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1巻
1-2
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「分かったわ。ジェスライール殿下に『かりそめの番』が必要なことは」
フィリーネはうんうんと頷いたあと、コール宰相の顔を探るように見つめた。
「分からないのは、なぜ私が選ばれたのかということよ。おじ様もご存知の通り、うちは没落寸前で貴族と言っても名ばかりだわ。もっと適任の令嬢が他にいくらでもいるでしょうに」
フィリーネが目の覚めるような美人ならともかく、あいにく少々見られる程度の容姿でしかない。並みいる令嬢たちを押しのけて自分が選ばれる理由が思いつかなかった。
「確かに貴族令嬢は他にもたくさんいる。だがな、めぼしい令嬢は殿下とすでに顔を合わせているんだ。今さら殿下の番とするには少々不都合でな……」
コール宰相が深いため息をつく。
竜族は相手を一目見れば番かどうか分かるのだという。初めて会った時点で何も言わなかったのに、今になって番だと言い出すのは確かにおかしい。
ジェスライール王子が二十歳を過ぎても番を見いだせないことで、呪いのことを知らない重臣たちは焦り、事あるごとに大勢の令嬢を城に招いていたらしい。そのことが裏目に出ているのだという。
「彼らは舞踏会や茶会、若い令嬢たちの社交界デビューの場にまで殿下を引っ張り出して、顔を合わせる機会を設けていた。呪いのことは極秘だから反対するわけにもいかなくてなぁ。おかげで殿下に目通りしていない娘を見つけるのが大変で……」
コール宰相はしみじみと呟いた。ジェスライール王子と顔を合わせていない令嬢をなんとか探し出そうと、苦労してきたことが分かる。
ところが突然グッと拳を握ると、コール宰相はフィリーネを意味ありげに見つめた。フィリーネはうっと身を引く。
「だが、私は思い出したんだ。まだ殿下に顔を合わせていない高位の貴族令嬢がいることを! フィリーネ、君のことだよ!」
「こんな時だけ思い出さなくていいです!」
「国の存亡がかかっておるのだ! ほれ、この通り! 殿下の番として王太子妃になってくれ!」
ソファから滑り落ちるようにして跪くと、コール宰相はいきなり土下座をした。これにはフィリーネはおろか両親までもが仰天する。
「やめてよ、おじ様!」
「お、おい、メルヴィン」
「メルヴィン様……」
「頼む、フィリーネ。私やこの国を助けると思って、引き受けてくれ!」
地面に頭を擦りつけてコール宰相は訴える。
「ちょ、ちょっと、ちょっと!」
これはあまりに卑怯な頼み方ではないかとフィリーネは思った。
「頭を上げてよ、おじ様! 情に訴えるやり方は酷いと思うんですけど! だいたい、殿下と会ったことがない人は私の他にもたくさんいるはずです」
王族の番は身分を問われない。つまり貴族でなくたって構わないのだ。平民の中になら、ジェスライール王子と顔を合わせたことがない娘は山ほどいるだろう。
「王都に美人で働き者だと評判の娘はいないんですか? そういう娘を殿下が見初めたことにすれば、こんな田舎の没落貴族を番にするよりよっぽど説得力が……」
「もちろん本物の番なら平民でも構わないが、かりそめの番となるとそうはいかんのだ。万が一偽物だと知られようものなら、その娘の命が危うい」
もし本物の番でないとバレても、侯爵令嬢という身分がフィリーネを守ってくれる。貴族に危害を加えれば重い罪に問われるからだ。コール宰相はそう言いたいらしい。
「それにキルシュ侯爵家には、かつて王族が降嫁なさっている。フィリーネが王族の血を継いでいることも重要なんだ」
そこでキルシュ侯爵が異議を唱える。
「でもね、メルヴィン。時の王女殿下が我が家に嫁いできたのは、もう四百年も五百年も前のことだよ? 王族の血なんかとっくに薄れて……」
「それがそうでもないんだ」
コール宰相が、がばっと上半身を起こした。
「知っての通り、竜王陛下は金色の鱗を持っていて、人の姿の時も髪と瞳は金色だったそうだ。その名残で、王族はほぼ例外なく金色の髪か瞳を持って生まれる。そしてフィリーネの琥珀色の瞳、これも王族の血を引く者には稀に表れる特徴らしい。いわゆる先祖返りだな。さらにフィリーネには『力』があるとジェスライール殿下は仰っている。そのこともあって、フィリーネが王太子妃に適役だと――」
「待って、おじ様。誰が仰っているですって?」
この琥珀色の目が先祖返りだの、自分には力があるだのと、色々気になることを言われた。だが、一番気になったのはそのことだった。
「ジェスライール殿下だよ、もちろん」
「は? なんで殿下がそんなことを知っているの? 会ったこともないのに」
「ああ、候補に挙がった女性たちを、ジェスライール殿下はわざわざ確認しに行かれたそうだ。そしてフィリーネを見た時、微かな魔力があるのを感じたらしく、それが決め手となった。フィリーネを王太子妃に迎えたいと、ジェスライール殿下が自ら選んでくださったのだぞ? 名誉なことじゃないか」
「殿下は、いつ私を確認したというの?」
知らぬ間にこそこそ見られて値踏みされていたのだから、フィリーネとしてはいい気分はしない。
コール宰相は床に座り込んだまま首を傾げる。
「さぁ? 殿下は不思議な力をお持ちだからだな。気になるなら直接殿下に尋ねればいい。フィリーネにならお答えくださるだろう」
「……王太子妃になることを承知してはいないんですけど」
「フィリーネにとっても悪くない話だぞ? このまま田舎に引っ込んでいても、嫁のもらい手はない」
「それは……」
痛いところを突かれてフィリーネはぐっと詰まった。それを見たコール宰相の顔に狡猾そうな笑みが浮かぶ。
「もし王太子妃になることを承知してくれるのなら、悪いようにはしない。何よりキルシュ侯爵家は王太子妃の実家になるのだから、国から充分な資金援助を受けられるぞ」
「資金援助……?」
「うむ。毎月五百万ルビーでどうだ?」
キラリと目を光らせながら、コール宰相は具体的な数字を挙げた。
「毎月五百万ルビー!?」
フィリーネは思わず声をあげた。ルビーというのは、この国で一番高額な通貨だ。五百万ルビーともなれば、キルシュ侯爵家の年収に相当する。
毎月五百万ルビーが入るのならば、家の修繕もできるし、ベンたちに給料を支払っても余裕で余る。失って久しい土地も買い戻せるかもしれない。
フィリーネはごくりと喉を鳴らした。
――私が王太子妃になるのを承知すれば、もうお金の心配はなくなる……
フィリーネの心がぐらぐらと揺れていることに気づいたコール宰相は、さらに畳みかける。
「心配いらない。王太子妃と言ってもお飾りの妃でいいんだ。今の王妃陛下は精力的に政務をこなされているが、フィリーネ自身が望まなければそれに倣う必要はない。それに――」
コール宰相の口元に笑みが浮かぶ。フィリーネを生まれた時から知っているので、彼女の心を動かす術を充分心得ていた。
「国王陛下によれば、殿下の呪いを解く方法がないわけではないそうだ。殿下の呪いが解けて本物の番が見つかれば、フィリーネが王太子妃でい続ける必要はない」
「……つまり、期間限定の王太子妃だというわけね?」
フィリーネの呟きに、コール宰相はしたり顔で頷いた。
「そうとも。単に宮殿に雇われただけと思ってくれればいいんだ」
単に宮殿に雇われただけ。その言葉は妙にフィリーネの心に響いた。
確かに、王太子妃になる代わりに資金援助を受けられるのだから、お金で雇われたとも言える。
それにジェスライール王子の呪いが解けて真の番が見つかれば、フィリーネの役目は終わるのだ。
「フィリーネ……」
両親が心配そうに見ていることに気づかず、フィリーネは胸算用をする。コール宰相の術中にまんまと嵌っていることも知らずに。
しばし考え込んだあと、フィリーネは顔を上げた。
「分かったわ。王太子妃になります。その代わり資金援助の件、忘れないでね、おじ様」
「じゃあ、十日後に迎えが来るからな」
フィリーネの返事を聞くやいなや、そう言い残してコール宰相は帰っていく。
彼を乗せた馬車と護衛の兵士たちを玄関先で見送りながら、フィリーネはふと思った。
――ジェスライール殿下は、どうして「沈黙の森の魔女」に呪われたのかしら?
コール宰相が言ったのは魔女に呪われたという事実だけ。原因については一切言及しなかった。
――まぁ、次に会った時でいいか。
そうのんきに考えるフィリーネは、コール宰相がいくつもの重要な事実をわざと隠したことにまだ気づいていなかった。彼がそそくさと帰ったのは、それについて質問されたくなかったからだということにも。
馬車の姿が見えなくなると、両親が心配そうに声をかけてきた。
「フィリーネ。私たちのことなら気にしなくていいんだぞ? いっそ貴族をやめて農夫になっても構わんし」
「そうよ。王太子妃になるのはとても大変なことだわ。私たちのためにあなたが重い責任を背負う必要はないのよ」
今ならまだ間に合うと口をそろえるキルシュ侯爵夫妻に、フィリーネは微笑んだ。
「大丈夫よ。王太子妃になるって言ってもお飾りでいいんだもの。殿下に真の番が現れるまでのことだしね。……それに」
言うべきかどうか迷いながらも、結局フィリーネは口にした。
「おじ様はあんなふうに土下座までしてくれたけど、本来ならこれは断れない話なのでしょう? 違う?」
「それは……」
キルシュ侯爵は言いよどんだ。
コール宰相は土下座して頼み込み、破格の条件まで示してくれたが、そこまでする必要はなかった。彼はたったひとこと口にするだけでよかったのだ。――これは王命だと。
そう言われてしまえばフィリーネたちに逆らうことはできなかっただろう。コール宰相が王命だと言わなかったのは、キルシュ侯爵家への気遣いに他ならない。
「おじ様がそこまで配慮してくれたんだから、今さら嫌だなんて言えないわ。それに、私はキルシュ家だけじゃなくて、ここが好きなの。土地や領民がね。私が王太子妃になることで、みんなの暮らしが楽になるなら、こんなに嬉しいことはないわ」
侯爵家にお金がないばかりに、領民たちにも不便な生活をさせているという現実を、フィリーネは知っていた。
川が増水して橋が流されても、その建て直しすらままならないのだ。領民たちが木を切り出し、粗末な橋をつくって急場を凌いでいるが、また洪水が起こればすぐに流されてしまう。
お金。お金さえあれば……。フィリーネはずっとそう思っていた。
喉から手がでるほど欲しいお金が、王太子妃になれば手に入る。どうして引き受けずにいられるだろうか。
「王都ではおじ様が色々助けてくれるはずだし、お飾りの王太子妃としてのんびり過ごすつもりよ。生まれてこの方贅沢なんてしたことがないから、楽しみだわ」
フィリーネはいつも以上に明るく笑った。
もちろん、偽りの番を演じなければならないのだから、そう気楽にはいかないだろう。でも、どんなに辛い目に遭ったとしても、キルシュ家と領地のことを思えば耐えられる。
「だから、私のことは心配しないで」
「フィリーネ……」
笑顔と言葉の裏に隠されたフィリーネの不安。それを分かっているのか、両親の表情が晴れることはなかった。
* * *
『十日後に迎えが来る』
その言葉通りにきっちり十日後、キルシュ侯爵邸の玄関先には王家の紋章が入った四頭引きの馬車と、馬に乗った護衛の兵士たちが並んでいた。
持っている服の中で一番上等なシュミーズドレスを着込み、私室の窓から外を眺めていたフィリーネは、予想以上に大げさな迎えに顔をしかめる。
――てっきり密かなお迎えだと思っていたのに。
これでは王族に縁のある重要人物が乗っていると、大声で主張しているようなものだ。
確かに「番」は重要だが、これほど大々的にする必要はあるのだろうか?
そう思っていたフィリーネだが、馬車の中から現れた人物を見てハッとした。
扉から出てきたのは、軍服らしき服を身に纏った青年だ。明るい金色の髪が日に照らされてキラキラと輝いている。
――まさか!?
三階の窓からでは顔がよく見えない。けれど、王家の馬車から堂々と出てきた様子といい、伝え聞いていた容姿と一致する点といい、どう考えても「あの方」としか思えなかった。
――どうしよう。お父様からは、呼ばれるまで部屋で待機していろと言われたけれど……
フィリーネはそわそわと部屋の中を歩き回る。思いもかけない事態になり、故郷を離れることへの寂寥感は一気に吹き飛んでいた。
しばらくするとヘザーが慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
「た、大変です、お嬢様! 殿下が! ジェスライール殿下が来ておられます!」
――やっぱり……!
王家の紋章が入った馬車で来るのも、大勢の兵士を引き連れているのも当然だ。王太子本人が迎えに来たのだから。
「すぐに行くわ」
「お嬢様が来るのを待ちきれず、自ら迎えに来られたそうですよ。愛されていますね、お嬢様」
ヘザーは嬉しそうに顔をほころばせる。彼らが知っているのは、フィリーネがジェスライール王子の「番」に選ばれたということだけだ。
『なんという幸運でしょう! お嬢様がいなくなるのは寂しいですが、このままお嫁にも行かず田舎でひっそり暮らされるのかと心配しておりましたので、喜ばしいことです』
何も知らない二人はフィリーネに降って湧いた幸運(と彼らは思っている)を喜んでくれた。彼らを騙すのは心苦しいが、真実を告げることはできない。
フィリーネはヘザーの皺だらけの手を取って言った。
「下では話す余裕がないかもしれないから、ここで言っておくわ。ヘザー、お父様たちのことをお願いね」
「お嬢様……。はい、旦那様たちのことはご心配なさらず。おかげさまで使用人も増えましたし、家のことは私たちがしっかり守りますから」
ヘザーは目を潤ませてフィリーネの手を握り返す。
コール宰相がやってきた日の三日後、キルシュ侯爵家には支度金としてかなりの大金と、宰相が手配した使用人たちが届けられた。それだけでなく、家の修理工まで大勢派遣されてきたのだ。
彼らの素晴らしい働きにより、荒れ放題だった屋敷は見違えるように綺麗になり、往年の姿を取り戻している。
ありがたいことだが、そんなコール宰相の気配りもフィリーネを逃がさないためだと分かっているだけに、どうにも追い込まれている感じがして仕方なかった。それは両親も同じだろう。
でも言い換えると、王宮はそれだけ「番」を必要としているということでもある。だからフィリーネが「かりそめの番」の役目を果たしてさえいれば、コール宰相は約束を守ってくれるはずだ。
――だから、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、ヘザーと一緒に玄関ホールに下りる。そしてフィリーネは、ホールの一角を占める華やかな集団に目を奪われた。
華やかというより壮麗と言った方がいいかもしれない。剣を腰に差し、一糸乱れぬ様子で立ち並ぶ上級兵士たち。その中心にいるのは、青の軍服を身に纏ったジェスライール王子だ。
すらりと背が高く、一見細身だが、その立ち姿は周囲の兵士たちに少しも見劣りしていない。それどころか、ただ立っているだけで品格と威厳が伝わってくる。
その姿に圧倒されて、フィリーネは声も出せなかった。階段を下りきったところで足も止まってしまう。本当だったらジェスライール王子に自分から声をかけて、淑女の礼を取らなければならないのに。
立ち尽くしたままのフィリーネに気づき、ジェスライール王子が微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「フィリーネ」
やや長めの金髪に、明るい水色の瞳。若い頃のジークフリード国王とよく似た端整な顔の持ち主で、元帥として軍の頂点に立っている。だが気質はいたって穏やかで、老若男女から広く支持されている――というのが、フィリーネの知っているジェスライール王子の情報だ。
それに、少年の頃の絵姿を見たこともある。王族に心酔しているコール宰相――当時はまだ宰相ではなかったが――が、王族一家が描かれた絵を贈ってくれたからだ。それは田舎にいて王族の姿を知る機会がないフィリーネのためだった。
けれど、どうやらあの絵はジェスライールの煌びやかさや美しさを描ききれていなかったようだ。すっと通った鼻筋も、長いまつ毛も、色気すら感じられる口元も、あの絵にはないものだった。
――これなら、貴族女性たちが騒ぐのも無理はないわね。
徐々に近づいてくる美貌に目を見張りながら、フィリーネはそんなことを考えていた。
「フィリーネ。僕の『番』」
目の前に立ったジェスライールは、水色の目に甘い光を浮かべてフィリーネの手を取る。
「え?」
「君を迎えられるこの時を待っていたよ」
やや掠れた声で優しく囁かれ、フィリーネは混乱した。
――い、一体何が起こっているの?
けれど、彼の口元に浮かんだいたずらっぽい笑みに気づいて納得する。
――ああ、そうか。これはお芝居なんだ。
玄関ホールには兵士たちだけでなく、キルシュ侯爵夫妻や使用人たちも集まっていた。この中で真実を知っているのはフィリーネと侯爵夫妻、それにジェスライールを含めてもわずか数人だけだろう。
つまり大部分の人間にとって、フィリーネはジェスライールが待ち望んでいた「番」なのだ。ジェスライールはただ周囲の人々が期待する姿を演じているだけに過ぎない。
それならフィリーネも同じように振る舞うだけだ。なぜならジェスライールと自分はある意味、運命共同体なのだから。
「お迎えありがとうございます、殿下。私が『番』だなんてまだ信じられませんが、どうか末永くよろしくお願いいたします」
「君は紛れもなく僕の運命の伴侶だ。こうして出会えたことを神に感謝しよう」
番を見いだすことができない王族と、その「かりそめの番」。これから自分たちは、こんなふうに周囲の人々を騙していかなければならないのだ。
「フィリーネ……」
キルシュ侯爵夫妻がおずおずと近づいてくる。それに気づいたフィリーネは、ジェスライールの手を放して両親に向き直った。
「お父様、お母様、行ってきます」
フィリーネが微笑むと、両親は悲痛な顔をした。
「気をつけてね。私たちのことは気にしなくていいから」
「そうだぞ。領地や領民も大事だけれど、フィリーネ以上に大切なものなんかないんだからな」
「お父様、お母様……」
フィリーネの目に涙が浮かぶ。自分で決めたこととはいえ、二人の傍を離れるのはとても辛かった。
「心配なさらないでください。キルシュ侯爵、それに侯爵夫人」
その声と共に、不意に肩に手を置かれた。フィリーネは驚く間もなく、ジェスライールの胸に抱き寄せられる。その瞬間、馴染みのある匂いがふわりと鼻を通り抜けた。
――水の匂い?
フィリーネは不思議に思ったが、次のジェスライールの言葉に気を取られ、匂いのことはすぐに忘れてしまう。
「彼女は僕が必ず守ります。……どんなことからも」
その声は低く、真摯な響きを帯びていた。だが、言葉の本当の意味に気づいた人間はどれほどいるだろうか。
キルシュ侯爵夫妻はもちろん気づいていた。そしてフィリーネも。
「どうか、くれぐれも娘を頼みます、ジェスライール殿下」
深々と頭を下げるキルシュ侯爵夫妻。ジェスライールはフィリーネを胸に抱いたまま力強く頷いた。
「行ってらっしゃい、お嬢様!」
「お元気で! 殿下、お嬢様をお頼み申し上げます!」
駆けつけた領民たちが見守る中、フィリーネはジェスライールに手を引かれて馬車へ向かう。
途中で何度も足を止め、集まった領民や両親たちを、そして見違えるように立派になった屋敷を振り返った。ジェスライールは嫌な顔一つせず、そんなフィリーネに付き合う。
覚悟はしていたけれど、生まれてからずっと傍にあった全てのものと別れるのは、思いのほか寂しくて辛かった。できれば今すぐこの場で前言を撤回し、あの屋敷に逃げ帰りたい。
でも、それはできないと分かっていた。あんなにフィリーネの結婚を喜んでくれる領民たちを前に、どうしてそんなことができようか。
今の自分にできるのは、彼らに不安を悟られないよう笑顔で別れることだけだ。
涙を堪えて必死に笑顔を作るフィリーネ。そんな彼女をジェスライールは真剣な顔で見下ろした。
「フィリーネ。君の人生を狂わせてしまってすまない。……でも、ご両親の前で言ったことは嘘じゃない。我らが始祖、竜王グリーグバルトの名において、君を守るよ。命に代えても」
「ジェスライール殿下……」
その言葉は不安と悲しみに押しつぶされそうなフィリーネの心に温かく響いた。
――この方となら、きっと上手くやっていける。
「はい。よろしくお願いします」
フィリーネはゆっくりと頷き、本物の笑みを浮かべた。
人々が見守る中、フィリーネとジェスライールを乗せた馬車が、王都へ向けてゆっくりと動き出す。
同じ頃、「沈黙の森」の中心にある小さな湖が、金色の淡い光を発していた。周囲では風もないのに木々の枝がざわめいている。
だがしばらくすると光は消え、森は何事もなかったかのように元の静寂を取り戻した。
第二章 竜の一族
「大丈夫?」
「だ、大丈夫、です……」
心配そうなジェスライールに、フィリーネは笑ってみせた。だが胃の中のものが逆流しそうなのを感じて顔を伏せ、新鮮な空気を吸っては吐く。
そうしている間も馬車はゴトゴトと揺れ続けた。
「水は飲めそう?」
「はい。それ、くらいは……」
彼に手伝ってもらって水を飲んだあと、フィリーネは力なく目を閉じる。今は水くらいしか飲むことができない。それ以外を口にしたとたん吐く自信があった。
この体調不良の原因は乗り物酔いだ。住み慣れた家を離れて三十分もしないうちに気持ち悪くなり、それがずっと続いている。
水分しか取れないフィリーネのために、ジェスライールは手ずからコップを口に運んでくれた。さらには馬に休憩を取らせるたびにフィリーネを抱き上げ、外の空気を吸わせてくれる。
――王太子殿下に世話をさせるなんて……
フィリーネはうんうんと頷いたあと、コール宰相の顔を探るように見つめた。
「分からないのは、なぜ私が選ばれたのかということよ。おじ様もご存知の通り、うちは没落寸前で貴族と言っても名ばかりだわ。もっと適任の令嬢が他にいくらでもいるでしょうに」
フィリーネが目の覚めるような美人ならともかく、あいにく少々見られる程度の容姿でしかない。並みいる令嬢たちを押しのけて自分が選ばれる理由が思いつかなかった。
「確かに貴族令嬢は他にもたくさんいる。だがな、めぼしい令嬢は殿下とすでに顔を合わせているんだ。今さら殿下の番とするには少々不都合でな……」
コール宰相が深いため息をつく。
竜族は相手を一目見れば番かどうか分かるのだという。初めて会った時点で何も言わなかったのに、今になって番だと言い出すのは確かにおかしい。
ジェスライール王子が二十歳を過ぎても番を見いだせないことで、呪いのことを知らない重臣たちは焦り、事あるごとに大勢の令嬢を城に招いていたらしい。そのことが裏目に出ているのだという。
「彼らは舞踏会や茶会、若い令嬢たちの社交界デビューの場にまで殿下を引っ張り出して、顔を合わせる機会を設けていた。呪いのことは極秘だから反対するわけにもいかなくてなぁ。おかげで殿下に目通りしていない娘を見つけるのが大変で……」
コール宰相はしみじみと呟いた。ジェスライール王子と顔を合わせていない令嬢をなんとか探し出そうと、苦労してきたことが分かる。
ところが突然グッと拳を握ると、コール宰相はフィリーネを意味ありげに見つめた。フィリーネはうっと身を引く。
「だが、私は思い出したんだ。まだ殿下に顔を合わせていない高位の貴族令嬢がいることを! フィリーネ、君のことだよ!」
「こんな時だけ思い出さなくていいです!」
「国の存亡がかかっておるのだ! ほれ、この通り! 殿下の番として王太子妃になってくれ!」
ソファから滑り落ちるようにして跪くと、コール宰相はいきなり土下座をした。これにはフィリーネはおろか両親までもが仰天する。
「やめてよ、おじ様!」
「お、おい、メルヴィン」
「メルヴィン様……」
「頼む、フィリーネ。私やこの国を助けると思って、引き受けてくれ!」
地面に頭を擦りつけてコール宰相は訴える。
「ちょ、ちょっと、ちょっと!」
これはあまりに卑怯な頼み方ではないかとフィリーネは思った。
「頭を上げてよ、おじ様! 情に訴えるやり方は酷いと思うんですけど! だいたい、殿下と会ったことがない人は私の他にもたくさんいるはずです」
王族の番は身分を問われない。つまり貴族でなくたって構わないのだ。平民の中になら、ジェスライール王子と顔を合わせたことがない娘は山ほどいるだろう。
「王都に美人で働き者だと評判の娘はいないんですか? そういう娘を殿下が見初めたことにすれば、こんな田舎の没落貴族を番にするよりよっぽど説得力が……」
「もちろん本物の番なら平民でも構わないが、かりそめの番となるとそうはいかんのだ。万が一偽物だと知られようものなら、その娘の命が危うい」
もし本物の番でないとバレても、侯爵令嬢という身分がフィリーネを守ってくれる。貴族に危害を加えれば重い罪に問われるからだ。コール宰相はそう言いたいらしい。
「それにキルシュ侯爵家には、かつて王族が降嫁なさっている。フィリーネが王族の血を継いでいることも重要なんだ」
そこでキルシュ侯爵が異議を唱える。
「でもね、メルヴィン。時の王女殿下が我が家に嫁いできたのは、もう四百年も五百年も前のことだよ? 王族の血なんかとっくに薄れて……」
「それがそうでもないんだ」
コール宰相が、がばっと上半身を起こした。
「知っての通り、竜王陛下は金色の鱗を持っていて、人の姿の時も髪と瞳は金色だったそうだ。その名残で、王族はほぼ例外なく金色の髪か瞳を持って生まれる。そしてフィリーネの琥珀色の瞳、これも王族の血を引く者には稀に表れる特徴らしい。いわゆる先祖返りだな。さらにフィリーネには『力』があるとジェスライール殿下は仰っている。そのこともあって、フィリーネが王太子妃に適役だと――」
「待って、おじ様。誰が仰っているですって?」
この琥珀色の目が先祖返りだの、自分には力があるだのと、色々気になることを言われた。だが、一番気になったのはそのことだった。
「ジェスライール殿下だよ、もちろん」
「は? なんで殿下がそんなことを知っているの? 会ったこともないのに」
「ああ、候補に挙がった女性たちを、ジェスライール殿下はわざわざ確認しに行かれたそうだ。そしてフィリーネを見た時、微かな魔力があるのを感じたらしく、それが決め手となった。フィリーネを王太子妃に迎えたいと、ジェスライール殿下が自ら選んでくださったのだぞ? 名誉なことじゃないか」
「殿下は、いつ私を確認したというの?」
知らぬ間にこそこそ見られて値踏みされていたのだから、フィリーネとしてはいい気分はしない。
コール宰相は床に座り込んだまま首を傾げる。
「さぁ? 殿下は不思議な力をお持ちだからだな。気になるなら直接殿下に尋ねればいい。フィリーネにならお答えくださるだろう」
「……王太子妃になることを承知してはいないんですけど」
「フィリーネにとっても悪くない話だぞ? このまま田舎に引っ込んでいても、嫁のもらい手はない」
「それは……」
痛いところを突かれてフィリーネはぐっと詰まった。それを見たコール宰相の顔に狡猾そうな笑みが浮かぶ。
「もし王太子妃になることを承知してくれるのなら、悪いようにはしない。何よりキルシュ侯爵家は王太子妃の実家になるのだから、国から充分な資金援助を受けられるぞ」
「資金援助……?」
「うむ。毎月五百万ルビーでどうだ?」
キラリと目を光らせながら、コール宰相は具体的な数字を挙げた。
「毎月五百万ルビー!?」
フィリーネは思わず声をあげた。ルビーというのは、この国で一番高額な通貨だ。五百万ルビーともなれば、キルシュ侯爵家の年収に相当する。
毎月五百万ルビーが入るのならば、家の修繕もできるし、ベンたちに給料を支払っても余裕で余る。失って久しい土地も買い戻せるかもしれない。
フィリーネはごくりと喉を鳴らした。
――私が王太子妃になるのを承知すれば、もうお金の心配はなくなる……
フィリーネの心がぐらぐらと揺れていることに気づいたコール宰相は、さらに畳みかける。
「心配いらない。王太子妃と言ってもお飾りの妃でいいんだ。今の王妃陛下は精力的に政務をこなされているが、フィリーネ自身が望まなければそれに倣う必要はない。それに――」
コール宰相の口元に笑みが浮かぶ。フィリーネを生まれた時から知っているので、彼女の心を動かす術を充分心得ていた。
「国王陛下によれば、殿下の呪いを解く方法がないわけではないそうだ。殿下の呪いが解けて本物の番が見つかれば、フィリーネが王太子妃でい続ける必要はない」
「……つまり、期間限定の王太子妃だというわけね?」
フィリーネの呟きに、コール宰相はしたり顔で頷いた。
「そうとも。単に宮殿に雇われただけと思ってくれればいいんだ」
単に宮殿に雇われただけ。その言葉は妙にフィリーネの心に響いた。
確かに、王太子妃になる代わりに資金援助を受けられるのだから、お金で雇われたとも言える。
それにジェスライール王子の呪いが解けて真の番が見つかれば、フィリーネの役目は終わるのだ。
「フィリーネ……」
両親が心配そうに見ていることに気づかず、フィリーネは胸算用をする。コール宰相の術中にまんまと嵌っていることも知らずに。
しばし考え込んだあと、フィリーネは顔を上げた。
「分かったわ。王太子妃になります。その代わり資金援助の件、忘れないでね、おじ様」
「じゃあ、十日後に迎えが来るからな」
フィリーネの返事を聞くやいなや、そう言い残してコール宰相は帰っていく。
彼を乗せた馬車と護衛の兵士たちを玄関先で見送りながら、フィリーネはふと思った。
――ジェスライール殿下は、どうして「沈黙の森の魔女」に呪われたのかしら?
コール宰相が言ったのは魔女に呪われたという事実だけ。原因については一切言及しなかった。
――まぁ、次に会った時でいいか。
そうのんきに考えるフィリーネは、コール宰相がいくつもの重要な事実をわざと隠したことにまだ気づいていなかった。彼がそそくさと帰ったのは、それについて質問されたくなかったからだということにも。
馬車の姿が見えなくなると、両親が心配そうに声をかけてきた。
「フィリーネ。私たちのことなら気にしなくていいんだぞ? いっそ貴族をやめて農夫になっても構わんし」
「そうよ。王太子妃になるのはとても大変なことだわ。私たちのためにあなたが重い責任を背負う必要はないのよ」
今ならまだ間に合うと口をそろえるキルシュ侯爵夫妻に、フィリーネは微笑んだ。
「大丈夫よ。王太子妃になるって言ってもお飾りでいいんだもの。殿下に真の番が現れるまでのことだしね。……それに」
言うべきかどうか迷いながらも、結局フィリーネは口にした。
「おじ様はあんなふうに土下座までしてくれたけど、本来ならこれは断れない話なのでしょう? 違う?」
「それは……」
キルシュ侯爵は言いよどんだ。
コール宰相は土下座して頼み込み、破格の条件まで示してくれたが、そこまでする必要はなかった。彼はたったひとこと口にするだけでよかったのだ。――これは王命だと。
そう言われてしまえばフィリーネたちに逆らうことはできなかっただろう。コール宰相が王命だと言わなかったのは、キルシュ侯爵家への気遣いに他ならない。
「おじ様がそこまで配慮してくれたんだから、今さら嫌だなんて言えないわ。それに、私はキルシュ家だけじゃなくて、ここが好きなの。土地や領民がね。私が王太子妃になることで、みんなの暮らしが楽になるなら、こんなに嬉しいことはないわ」
侯爵家にお金がないばかりに、領民たちにも不便な生活をさせているという現実を、フィリーネは知っていた。
川が増水して橋が流されても、その建て直しすらままならないのだ。領民たちが木を切り出し、粗末な橋をつくって急場を凌いでいるが、また洪水が起こればすぐに流されてしまう。
お金。お金さえあれば……。フィリーネはずっとそう思っていた。
喉から手がでるほど欲しいお金が、王太子妃になれば手に入る。どうして引き受けずにいられるだろうか。
「王都ではおじ様が色々助けてくれるはずだし、お飾りの王太子妃としてのんびり過ごすつもりよ。生まれてこの方贅沢なんてしたことがないから、楽しみだわ」
フィリーネはいつも以上に明るく笑った。
もちろん、偽りの番を演じなければならないのだから、そう気楽にはいかないだろう。でも、どんなに辛い目に遭ったとしても、キルシュ家と領地のことを思えば耐えられる。
「だから、私のことは心配しないで」
「フィリーネ……」
笑顔と言葉の裏に隠されたフィリーネの不安。それを分かっているのか、両親の表情が晴れることはなかった。
* * *
『十日後に迎えが来る』
その言葉通りにきっちり十日後、キルシュ侯爵邸の玄関先には王家の紋章が入った四頭引きの馬車と、馬に乗った護衛の兵士たちが並んでいた。
持っている服の中で一番上等なシュミーズドレスを着込み、私室の窓から外を眺めていたフィリーネは、予想以上に大げさな迎えに顔をしかめる。
――てっきり密かなお迎えだと思っていたのに。
これでは王族に縁のある重要人物が乗っていると、大声で主張しているようなものだ。
確かに「番」は重要だが、これほど大々的にする必要はあるのだろうか?
そう思っていたフィリーネだが、馬車の中から現れた人物を見てハッとした。
扉から出てきたのは、軍服らしき服を身に纏った青年だ。明るい金色の髪が日に照らされてキラキラと輝いている。
――まさか!?
三階の窓からでは顔がよく見えない。けれど、王家の馬車から堂々と出てきた様子といい、伝え聞いていた容姿と一致する点といい、どう考えても「あの方」としか思えなかった。
――どうしよう。お父様からは、呼ばれるまで部屋で待機していろと言われたけれど……
フィリーネはそわそわと部屋の中を歩き回る。思いもかけない事態になり、故郷を離れることへの寂寥感は一気に吹き飛んでいた。
しばらくするとヘザーが慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
「た、大変です、お嬢様! 殿下が! ジェスライール殿下が来ておられます!」
――やっぱり……!
王家の紋章が入った馬車で来るのも、大勢の兵士を引き連れているのも当然だ。王太子本人が迎えに来たのだから。
「すぐに行くわ」
「お嬢様が来るのを待ちきれず、自ら迎えに来られたそうですよ。愛されていますね、お嬢様」
ヘザーは嬉しそうに顔をほころばせる。彼らが知っているのは、フィリーネがジェスライール王子の「番」に選ばれたということだけだ。
『なんという幸運でしょう! お嬢様がいなくなるのは寂しいですが、このままお嫁にも行かず田舎でひっそり暮らされるのかと心配しておりましたので、喜ばしいことです』
何も知らない二人はフィリーネに降って湧いた幸運(と彼らは思っている)を喜んでくれた。彼らを騙すのは心苦しいが、真実を告げることはできない。
フィリーネはヘザーの皺だらけの手を取って言った。
「下では話す余裕がないかもしれないから、ここで言っておくわ。ヘザー、お父様たちのことをお願いね」
「お嬢様……。はい、旦那様たちのことはご心配なさらず。おかげさまで使用人も増えましたし、家のことは私たちがしっかり守りますから」
ヘザーは目を潤ませてフィリーネの手を握り返す。
コール宰相がやってきた日の三日後、キルシュ侯爵家には支度金としてかなりの大金と、宰相が手配した使用人たちが届けられた。それだけでなく、家の修理工まで大勢派遣されてきたのだ。
彼らの素晴らしい働きにより、荒れ放題だった屋敷は見違えるように綺麗になり、往年の姿を取り戻している。
ありがたいことだが、そんなコール宰相の気配りもフィリーネを逃がさないためだと分かっているだけに、どうにも追い込まれている感じがして仕方なかった。それは両親も同じだろう。
でも言い換えると、王宮はそれだけ「番」を必要としているということでもある。だからフィリーネが「かりそめの番」の役目を果たしてさえいれば、コール宰相は約束を守ってくれるはずだ。
――だから、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、ヘザーと一緒に玄関ホールに下りる。そしてフィリーネは、ホールの一角を占める華やかな集団に目を奪われた。
華やかというより壮麗と言った方がいいかもしれない。剣を腰に差し、一糸乱れぬ様子で立ち並ぶ上級兵士たち。その中心にいるのは、青の軍服を身に纏ったジェスライール王子だ。
すらりと背が高く、一見細身だが、その立ち姿は周囲の兵士たちに少しも見劣りしていない。それどころか、ただ立っているだけで品格と威厳が伝わってくる。
その姿に圧倒されて、フィリーネは声も出せなかった。階段を下りきったところで足も止まってしまう。本当だったらジェスライール王子に自分から声をかけて、淑女の礼を取らなければならないのに。
立ち尽くしたままのフィリーネに気づき、ジェスライール王子が微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「フィリーネ」
やや長めの金髪に、明るい水色の瞳。若い頃のジークフリード国王とよく似た端整な顔の持ち主で、元帥として軍の頂点に立っている。だが気質はいたって穏やかで、老若男女から広く支持されている――というのが、フィリーネの知っているジェスライール王子の情報だ。
それに、少年の頃の絵姿を見たこともある。王族に心酔しているコール宰相――当時はまだ宰相ではなかったが――が、王族一家が描かれた絵を贈ってくれたからだ。それは田舎にいて王族の姿を知る機会がないフィリーネのためだった。
けれど、どうやらあの絵はジェスライールの煌びやかさや美しさを描ききれていなかったようだ。すっと通った鼻筋も、長いまつ毛も、色気すら感じられる口元も、あの絵にはないものだった。
――これなら、貴族女性たちが騒ぐのも無理はないわね。
徐々に近づいてくる美貌に目を見張りながら、フィリーネはそんなことを考えていた。
「フィリーネ。僕の『番』」
目の前に立ったジェスライールは、水色の目に甘い光を浮かべてフィリーネの手を取る。
「え?」
「君を迎えられるこの時を待っていたよ」
やや掠れた声で優しく囁かれ、フィリーネは混乱した。
――い、一体何が起こっているの?
けれど、彼の口元に浮かんだいたずらっぽい笑みに気づいて納得する。
――ああ、そうか。これはお芝居なんだ。
玄関ホールには兵士たちだけでなく、キルシュ侯爵夫妻や使用人たちも集まっていた。この中で真実を知っているのはフィリーネと侯爵夫妻、それにジェスライールを含めてもわずか数人だけだろう。
つまり大部分の人間にとって、フィリーネはジェスライールが待ち望んでいた「番」なのだ。ジェスライールはただ周囲の人々が期待する姿を演じているだけに過ぎない。
それならフィリーネも同じように振る舞うだけだ。なぜならジェスライールと自分はある意味、運命共同体なのだから。
「お迎えありがとうございます、殿下。私が『番』だなんてまだ信じられませんが、どうか末永くよろしくお願いいたします」
「君は紛れもなく僕の運命の伴侶だ。こうして出会えたことを神に感謝しよう」
番を見いだすことができない王族と、その「かりそめの番」。これから自分たちは、こんなふうに周囲の人々を騙していかなければならないのだ。
「フィリーネ……」
キルシュ侯爵夫妻がおずおずと近づいてくる。それに気づいたフィリーネは、ジェスライールの手を放して両親に向き直った。
「お父様、お母様、行ってきます」
フィリーネが微笑むと、両親は悲痛な顔をした。
「気をつけてね。私たちのことは気にしなくていいから」
「そうだぞ。領地や領民も大事だけれど、フィリーネ以上に大切なものなんかないんだからな」
「お父様、お母様……」
フィリーネの目に涙が浮かぶ。自分で決めたこととはいえ、二人の傍を離れるのはとても辛かった。
「心配なさらないでください。キルシュ侯爵、それに侯爵夫人」
その声と共に、不意に肩に手を置かれた。フィリーネは驚く間もなく、ジェスライールの胸に抱き寄せられる。その瞬間、馴染みのある匂いがふわりと鼻を通り抜けた。
――水の匂い?
フィリーネは不思議に思ったが、次のジェスライールの言葉に気を取られ、匂いのことはすぐに忘れてしまう。
「彼女は僕が必ず守ります。……どんなことからも」
その声は低く、真摯な響きを帯びていた。だが、言葉の本当の意味に気づいた人間はどれほどいるだろうか。
キルシュ侯爵夫妻はもちろん気づいていた。そしてフィリーネも。
「どうか、くれぐれも娘を頼みます、ジェスライール殿下」
深々と頭を下げるキルシュ侯爵夫妻。ジェスライールはフィリーネを胸に抱いたまま力強く頷いた。
「行ってらっしゃい、お嬢様!」
「お元気で! 殿下、お嬢様をお頼み申し上げます!」
駆けつけた領民たちが見守る中、フィリーネはジェスライールに手を引かれて馬車へ向かう。
途中で何度も足を止め、集まった領民や両親たちを、そして見違えるように立派になった屋敷を振り返った。ジェスライールは嫌な顔一つせず、そんなフィリーネに付き合う。
覚悟はしていたけれど、生まれてからずっと傍にあった全てのものと別れるのは、思いのほか寂しくて辛かった。できれば今すぐこの場で前言を撤回し、あの屋敷に逃げ帰りたい。
でも、それはできないと分かっていた。あんなにフィリーネの結婚を喜んでくれる領民たちを前に、どうしてそんなことができようか。
今の自分にできるのは、彼らに不安を悟られないよう笑顔で別れることだけだ。
涙を堪えて必死に笑顔を作るフィリーネ。そんな彼女をジェスライールは真剣な顔で見下ろした。
「フィリーネ。君の人生を狂わせてしまってすまない。……でも、ご両親の前で言ったことは嘘じゃない。我らが始祖、竜王グリーグバルトの名において、君を守るよ。命に代えても」
「ジェスライール殿下……」
その言葉は不安と悲しみに押しつぶされそうなフィリーネの心に温かく響いた。
――この方となら、きっと上手くやっていける。
「はい。よろしくお願いします」
フィリーネはゆっくりと頷き、本物の笑みを浮かべた。
人々が見守る中、フィリーネとジェスライールを乗せた馬車が、王都へ向けてゆっくりと動き出す。
同じ頃、「沈黙の森」の中心にある小さな湖が、金色の淡い光を発していた。周囲では風もないのに木々の枝がざわめいている。
だがしばらくすると光は消え、森は何事もなかったかのように元の静寂を取り戻した。
第二章 竜の一族
「大丈夫?」
「だ、大丈夫、です……」
心配そうなジェスライールに、フィリーネは笑ってみせた。だが胃の中のものが逆流しそうなのを感じて顔を伏せ、新鮮な空気を吸っては吐く。
そうしている間も馬車はゴトゴトと揺れ続けた。
「水は飲めそう?」
「はい。それ、くらいは……」
彼に手伝ってもらって水を飲んだあと、フィリーネは力なく目を閉じる。今は水くらいしか飲むことができない。それ以外を口にしたとたん吐く自信があった。
この体調不良の原因は乗り物酔いだ。住み慣れた家を離れて三十分もしないうちに気持ち悪くなり、それがずっと続いている。
水分しか取れないフィリーネのために、ジェスライールは手ずからコップを口に運んでくれた。さらには馬に休憩を取らせるたびにフィリーネを抱き上げ、外の空気を吸わせてくれる。
――王太子殿下に世話をさせるなんて……
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