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流転
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冬子は院の御所に向かう支度を整えた後に、自邸の庭を眺めていた。
遠目にも庭の花々は、院の御所にあるという桜の古木にも負けないくらいの勢いだろうと思われた。
花に合わせて今日の冬子は雪の下襲を準備させた。
春もたけなわなのにおかしい、と少納言には言われたのだが、冬子は自分の意を通した。
院の御所の控えの間で更衣することを条件に、少納言は渋々許可した。
「宮様、御車のお支度が整いました」
夕刻、少納言付きの女房が迎えに来た。
冬子の側にいる少納言も付き添いで共に宴に招かれているので、新調した様子の袿をまとっていた。
「わかりました」
静かに立ち上がった。
いつものように少納言が先導するので先に進んでいく。
迎えに来た女房は冬子の後ろをついてくる。
「ねえ、少納言」
渡殿のあたりで立ち止まると、冬子は少納言の背中を呼んだ。
「宮様?」
いぶかしげに振り返る少納言。
「その昔、斎宮女御と呼ばれたお方がこんな歌を歌われたそうです」
「はい?」
「みな人の 背き果てぬる 世の中の ふるの社の 身をいかにせん」
「それは!」
少納言はぎょっとした。
それは、神に仕える斎宮は仏法に背く罪深い存在とされたことを背景に詠まれた歌であった。
「神にお仕えして、仏法に背いた私が御仏にお仕えすることができるのかしら?」
そう呟いた冬子は、いきなり階を降りると、庭の桜の元へ走り寄った。
「宮様!」
驚いた少納言と女房たちが冬子を止めようと階を降りたが、そこで足を止めた。
いや、止めざるをえなかった。
「近づかないで!」
冬子は胸元から短刀を取り出して鞘をはらうと、その白銀の刃を己の白い喉首に当てた。
「宮様!」
少納言の金切り声が桜の庭に響き渡った。
「道雅様との恋が許されぬのなら尼になります! お祖母様が出家された縁の尼寺に参ります!」
「だ、誰か! 誰かある! 宮様が、宮様がご乱心あそばされました!」
少納言の声に後押しされたかのように、冬子は迷わず一気に己の髪を肩先辺りで切った。
冬子の豊かな黒髪は、桃色の花びらと共に真っ白な表着の上に落ちていく。
冬子は花びらと共に散らばる己の髪を見て、ふと微笑んだ。
「まるであの日の壺庭みたいね」
黒に塗りつぶされた自分の足元。
それはまさに数年前の、兄が墨をぶちまけた光景と重なって見えたのだ。
冬子はその場に短刀を捨てると、帯に挟んでいたものを取り出した。
懐紙に丁寧に包まれたそれは、道雅の最後の文と一緒に届けられたものだ。
懐紙を開いて中のものを手のひらに載せた。
それは小さな丸薬だった。
開けた懐紙には見覚えのある手蹟でこう綴られていた。
『我が妻よ』
黒く丸い薬を冬子は一気に飲み干した。
そして桜の木を見上げた。
「道雅様、雪が降っておりますよ。まるで私と道雅様が出会った時のようですわね」
肩の上あたりで切られた髪が、暖かい春の風に吹かれてふわりと揺れる。
ゆっくりと幹にもたれかかった。
「冷えて参りましたわね」
我が身をそっと己の腕で抱いてみた。
「さあ道雅様、早く私に衵をかぶせて下さいな」
差し出した冬子の手に淡い紅色のひとかけらが落ちてきた。
触れても消えず、それどころかあの日の雪とは違い良い匂いがする。
「雪ってこんなにきれいな色で良い香りがしたかしら? 道雅様の衣の香りと同じ。甘い香りがいたします。なぜでしょう?」
背後から無粋な足音が迫ってきた。
道雅はあんなに乱れた足音で訪れたことはなかったはずだ。
そう思いながらもそれでも道雅かと思い、冬子は満面の笑みで振り返った。
その後の冬子の記憶は定かではない。
遠目にも庭の花々は、院の御所にあるという桜の古木にも負けないくらいの勢いだろうと思われた。
花に合わせて今日の冬子は雪の下襲を準備させた。
春もたけなわなのにおかしい、と少納言には言われたのだが、冬子は自分の意を通した。
院の御所の控えの間で更衣することを条件に、少納言は渋々許可した。
「宮様、御車のお支度が整いました」
夕刻、少納言付きの女房が迎えに来た。
冬子の側にいる少納言も付き添いで共に宴に招かれているので、新調した様子の袿をまとっていた。
「わかりました」
静かに立ち上がった。
いつものように少納言が先導するので先に進んでいく。
迎えに来た女房は冬子の後ろをついてくる。
「ねえ、少納言」
渡殿のあたりで立ち止まると、冬子は少納言の背中を呼んだ。
「宮様?」
いぶかしげに振り返る少納言。
「その昔、斎宮女御と呼ばれたお方がこんな歌を歌われたそうです」
「はい?」
「みな人の 背き果てぬる 世の中の ふるの社の 身をいかにせん」
「それは!」
少納言はぎょっとした。
それは、神に仕える斎宮は仏法に背く罪深い存在とされたことを背景に詠まれた歌であった。
「神にお仕えして、仏法に背いた私が御仏にお仕えすることができるのかしら?」
そう呟いた冬子は、いきなり階を降りると、庭の桜の元へ走り寄った。
「宮様!」
驚いた少納言と女房たちが冬子を止めようと階を降りたが、そこで足を止めた。
いや、止めざるをえなかった。
「近づかないで!」
冬子は胸元から短刀を取り出して鞘をはらうと、その白銀の刃を己の白い喉首に当てた。
「宮様!」
少納言の金切り声が桜の庭に響き渡った。
「道雅様との恋が許されぬのなら尼になります! お祖母様が出家された縁の尼寺に参ります!」
「だ、誰か! 誰かある! 宮様が、宮様がご乱心あそばされました!」
少納言の声に後押しされたかのように、冬子は迷わず一気に己の髪を肩先辺りで切った。
冬子の豊かな黒髪は、桃色の花びらと共に真っ白な表着の上に落ちていく。
冬子は花びらと共に散らばる己の髪を見て、ふと微笑んだ。
「まるであの日の壺庭みたいね」
黒に塗りつぶされた自分の足元。
それはまさに数年前の、兄が墨をぶちまけた光景と重なって見えたのだ。
冬子はその場に短刀を捨てると、帯に挟んでいたものを取り出した。
懐紙に丁寧に包まれたそれは、道雅の最後の文と一緒に届けられたものだ。
懐紙を開いて中のものを手のひらに載せた。
それは小さな丸薬だった。
開けた懐紙には見覚えのある手蹟でこう綴られていた。
『我が妻よ』
黒く丸い薬を冬子は一気に飲み干した。
そして桜の木を見上げた。
「道雅様、雪が降っておりますよ。まるで私と道雅様が出会った時のようですわね」
肩の上あたりで切られた髪が、暖かい春の風に吹かれてふわりと揺れる。
ゆっくりと幹にもたれかかった。
「冷えて参りましたわね」
我が身をそっと己の腕で抱いてみた。
「さあ道雅様、早く私に衵をかぶせて下さいな」
差し出した冬子の手に淡い紅色のひとかけらが落ちてきた。
触れても消えず、それどころかあの日の雪とは違い良い匂いがする。
「雪ってこんなにきれいな色で良い香りがしたかしら? 道雅様の衣の香りと同じ。甘い香りがいたします。なぜでしょう?」
背後から無粋な足音が迫ってきた。
道雅はあんなに乱れた足音で訪れたことはなかったはずだ。
そう思いながらもそれでも道雅かと思い、冬子は満面の笑みで振り返った。
その後の冬子の記憶は定かではない。
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