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出会い
しおりを挟む 白く冷たい欠片が降っていた。
綿毛のごとく軽いそれは、簀子に座っている幼い冬子の頭にも肩にも、例外なく降り注いでいた。
冬子が着こんでいた胡桃色の汗衫は、もうそれとはわからないほど白に融けている。
冬子はじっと空を見上げていた。
空は果てなく真っ白で、どこからこの白いものが降ってくるのかはわからないくらいだ。
「どんどん降ってくる」
そっと小さな手のひらを上に向ける。
一片の濁りのないものが、はらりと落ちてはすっと消える。
「消えていく」
濡れた手のひらを見つめたまま、ぽつりと呟く。
どれくらい両の手を出し続けてきたのか、とうに指の感覚がなくなった頃、白一色だった視界が突然濃い紅色に遮られた。
「お探しいたしましたよ。女一の宮様」
珍しく改まった呼び方をされた。
声はとても穏やかだ。
(知らない声だ)
冬子は、十年ほど前に現・東宮と宣耀殿女御との間に生まれた。
最初に生まれた姫宮ということで、女一の宮、御名を当子内親王とされた。
だが、普段は周囲からは冬生まれということから『冬子』と呼ばれている。
古来より言葉には『言霊』が宿ると言われ、真の名を口に出して呼ぶことは避けられている。特に女人は重要な儀式などの時くらいしか本名を呼ばれることがない。
だから冬子の側に仕えている女房たちも父や夫の官職を名乗っている。
「誰?」
冬子は自分に掛けられた衣の下から顔を覗かせる。
視界を覆っていたのは、濃紅といわれる色の衵であった。
見上げると、そこには冬子の知らない公達が立っていた。
公達はこの季節特有の桜の直衣を鮮やかに着こなしている。
年の頃は、十七歳になる冬子の兄より少し年上というくらいだろうか。
ただ、兄はいつも青白い顔をしているのに、その公達はこの寒さにも関わらず健康そうな顔立ちをしていた。
「申し遅れました」
そう言うと公達は冬子の前に膝を折る。
「私は、正五位下蔵人兼右近衛少将藤原道雅と申します」
さらりと名前まで名乗ったのは、冬子が東宮の娘だと知っているからだろうか。
「右近少将様?」
「さようにございます」
道雅は、にこりと微笑んだ。
「少将様がどうして私を探していらっしゃるの?」
乳母や冬子付きの女房達ならわかるが。
「宮様は、ご自分のお部屋の床を抜け出されませんでしたか?」
冬子は素直に頷いた。
明け方から初雪が降り積もっているということで、冬子は庭へ出たくて仕方がなかった。
しかし、乳母の中将に、
「恐れながら宮様の父君様や兄君様方は、お体の弱い御方にあらせられます。このようなお寒い日に庭へなど出られたら、普段お元気な宮様といえども、お熱を出される騒ぎになるやもしれません。ですから……」
などと、延々とお説教を聞かされたのだ。
だが中将のお説教で諦めてしまうほど、冬子は物分かりの良い姫宮ではなかった。
案の定、御帳台で休んだふりをしてはいたものの、中将が手水に立った途端に抜け出してきたのだ。もちろん、御帳台の中に己の衣の塊を置いて寝ているかのように見せかけることも忘れなかった。
「それでどうして少将様が私をお探しに?」
「私は上司にあたる右近衛中将藤原頼通様のお供で、宣耀殿女御様にご挨拶に参りましたのでございます」
「母上様のお客様だったの?」
「はい。初雪のご挨拶がてら、このたび東宮様の元に中将様の二番目の妹君様が入内されますので、その先触れというところでございましょうか」
冬子の最初の問いに対する答えが一向に返ってこない。
「それで?」
焦れて先を促す。
「それで私は、中将様が女御様とお話をなさっている間、控えの間にて待たせて頂いていた
のですが」
「もしかして中将と会ったの?」
最後まで待てなくて、とうとう冬子は重ねて尋ねた。
「はい。皆さま、客人が来られているということで気を付けておられたようでしたが、慌ただしく渡殿を歩かれる音がいたしましたので外に出ましたら、宮様をお探しになっておられる女房衆と出会いまして」
「私を探すのを手伝うって言ったの?」
ええ、と道雅は頷いた。
「そう。でも、どうしてここにいるってわかったの?」
道雅はこの屋敷を初めて訪れたはずだ。
「偶然ですよ。でもこちらは宮様のお部屋からはかなり離れているとは思いますが」
「そうなの。ここは母上様のお部屋なの」
冬子は、常には西の対屋に妹と住んでいて、兄や弟たちは東の対屋に住んでいるのだ。東と西の対屋を渡殿で繋げている寝殿には、屋敷の主である冬子の母、宣耀殿女御が住んでいるのだ。
今朝は母に客人が来るから寝殿には行かないようにとは聞いていたが、逆に客人と会う部屋に母はいるはずだから部屋にはいないだろうと思って、こっそりお気に入りの庭が見える廊に座っていたのだ。
「もうこんなに冷たくなっておられる。さあ、お部屋へ戻りましょう。乳母殿もお待ちですよ」
道雅は衵で冬子を包みこむと、そっと抱き上げた。
「待って!」
道雅の腕の中で小さく身じろぎする。
「どうしたのですか?」
「もう少し雪を見ていたいの」
そう言って空へ手を伸ばす。
「だめ?」
冬子の願いに道雅は困ったような顔をして一言。
「わかりました。しかし、少しだけですよ」
道雅は冬子を抱えたまま簀子に座りなおした。
「空が真っ白」
「そうですね」
「空からお庭までずっと真っ白。何も色がない」
「はい」
「音もない。静かね」
そっと耳に手を当てる。
「宮様は雪がお好きですか?」
「ええ大好き。白くて冷たくて触れると消えてしまう」
雪は幼い冬子から見てもとても儚いものだった。
道雅も空を見上げた。
朝早くから降り始めた雪は、やむどころか、ますます降り積もってきている。その粒は、大きくなってくる一方だ。
「去年の初雪の日にね、末のお兄様が手習いを教えに来られていた僧都と大喧嘩をなさったの」
冬子は思い出すように目を閉じた。
綿毛のごとく軽いそれは、簀子に座っている幼い冬子の頭にも肩にも、例外なく降り注いでいた。
冬子が着こんでいた胡桃色の汗衫は、もうそれとはわからないほど白に融けている。
冬子はじっと空を見上げていた。
空は果てなく真っ白で、どこからこの白いものが降ってくるのかはわからないくらいだ。
「どんどん降ってくる」
そっと小さな手のひらを上に向ける。
一片の濁りのないものが、はらりと落ちてはすっと消える。
「消えていく」
濡れた手のひらを見つめたまま、ぽつりと呟く。
どれくらい両の手を出し続けてきたのか、とうに指の感覚がなくなった頃、白一色だった視界が突然濃い紅色に遮られた。
「お探しいたしましたよ。女一の宮様」
珍しく改まった呼び方をされた。
声はとても穏やかだ。
(知らない声だ)
冬子は、十年ほど前に現・東宮と宣耀殿女御との間に生まれた。
最初に生まれた姫宮ということで、女一の宮、御名を当子内親王とされた。
だが、普段は周囲からは冬生まれということから『冬子』と呼ばれている。
古来より言葉には『言霊』が宿ると言われ、真の名を口に出して呼ぶことは避けられている。特に女人は重要な儀式などの時くらいしか本名を呼ばれることがない。
だから冬子の側に仕えている女房たちも父や夫の官職を名乗っている。
「誰?」
冬子は自分に掛けられた衣の下から顔を覗かせる。
視界を覆っていたのは、濃紅といわれる色の衵であった。
見上げると、そこには冬子の知らない公達が立っていた。
公達はこの季節特有の桜の直衣を鮮やかに着こなしている。
年の頃は、十七歳になる冬子の兄より少し年上というくらいだろうか。
ただ、兄はいつも青白い顔をしているのに、その公達はこの寒さにも関わらず健康そうな顔立ちをしていた。
「申し遅れました」
そう言うと公達は冬子の前に膝を折る。
「私は、正五位下蔵人兼右近衛少将藤原道雅と申します」
さらりと名前まで名乗ったのは、冬子が東宮の娘だと知っているからだろうか。
「右近少将様?」
「さようにございます」
道雅は、にこりと微笑んだ。
「少将様がどうして私を探していらっしゃるの?」
乳母や冬子付きの女房達ならわかるが。
「宮様は、ご自分のお部屋の床を抜け出されませんでしたか?」
冬子は素直に頷いた。
明け方から初雪が降り積もっているということで、冬子は庭へ出たくて仕方がなかった。
しかし、乳母の中将に、
「恐れながら宮様の父君様や兄君様方は、お体の弱い御方にあらせられます。このようなお寒い日に庭へなど出られたら、普段お元気な宮様といえども、お熱を出される騒ぎになるやもしれません。ですから……」
などと、延々とお説教を聞かされたのだ。
だが中将のお説教で諦めてしまうほど、冬子は物分かりの良い姫宮ではなかった。
案の定、御帳台で休んだふりをしてはいたものの、中将が手水に立った途端に抜け出してきたのだ。もちろん、御帳台の中に己の衣の塊を置いて寝ているかのように見せかけることも忘れなかった。
「それでどうして少将様が私をお探しに?」
「私は上司にあたる右近衛中将藤原頼通様のお供で、宣耀殿女御様にご挨拶に参りましたのでございます」
「母上様のお客様だったの?」
「はい。初雪のご挨拶がてら、このたび東宮様の元に中将様の二番目の妹君様が入内されますので、その先触れというところでございましょうか」
冬子の最初の問いに対する答えが一向に返ってこない。
「それで?」
焦れて先を促す。
「それで私は、中将様が女御様とお話をなさっている間、控えの間にて待たせて頂いていた
のですが」
「もしかして中将と会ったの?」
最後まで待てなくて、とうとう冬子は重ねて尋ねた。
「はい。皆さま、客人が来られているということで気を付けておられたようでしたが、慌ただしく渡殿を歩かれる音がいたしましたので外に出ましたら、宮様をお探しになっておられる女房衆と出会いまして」
「私を探すのを手伝うって言ったの?」
ええ、と道雅は頷いた。
「そう。でも、どうしてここにいるってわかったの?」
道雅はこの屋敷を初めて訪れたはずだ。
「偶然ですよ。でもこちらは宮様のお部屋からはかなり離れているとは思いますが」
「そうなの。ここは母上様のお部屋なの」
冬子は、常には西の対屋に妹と住んでいて、兄や弟たちは東の対屋に住んでいるのだ。東と西の対屋を渡殿で繋げている寝殿には、屋敷の主である冬子の母、宣耀殿女御が住んでいるのだ。
今朝は母に客人が来るから寝殿には行かないようにとは聞いていたが、逆に客人と会う部屋に母はいるはずだから部屋にはいないだろうと思って、こっそりお気に入りの庭が見える廊に座っていたのだ。
「もうこんなに冷たくなっておられる。さあ、お部屋へ戻りましょう。乳母殿もお待ちですよ」
道雅は衵で冬子を包みこむと、そっと抱き上げた。
「待って!」
道雅の腕の中で小さく身じろぎする。
「どうしたのですか?」
「もう少し雪を見ていたいの」
そう言って空へ手を伸ばす。
「だめ?」
冬子の願いに道雅は困ったような顔をして一言。
「わかりました。しかし、少しだけですよ」
道雅は冬子を抱えたまま簀子に座りなおした。
「空が真っ白」
「そうですね」
「空からお庭までずっと真っ白。何も色がない」
「はい」
「音もない。静かね」
そっと耳に手を当てる。
「宮様は雪がお好きですか?」
「ええ大好き。白くて冷たくて触れると消えてしまう」
雪は幼い冬子から見てもとても儚いものだった。
道雅も空を見上げた。
朝早くから降り始めた雪は、やむどころか、ますます降り積もってきている。その粒は、大きくなってくる一方だ。
「去年の初雪の日にね、末のお兄様が手習いを教えに来られていた僧都と大喧嘩をなさったの」
冬子は思い出すように目を閉じた。
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