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発遣の儀
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長和三年(一〇一四年)長月。
冬子の二年の潔斎期間が過ぎた。
伊勢神宮の神嘗祭にあわせて、いよいよ伊勢へ下向ということになった。
昼過ぎから葛野川で大がかりな禊を行い、装束を整えると夜半には大極殿に入った。
冬子は内裏の南西、大極殿の斎王の座についていた。
正面には帝である父が座につき、その背後の屏風で隔てられた座には、時の関白左大臣・藤原道長がついている。
道長は儀式の後見人として座についているのだ。
これから斎王を伊勢に送る『発遣の儀』が行われるのだ。
「都の方に赴きたもうな」
私が御位にいる間は決して都に戻ってくるな、という慣例通りの言葉を父帝は悲しげに囁いた。
父である三条帝に手ずから別れの櫛を挿される。
二年ぶりに見る父帝は、御位に就かれる前よりもかなり老けた様子だった。
相変わらず病がちであられるのであろう。
くぼんだ眼窩がいっそう冬子の目には痛ましく映った。
じっと父と娘は見つめあった。
今日が父帝の顔を間近で見る最後になるかもしれないのだ。
次に父帝と会う時がいつになるのかは分からないし、生きている父帝の姿はもう二度と見られないかもしれない。
そのことに思い至って、父帝への視線が扇越しとはいえ、なかなか外せなかった。
「こほん……」
見届け人としてこの場に立ち会っていた道長が無情にも儀式を先へと促す。
この場は父帝と冬子だけではなかったのだ。
冬子は恨めしげに咳払いの主をちらとねめつけると、静かに立ち上がった。
一礼して殿の外へと歩みだす。
「宮!」
堪え切れずに帝が愛娘の小さな背中に声を掛けた。
そのあまりの切ない声に、冬子は背後を振り返ってしまった。
大極殿の外へ歩みだした斎王が帝を振り返ることは、許されないのが慣例なのである。
異例のことに、道長も一瞬、呆気にとられた。
「なぜ、そなたに決まってしまったのだ?」
三条帝は素早く新斎宮に近づくと、強く抱きしめた。
「父上様!」
冬子も父帝の背に手を回す。
「主上!」
道長の制止が空しく聞こえた。
病弱な父帝の、なおいっそう痩せた感じが両手に伝わって悲しかった。
最後の言葉も伝えられないまま引き裂かれてしまった道雅との縁も悲しかったが、実際に別れを伝えられる父帝との別れも悲しかった。
こんなに父帝は痩せてしまわれたのだ。
御位にあるとは、いかに過酷なものなのか。
その激務が察せられて涙が自然と溢れてくる。
ひとしきり別れを惜しんでから、ようやく外へ出た。
大極殿の外では葱花輦が待っていた。
葱花輦は、略儀の行幸の折にも用いられる輿である。
屋根の上にはその名の由来となっている金色の葱の花飾りが取り付けられている。
葱は邪気を払うものであり、またその花が長い間散らないことから、帝や皇后や皇太子のみが乗れる輿である。
そしてそれ以外の特例として、斎宮に卜定された内親王のみが乗れる輿でもある。
輿に設えられた座に座ると三方の帳が下げられ、静かに担ぎ上げられた。
背には障屏があるので、冬子はそっと背中をもたれさせた。
深夜にまで及んだ発遣の儀がやっと終わった。
「父上様……」
帳の中で、再び涙がこみ上げてくる。
「道雅様……」
愛しい公達の名を小さく呟くと、涙が後押しされたようだ。
輿を中心にして多くの人々が歩みを進めていたが、直接、その人々の視線を受けることはない。
だから冬子は、袖に自らの顔を押し当てながら、さめざめと泣いた。
もっと声をあげて泣き叫びたかったのだが、さすがにそれは輿の周囲を徒歩で随行している女房たちも気づくだろうと思って出来なかった。
夜が明けても冬子の涙が涸れることはなかった。
「父君、斎宮様のご様子はいかがでしたか?」
冬子が発遣の儀を終えた後のこと。
道長は自邸に息子・頼通を迎えていた。
「ああ。他の内親王様や女王様方とは違って、なかなか意志の強い目を持っておられた」
「そうですか」
「斎宮は発遣の儀を終えて退出される時には振り返らない、という慣例を主上のお声に反応されて振り返られてな」
「それは……」
「私も驚いた。早く外へ行けと促して差し上げたら、それは厳しい目で睨まれてな。あのご気性なら大丈夫だ」
頼通は面を伏せてそっとため息をついた。
そうか父の目に叶ったのだ新斎宮は。
いや、叶ってしまったのだ。
「以後、道雅の動向をおこたるでないぞ」
「かしこまりました」
頼通は丁寧に一礼すると父・道長の前を辞した。
冬子の二年の潔斎期間が過ぎた。
伊勢神宮の神嘗祭にあわせて、いよいよ伊勢へ下向ということになった。
昼過ぎから葛野川で大がかりな禊を行い、装束を整えると夜半には大極殿に入った。
冬子は内裏の南西、大極殿の斎王の座についていた。
正面には帝である父が座につき、その背後の屏風で隔てられた座には、時の関白左大臣・藤原道長がついている。
道長は儀式の後見人として座についているのだ。
これから斎王を伊勢に送る『発遣の儀』が行われるのだ。
「都の方に赴きたもうな」
私が御位にいる間は決して都に戻ってくるな、という慣例通りの言葉を父帝は悲しげに囁いた。
父である三条帝に手ずから別れの櫛を挿される。
二年ぶりに見る父帝は、御位に就かれる前よりもかなり老けた様子だった。
相変わらず病がちであられるのであろう。
くぼんだ眼窩がいっそう冬子の目には痛ましく映った。
じっと父と娘は見つめあった。
今日が父帝の顔を間近で見る最後になるかもしれないのだ。
次に父帝と会う時がいつになるのかは分からないし、生きている父帝の姿はもう二度と見られないかもしれない。
そのことに思い至って、父帝への視線が扇越しとはいえ、なかなか外せなかった。
「こほん……」
見届け人としてこの場に立ち会っていた道長が無情にも儀式を先へと促す。
この場は父帝と冬子だけではなかったのだ。
冬子は恨めしげに咳払いの主をちらとねめつけると、静かに立ち上がった。
一礼して殿の外へと歩みだす。
「宮!」
堪え切れずに帝が愛娘の小さな背中に声を掛けた。
そのあまりの切ない声に、冬子は背後を振り返ってしまった。
大極殿の外へ歩みだした斎王が帝を振り返ることは、許されないのが慣例なのである。
異例のことに、道長も一瞬、呆気にとられた。
「なぜ、そなたに決まってしまったのだ?」
三条帝は素早く新斎宮に近づくと、強く抱きしめた。
「父上様!」
冬子も父帝の背に手を回す。
「主上!」
道長の制止が空しく聞こえた。
病弱な父帝の、なおいっそう痩せた感じが両手に伝わって悲しかった。
最後の言葉も伝えられないまま引き裂かれてしまった道雅との縁も悲しかったが、実際に別れを伝えられる父帝との別れも悲しかった。
こんなに父帝は痩せてしまわれたのだ。
御位にあるとは、いかに過酷なものなのか。
その激務が察せられて涙が自然と溢れてくる。
ひとしきり別れを惜しんでから、ようやく外へ出た。
大極殿の外では葱花輦が待っていた。
葱花輦は、略儀の行幸の折にも用いられる輿である。
屋根の上にはその名の由来となっている金色の葱の花飾りが取り付けられている。
葱は邪気を払うものであり、またその花が長い間散らないことから、帝や皇后や皇太子のみが乗れる輿である。
そしてそれ以外の特例として、斎宮に卜定された内親王のみが乗れる輿でもある。
輿に設えられた座に座ると三方の帳が下げられ、静かに担ぎ上げられた。
背には障屏があるので、冬子はそっと背中をもたれさせた。
深夜にまで及んだ発遣の儀がやっと終わった。
「父上様……」
帳の中で、再び涙がこみ上げてくる。
「道雅様……」
愛しい公達の名を小さく呟くと、涙が後押しされたようだ。
輿を中心にして多くの人々が歩みを進めていたが、直接、その人々の視線を受けることはない。
だから冬子は、袖に自らの顔を押し当てながら、さめざめと泣いた。
もっと声をあげて泣き叫びたかったのだが、さすがにそれは輿の周囲を徒歩で随行している女房たちも気づくだろうと思って出来なかった。
夜が明けても冬子の涙が涸れることはなかった。
「父君、斎宮様のご様子はいかがでしたか?」
冬子が発遣の儀を終えた後のこと。
道長は自邸に息子・頼通を迎えていた。
「ああ。他の内親王様や女王様方とは違って、なかなか意志の強い目を持っておられた」
「そうですか」
「斎宮は発遣の儀を終えて退出される時には振り返らない、という慣例を主上のお声に反応されて振り返られてな」
「それは……」
「私も驚いた。早く外へ行けと促して差し上げたら、それは厳しい目で睨まれてな。あのご気性なら大丈夫だ」
頼通は面を伏せてそっとため息をついた。
そうか父の目に叶ったのだ新斎宮は。
いや、叶ってしまったのだ。
「以後、道雅の動向をおこたるでないぞ」
「かしこまりました」
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