存在意義はあまりない。しかも、職人として育てられた王女など。と、サマラは自分のことを思っていた。
「ですが、私は私自身に全く何の価値もないとは思ってはおりません。ですから、私の価値をタージル殿が見定めて下さい。商人としての目で」
 手に入れる価値がある王女なのか、そうでないのか。
 手に入れる価値がある職人なのか、そうでないのか。
 大商人タージルの目に自分はどのように映っているのだろうか。
「では私が、我が家に勤めている家人の一番下っ端の者に嫁いでくださいと申し上げましても、言うことをお聞きになるのですか?」
「その縁組がタージル殿にとって必要とあらば、参りましょう」
 父王ジャミールのために父王によって作られた自分だが、その中で何か一つぐらい自分で考えたことを成し遂げてみたい。
 そう自分で決めて、ここでタージルと真っ向から相対して腹は括った。
「ふふふ」
 タージルは深い笑みを浮かべながら己のあごひげを撫でている。
「なるほど。どうやら私は王女様を見くびっていたようですな」
 自分の価値をお前が決めろ、などと、およそ職人育ちの娘が言える言葉ではない。
 何かこの娘には自分のまだ知らない何か可能性があるのかもしれない。
 確かにサマラの何かがタージルの心を掴んだ。
 この娘は自分が思っていたよりもなかなか面白い、かもしれない。
 どのみち、乳香と没薬の独占販売権だけでも、すぐではないが恐ろしいほどの利益が出せるはずだ。悪い話ではない。しかも、相手は目の前の王女というよりは、王との取引だ。よもや、裏切りなどあるまい。
 だからこそカーズィバも必死で探しているのだろう。
「わかりました。このタージル、微力ながら王女様のお手伝いをさせて頂きましょう」
「本当ですか?」
「はい」
 サマラの肩から緩やかに力が抜けていく。
「では、王女様早速ですが、明日より探索する方向を考えて参りましょう」
「はい。よろしくお願い申し上げます」
「できれば、そのまま旅に出る準備をしてきて下さいませ。方針が決まればすぐにでも旅立てるほうがよろしいでしょう」
「明日ですか?」
 さすがにそこまでは予想していなかった。
「さようです。もたもたしていたら、カーズィバ殿たちに先を越されてしまうかもしれませんよ。本音を申し上げれば今夜にも旅立たれることをお勧め申し上げたいところです。商人として機を見て敏に動くのは常識です」
「わかりました」
 カーズィバとの競争はすでに始まっている。
 向こうのほうが一歩先に、国外へ探索に出てしまっているのだ。
 旅立ちを遅らせることは相手に機会を与えることになってしまう。
 サマラは素早くタージルに一礼すると、工房へ走って戻っていった。
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